結局、順慶は盟友・光秀ではなく、 秀吉側に付くことになります。 九十九髪茄子の献上を描いたのは、松永久秀の伝説として伝えられる「爆死事件」への前振りかのう…。
18永禄十年(1567年)順慶は、再び三好三人衆や 篠原長房 しのはらながふさ と結んで奈良の大仏殿を占拠して要塞化、近くの 多聞山城 たもんやまじょう の久秀と 対峙 たいじ 、東大寺大仏殿を巻き込む合戦になります。
筒井順慶は一族を頼り布施城に落ち延び、裏切った高田当次郎の高田城を襲撃し、数日後に城下町を焼き討ちにしました。
後に石山合戦で猛威を振るう雑賀の鉄砲隊はこのころから恐怖の的だったんですね。
前田慶次氏が自身のYouTubeチャンネル「前田慶次5分で戦国時代チャンネル」にてNHK大河ドラマ『麒麟がくる』を徹底解説している。
以後も事実上の信長の家臣として攻めに参加するが、次第に久秀と義昭は反目を深め、それと共に義昭を擁する信長との関係が悪化していく。 堀の内側にはがあり敵の侵入を防いだ。
16翌年には大和一国をほぼ手中に収め、信貴山城と、新たに築いた多聞山城を拠点として、大和の支配を確かなものとした。
元亀2年()5月、久秀はの家臣で自らの指揮下にあったを奈良に招いて殺害すると、その本拠であるを攻めた(『』『二条宴乗記』)。
松永久秀は、堺の会合衆(有力商人たち)に取り次ぎを依頼し、和議を結びました。
衆徒のうち20人が4年を1期とし、「官符衆徒」または「衆中」と呼ばれ、興福寺の警察権を担った。
筒井城を失ったことで久秀の居城、 信貴山城 しぎさんじょう と多聞山城を繋ぐ経路が分断。 * * * 戦国時代の大和国(奈良県)は、大名不在の国と言われていた。
彼らは自分自身の家から多くの料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に値した。
『松永弾正久秀』(1996年、)• 弘治2年(1556年)のことである。
まとめ 順慶の死後は、養嗣子である定次が家督を継ぐことになりました。
翌年の天正9年(1581年)6月3日、 かねてより確執があった吐田遠秀を郡山城で謀殺し、 6月15日にその領地を与えられています。
恐いもの無しの久秀は、 郡山辰巳衆 こおりやまたつみしゅう を統率して筒井城に迫り、順慶は再び城を追われて 福住順弘 ふくすみじゅんこう の下へ逃げます。
14筒井順慶を簡単に説明するとこんな人! 【出身国】大和国、筒井城 【生没年】1549~1584年 享年36歳 【役職】大和国の大名 【立場】明智光秀の与力• 足利義昭が筒井順慶と縁組した為、久秀謀反 その敵とは、松永久秀が仕えている形式上の主君である足利義昭です。 当初、筒井城には多聞山城の石が運ばれたが、低湿地で地盤が弱く、近世的な城郭への改修は難しかったようだ。
急遽 きゅうきょ 、筒井順慶は 家督 かとく を継ぎ、 叔父達 おじたち の 補佐 ほさ を受けて領地を運営します。
信長の野望における筒井順慶 シリーズによっても異なりますが、筒井順慶のステータスは統率51、武勇48、知略77、政治81となっています。
江戸時代後期の旗本である 筒井政憲(つつい まさのり)は、筒井順斎の子孫に当たります。
しかし、筒井城そのものは持ちこたえた。 概要 [ ] 初めはに仕えたが、やがて内で実力をつけ、との折衝などで活躍した。 なので、一般的な戦国大名とは違い、僧兵がそのまま大名化したような不思議な家でした。
14松永久秀は筒井氏の本拠・筒井城を取り囲むように信貴山城や多聞山城を築城し、筒井氏を牽制しました。
正式に順慶を名乗るのはこの時からとされています。
日露和親条約の交渉を行ったことで知られています。
しかし、これまでの経緯から、光秀には恩があり、なかなか割り切れない部分もあったと思います。
信長は天正3(1575)年に、大和支配の担当者として尾張から直臣の塙(ばん)直政を派遣します。 (、演:)• 明智光秀の与力になった順慶 天正4年(1576年)の石山本願寺戦で、原田直政は亡くなり、筒井順慶に大和の支配が任されます。
松永久秀は、郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫ります。
『戦国ドキュメント 松永久秀の真実』• ところが、久秀の熱心な看病により母は全快しました。
大和国での評判 東大寺の戦いの際には、筒井順慶は興福寺を通して東大寺への布陣の許可を申請していますが、寺側も積極的にこれを許容しています。
ところがこのころ、巨大なインパクトが畿内に起きていた。 筒井順慶の跡継ぎで養子の筒井定次の正室は、織田信長の娘ですが、一説には実父は明智光秀という説もあります。 順慶の叔父順政は、永禄7年(1564)に討ち死にする。
『筒井城総合調査報告書』• 奈良市街は北部の佐保丘陵にある多聞山城を中心に松永方が、興福寺周辺までが筒井方、間に東大寺が挟まって対峙していたと考えられます。
義輝が参内などをする際、久秀は義興と共に幕臣として随行しており、また義輝の元に出仕して仕事を行う頻度も増えてゆく。
ずるがしこい梟雄としての久秀に関する逸話は、江戸時代初めごろに太田牛一が記した書物が元になっています。
しかし、天文19年(1550年)、筒井順昭は病没してしまい、数え年で 2歳の筒井順慶が家督を相続します。
この頃、久秀は長慶と「相住」(同居)の関係(『厳助大僧正記』)にあり、長慶の側近として特に重用されていた。 22歳の「若造」に煮え湯を飲まされた久秀の屈辱はいかばかりであったろうか。 しかしながら畠山勢には切り札の部隊がありました。
城郭談話会『図説近畿中世城郭事典』城郭談話会、2004年12月、118頁-119頁。
1565年には、松永久秀と三好三人衆が室町幕府将軍・足利義輝を暗殺する永禄の変を起こしますが、後に仲間割れします。
同年、信長朱印状で 大和一円は、正式に筒井順慶に任され、大和 郡山城入城が命じられました。
自害した久秀の亡骸をこの地に葬ったのはライバルの筒井順慶と伝わる=王寺町本町2 久秀が最期を迎える際、所有していた名物の茶釜「平蜘蛛(ひらぐも)」を信長に渡したくないために打ち砕き、自身も火薬で爆死したという逸話もありますが、もちろん後世の創作です。
そのような衆徒となった国人の代表には古市氏や筒井氏がいます。 天理大学准教授の天野忠幸さんの研究によれば、信長に臣従したのではなく、この段階での両者は「同盟」関係にあったという。 久秀の出身の大阪府高槻市は、毘沙門天(多聞天)信仰が強い所です。
12信長の上洛と台頭は、筒井順慶にとっても重要な出来事ですが、松永久秀に気を取られ、情報収集が遅れてしまったと云われています。 「元の木阿弥」とは、この話から生まれた故事成語なのである。
実際これ以降の久秀の行動は義継とほぼ共にあり、三人衆や阿波三好家()とは激しく対立したものの、やはり三好家当主には忠実だったと言える。
(『多聞院日記』) 天正11年(1585年)8月26日 興福寺成身院。
永禄2年(1559年)3月、三好長慶はで花見を開催する。