1郭の東側には腰曲輪があり、そこから登って行くと1郭内部に到達することができる。
別名 信貴城、磯城 所在地 〒636-0923 奈良県生駒郡平群町信貴山1308 城郭の種類 山城 築城者 木沢長政 築城年 天文5年 1536年 主な城主 木沢長政、松永久秀 信貴山城は、戦国時代の日本三大梟雄「 松永久秀」の居城として知られています。
途中の道が細くて分かりにくく、宝清院まで到達すること自体にかなり苦労したのだが、宝清院から大谷池の前を通り、切り通しの道を進んでいくと、やがて松永屋敷のすぐ脇辺りに到達した。
その巨大な張り子の寅は、記念写真のポイントとしても喜ばれています。
土木量も相当なお城です。 この時「騎馬三百余其勢八千余人」 『和州諸将軍伝』 とかなりの軍勢だったと思われている。 便宜上、手の指のようにある支尾根の段郭群を、東側から東尾根の段郭群、松永屋敷、西の各郡、高安山側の郭群と大きく大別します。
5もっともそれほど大規模な腰曲輪はもともとなかったように見える。 ただし、これは奈良県側からアクセスした場合である。
天正5年 1577年 久秀は佐久間盛信に従って本願寺攻めに加勢していたが、再び毛利輝元や上杉謙信、本願寺など反信長勢力に荷担し信貴山城に籠城した。
西の郭群については、最初の2つの段郭から二股にわかれ、尾根筋の中間は手前に段差のある堀切があり、中間郭最大の長さのある郭、その先先端には二段の郭があり、この中間部に石垣が残っているようですが、見に行けてません。
地形的に見て、人工的に造成されたのは間違いないだろう。
桑田忠親「織田信長の手紙」『桑田忠親著作集 第4巻』秋田書店、1979年。
雄嶽山頂 本丸である雄嶽山頂には、 空鉢護法堂など お寺の建物が沢山がありますが、 ここではお城に関する 写真だけにしています。
永禄2年 1559年 松永弾正久秀が大和へ入国すると、とともに信貴山城も改修して拠点とした。
本丸ではなく「天守閣跡」とされるのは、実は信貴山城に「天守閣」が立っており、信長の安土城天主はそれをモデルにした、との説があるから。
信貴山はもともと信仰の山であったが、非常に象徴的な形状の山であるので、ここに城をもつのは一種の威信効果の表明であったのであろう。 そして 新たに大和守護になったのは筒井順慶 その前に塙直政が守護となるも戦死。 主郭は信貴山山頂で東西に長く四段ほどの削平地がある。
17滋賀の佐和山城も確かに同様に広い郭は残りますが、石垣は彦根城築城で使用されほとんど残ってませんが、信貴山城の場合はどうなんでしょうか? まだまだ、見落とした遺構がたくさんありそうですし、今後の整備、発掘調査に期待したい気持ちです。
約4km先、右折が信貴フラワーロードで、直進が信貴山、朝護孫子寺方面になります。
この建物の名称については「高殿(たかどの)」や「高櫓(たかやぐら)」と呼んだという。
また、17時以降は、係りの方が不在となるので基本的には 無料になるそうです。
十月十日の晩に、秋田城介信忠、佐久間・羽柴・惟任・惟任諸口仰付けられ、信貴の城へ攻上られ、夜責にさせられ、防戦、弓折、矢尽、松永天主に火を懸け焼死候。 切通しの道がかつての城塁を削ってしまっている関係で、本来の虎口の形状が失われてしまっているのであろう。 また安土城の天守のモデルとも言われている信貴山城の四層の天守櫓は、この時に炎上したと思われる。
8八十八カ所各寺のお砂も敷いております。
大阪府側からアクセスするのは、かなり難しいのかもしれない。
信貴山城を攻城した団員が残してくださったクチコミ(レビュー)です。
さらにその先にあったDの巨大堀切。
その後、廃城となりました。
ここから約2kmほどで朝護孫子寺駐車場です。
信貴山城跡 標高437mの信貴山雄嶽を中心とする山城で、奈良県下最大規模を有する中世城郭です。
山頂から高安山方面の林道を降りていくと左手にある広い曲輪が見える。