用意する物はたったの2つだけです。 印刷物にするのが困難な楔形文字をラテン文字に転写するものですが、翻字としても、音写としても残念なのものに見えます。 当時銅は、一般的な取引材料として使用されていた。
4ロバ もう、どっちが顔なんだかわかんないです。 そのため、縦・横・斜めに一本の線を刻み形を表す楔形の形状となりました。
この送り仮名は、エジプトのヒエログリフでも知られています。
そのため「ものから人へ、人から社会へ」と、広がり、深化させるという、大切な部分が不十分なまま終わってしまった。
読むことが困難な「Ginkgo」の読みは、徳川綱吉に謁見したエンゲルベルト・ケンペルによるもので、1771年にイチョウの属名として採用されたもののようです。
しかし、ペルシア帝国がアレクサンドロス大王によって滅ぼされ、時代となると楔形文字は使用されなくなり、やがて忘れ去られることとなった。
18アフラ・マズダーは、ペルシャ楔形文字が a-u-ra-ma-z-da 、エラム語部分が an-u-ra-mash-da と表されました。
その内容は85%が物と数量を記した記録で、残りの15%が文字リストである。
彼はさらに1774年には、それまでの資料と自身の調査結果を踏まえ、可能な限り正確性を重視した文字の写しを著書の中で発表。
これがきっかけとなり、ヒエログリフは読めるようになってゆき、翌年にはすっかり読めたのである。
異なる民族が独立に信仰していた神が同一視されるようになったものだと言うことです。
ウガリトからは窯に入れて焼こうとされる寸前の粘土板が発見されているが、これは前1200年頃に「海の民」の侵入でウガリトが滅亡する、まさにその時の粘土板であった。
日本語が漢字で書かれる場合は、ある文字は表音的で、ある文字は表意的に用いられ、文脈によって音価がまちまちに取られる。
また、ilu と書くのは、アッカド人は神をiluと言ったと言う認識に基づくようです。
この後、ある壷に描かれていたアッカド語楔形文字とが、全く同じ意味である事が発見され、解読達成の裏づけとなった(これが、楔形文字を研究するの公式な成立とされている)。 ラピュタ文字を読みながら「読める、読めるぞほほぉー!」って言ってたムスカの気持ちが良くわかります。 また,アッカド語にはシュメール語に存在しない音素もあったため,それらの音を書き表す方法を編み出す必要もあった。
20ローリンソンはイギリス陸軍の士官で,ペルシアのベヒストゥンの崖でベヒストゥン碑文を発見し,そのいくつかを写し取った。 残された、方法という謎 最終的にアッカド語、つまり第三章文字の解読は、ヘンリー・フォックス・タルボット(Henry Fox Talbot。
実際のタブレットは左右2列、新アッシリア字形で記されていますが、下表はシュメールアッカドの字形とUnicodeの文字の名による翻字を付けました。
知られていたいくつかの古代文明で、そういうことがよくあったように、それは同じ内容の碑文が、異なる3か国の言葉で書かれているのだと推測された。
この楔形文字には次のようなことが書いてある。
字形を一義に示す名前を与えます。
正確には、古代メソポタミア文明の研究なのだからメソポタミア学、あるいはアッカド学というほうがいいのだろうが、初期の研究者たちに敬意を表するためか、この分野は「アッシリア学」と呼ばれている。
というわけで、ここでは聞き流しちゃって下さい。
カナン文字ないしフェニキア文字は、どのようにしてできたのかはよくわからない。
その枠を「カルトゥーシュ」とよび、王名は必ずカルトゥーシュで囲んであることがわかった。 いかがでしたでしょうか。
その手がかりとなったのは、あの「ロゼッタ石」だった。
またカッシートの時代(BC1415年頃~BC1154年)には星座絵の原型として紹介される境界石(クドゥルー)が建てられた。
楔形文字はなぜ粘土板に書かれたか 現在、文字、図、写真などは紙媒体に記録されることが主流である(それも、電磁媒体に急速にとってかわられようとしているが)。
文字を書きながら筆を持つ手で前に書いた文字をうっかり押しつぶしちゃった、なんてことが頻繁に起こってとっても不便だった。
でも「楔形文字」はうっすら記憶をたぐりよせることができる。
アカデミア・デグリ・ウモリスティは、1603年ぐらいに発足されたらしい貴族の知識人を主としたコミュニティで、17世紀のローマの文化に大きな影響を残したとされている。
それがある時期からは、英語の教科書みたいに左から右へ横書きで書くようになったんです。
同じ頃アッシリア王ティグラト・ピレセル1世のある碑文を、アッカド語解読に携わってきたヒニクスやオペルなどが別々に解読したところその結果が一致したためにアッカド語の解読終了が宣言されました。
彼は小アジア地方のニケアに生まれ後にロードスに渡った。
紀元前14世紀のエジプトでは(イクナートン)がに遷都し、その地でといわれる一種の文化革命を強行したが、その地から1887年に偶然発見されたといわれる文書群は380数点におよび、楔形文字で書かれた語の国際文書であった。 -はマクロン、^は曲折アクセントなどと呼ばれるようですが、ここはわかりやすく真っ直ぐのやつ(-)と三角のやつ(^)でいいですかね? *子音* アッカド語の子音は以下の通りです。
2例えば、「牛」という単語をあらわすのに牛の頭を描いたり、「食べ物」をあらわすのにお茶 碗の絵を描いたりと、そういうことです。
ただ、 イランを中心に栄えていた、アケメネス朝(紀元前550~紀元前330)のペルシアの首都だったらしいペルセポリスという宮殿都市だけは、けっこう知られていたようである。
左図は、例外で、EA1 の字形になっています。
シナイ文字と関係がぜんぜんないとはいいきれないが、エジプト文字からの直接の影響によってできたと考えたほうがよいだろう。
翻字は字形をコード化することに他なりません。 そのため、今日大英博物館にあるのだが、フランスにはその写しと、石膏で作ったコピーがその前に送られていた。 シュメール楔形文字の後世の借用は、少なくともシュメール文字のいくつかの特徴を保存している。
10フランソワ少年は、あるとき、当時の有名な学者のフーリエのところで、エジプトの出土品のコレクションを見た。 ヨーロッパには独自の文字がなく、彼らは東部地中海の人々が改良したものをうけついで使ったのだった。
例えて言うなら、「アルファベット」と「英語」は違うという事です。
二十年ほどの年月が必要だった。
彼はエジプト文字を読み解こうと決心し、こうして着々と研究をすすめたが、それは容易なことではなかった。