1930年頃 尋常高等小学校5年生当時(左側) 1934年(昭和9)14歳 3月、吉田尋常高等小学校高等科卒業。 3月、春の青龍展に『ビルディング』を出品。 」(「独断する水墨」) *「日本人というのは、模倣しながら上澄みだけ器用に吸って、だんだん太ってきたというようなところがある。
9開館記念は三鷹市にゆかりの深い横山の展覧会で、という市長らの要請を受けて、実行委員会には美術評論家の村瀬雅夫さん(当時福井県立美術館館長、元読売新聞文化部記者)、基子夫人、横山の愛弟子・米谷清和さんらを招いて組織したという。
三鷹市美術ギャラリーは、敢えて大回顧展を追わずに、横山の制作現場への接近を試み、横山の素顔を垣間見せてくれました。
14歳で新潟から単身上京。
」(船戸洪吉、「毎日新聞展評」) 1963年 「海」 7月、横山操小品展(村越画廊)に『水田』などを出品。
概要 横山操 1920~1973 と加山又造 1927~ の二人は、ともに戦後の日本画壇が生んだ先鋭的な日本画家です。 <申し込み> お電話(0250-25-1300)、またはメール()で 申し込みください。 『白壁の家』で春展賞を受賞。
9そういうものが日本画の中にあるのではないかという気がする」(「画家との対話」) 1971年(昭和46)51歳 4月、脳卒中で倒れ、一週聞の意識不明後、右半身不随となる。
8月、第29回青龍展に『塔』『踏切』を出品。
たしかに、吸湿性の、白っぽい胡粉によって支配された日展の会場は、歩いているうちに、しだいにわたしの視野を濁らせ、不透明にしてしまった。
」(加山又造「横山さんの絵によせて」) 3月、第4回轟会展にl『紅白梅』『早春』を出品。
7cm 墨、紙 浅倉さんが以前に取り組んだ横山展は、「三鷹市美術ギャラリー開館記念 絵画新生の熱情-横山操展」( 1993年 10月 14日~ 11月 23日)。 五浦の美術院では、大観も観山も春草も、広い部屋に並んで制作に励んだ。
《白梅図屏風》 1963年 176. 『時化』で春展賞を受賞。
横山操学内共同研究会による企画展が、11月9日(土)から15日(金)の間、八王子キャンパスのアートテークギャラリーで行われます。
その後召集され、捕虜生活を経て帰国する頃には30歳になっていました。
藤森 横山君には白隠の痛快さがないということですね。
1968年 越路十景展(彩壺堂画廊)。
6月、現代美術の焦点シリーズ第1回展(日本橋白木屋)に『富士』など8点を出品。
「春がすみに桜島がコバルト色に見える。
穏やかに制作活動に取り組む操を病魔が襲い、《絶筆》を遺して53年の生涯を閉じました。 その狙い通り、横山の激しさ、孤独感と、家庭的なやさしさの両面が伝わってくる展覧会になった。 しかし、迫ってくるのは初めて渡米し、目に焼き付いて描いた大作「グランドキャニオン」。
3回復後は左手で制作を続けた• 生まれてまもなく、実母は東京へ嫁がされ、彼は横山家に養子に出されたらしい。
上野谷中の天王寺の五重塔が焼失、その報をきいてたちまち現場にかけつける。
このことは彼の出自に関わっている。
図録には基子夫人や日本画家で横山の盟友でもあった加山又造さんらのエッセーも掲載された。
線なら線といいますと、何か痛快さというものではないかと思う。 67年に毎日新聞に127回連載された、永井龍男の「石版 東京図絵」に横山が添えたのは、遊ぶ子供、働く職人、晩酌をする男、髪を結う女などたそがれた温かさを感じさせる生活感あふれる挿絵だった。 広々とした会場にふさわしい絵を目指したつもりが、床の間空間に飾ることを前提として小さく優美にまとめる院展の方向性と合わなかったのです。
15。 」(河北倫明「朝日新聞展評」) 12月、踏青会展に出品。
横山操年譜 1920年(大正9) 1月25日新潟県西蒲原郡吉田町に生まれる。
1950(昭和25)年 復員。
また、故郷の新潟に着想を得た風景を叙情豊かに表現しています。
この頃から金銀の箔を使用しはじめて、黒ばかりが目立った作風が変化する。 三柳堂画廊でひらかれた野生会第1回展に出品した『野の夕』であった。
11月、第3回荒土会展に『ベニス』などを出品。
空白の10年を経て、青龍社の門を再びくぐり、以後毎年青龍展に出品、賞を重ねていきました。
働いた会社名は不二ネオン。
」という横山のことばどおり、次第に売れっ子になってゆく。 (略)日本画と洋画同一論ではなく、画然と違っていることの根元を探るべきだ。 *「われわれは、ともすると、世界画壇の情報化の火中に身を焦がされていないか。
108月、第27回青龍展に『対話』を出品。
他人に対抗し、自分自身にも反抗し、あわゆる材料をひっさげた孤独な旅人、-そんな心が絵を描かせる。
」(川端龍子、「青龍展目録」) 1956年(昭和31)36歳 1月、求龍堂の石原龍一の支援で、初個展を銀座松坂屋でひらき、『熔鉱炉』『網』『架線』『川』『木』を出品。
実は前年秋に学芸員として着任した浅倉さんが担当した最初の展覧会でもあった。