この見解は一人では生きられない、二人でようやく一人前の私たち という表現を伝えています。 山頭火は「山は街は梅雨 晴るる海のささ濁り」という歌を旅の途中で詠んでいるんですが、そこからとって「雨晴るる」というタイトルにしました。
岐阜の山の上にあるプールによく行ったんですけど、底が深いプールで、身体から完全に息を吐き切って沈んで上の方を見ると、日光が綺麗に差している。 ただし、そうするうちに「ノーチラス」(作家・ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』に出てくる潜水艦の名)よろしく、とんでもない深みに潜っていくことにはなるだろう。
— 治野 harunote2016110 ただ、ただ、綺麗。
『エルマ』の物語の中では、エルマが湖に飛び込んだ後、月明かりのような日の光が見える。
その点を考慮して解釈していきましょう。
余談ですが「止まったガス水道」のフレーズとともに 挿入されたMVのシーンは「ただ君に晴れ」にも挿入 されていたシーンでした。 そして手紙の初めには、もうインクが残り僅かになったことが書かれていた。 10月に東名阪でツアーが予定されていますが、これはどんな感じになりそうでしょうか? Suis ライブという舞台装置のある場所で、生の音楽でこの2枚のアルバムの世界観を届けられたらなって思います。
それは人生にも言えることであり、エイミーにとってその物語は音楽でしか表せないそうだ。
『人生って面白いな』って感じでした(笑)。
曲の登場人物が同じだったり、藍二乗で描写されている風景などが歌詞となっており、藍二乗の続編が八月、某、月明かりであると考えがちですが、よーくアルバムの収録曲の曲名を見ると トラックの番号が大きくなればなるほど過去に遡っているのがわかります。
n-buna そうですね。
「仰ぐ」には3つ意味があります。 エイミーが空を見上げると涙で視界が滲み、空の藍色が 涙で二重に見えるという情景だ。
15「山椒魚」は簡単に言えば、どんどん自分の体が肥大していってそれによって岩屋から出られなくなった山椒魚が、ある日迷い込んできた蛙を閉じ込めてしまう話です。 『エルマ』も青年に憧れてピアノを始めているので、それは共通していますね。
わが子の人生がより一層輝かしいものになることを、心から望む親心を表現することもできそうですね。
僕だって信念があった 今じゃ塵みたいな想いだ 何度でも君を書いた 売れることこそがどうでもよかったんだ 本当だ 本当なんだ 昔はそうだった だから僕は音楽を辞めた 「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna そんな音楽に対する葛藤と矛盾が、エイミー自身を狂わせ、行き着いた果てが 音楽を辞めるという決断に繋がってしまったのではないだろうか。
ググってみると「狭心」という言葉はないので、狭心症から取られていると思います。
日記帳の日付では「雨とカプチーノ」を書いているのは9月の初めになっています。 エルマという人間は音楽を辞めた「エイミー」という青年が残した作品に影響を受けて、それを真似るように生きてしまう。
一応藍二乗を作詞しているのはエイミーのはずなので。
つまり「夜隅」とは「 よるのはて」と解釈できます。
手記とか読んでないので憶測です 長々と書きましたが、座標に関してです。
特に注目したい点は「ウミユリ海底譚」の 「僕の心が藍色のように暗く染まっていく」という歌詞です。 「自分の死を嘆き悲しみたい」と素直に解釈すれば、一見うまく解釈できていそうですが、主人公は曲中で外面の自分を作り上げている(エルマを失って弱っていた自分を隠している)ので、少し違和感が残ります。
17「藍(アイ)」の一文字名前で女の子の名前に使われることが多く、ほかに漢字を組み合わせて藍花(アイカ)や藍乃(アイノ)、藍莉(アイリ)、藍未(アイミ)などの名前も見られます。 。
そこで、自分の中の「自分」が死んで欲しいと解釈することでこの違和感を回避しています。
コンセプトをしっかり固めた上で、その作品の中に音楽というものがあって、それをパッケージして世に出すということがしたかったのが、ヨルシカの始まりですね。
ここで「夜隅」というスラングが出てきます。
そして自分の人生の期限さえも自分で決めてしまう程の芸術至上主義だったということになる。 この染料をもとに衣服や手ぬぐい、暖簾(のれん)などを染め上げる染色方法の1つが「藍染め」です。
ストレートにその場面や心情を描いたMVを作っています。
Suisの透き通るような声で歌われるヨルシカの美しいメロディーは、一度聴き始めたらどんどん耳に入ってきて、ずっと聴き続けられるような魅力を持っています。
昔はそんなことばかり私は求めていて、その言葉を探していた。
落ち着いた印象の「藍(アイ)」 「藍」は「アイ」の響きでよく名付けに使われ、同じ響きをもつ「」に比べて、 落ち着いた和の雰囲気を感じさせるため流行り廃りがなく、継続して名付けに使われています。
作品の中でもいろんな箇所でオマージュしていますね。 (ということは、にわかには信じがたいが、物語としては本当にそうなったことになるのだろう) その人生は妥協の連続だったようで、エイミーはピアニストに憧れていただけではなく、小説家にもなりたがっていたらしい。 誰かの「共感」の足掛かりになればそれはそれでいいかもしれないと思ってブログも始めた。
18いろいろ話を聞いて、すごくわかりました。
青年の頭の中には「君」の思い出が中心となり それに基づいて考えが発展していくのでしょう。
そして幸せの価値という言葉も2ndミニアルバムの収録曲の歌詞 幸せの文字が¥を含むのは何でなんでしょうか。
むしろ「音楽的な文学」というほうが近いかもしれない。
大切な人である「君」を失った主人公としては、 いくら過程(君と過ごした日々)がよくても結果(今現在)が良くなければその人生に価値なんてないなんて思ってしまうのでしょうね。 考えたってわからないし 青春なんてつまらないし 辞めた筈のピアノ、机を弾く癖が抜けない ねぇ、将来何してるだろうね 音楽はしてないといいね 困らないでよ 心の中に一つ線を引いても どうしても消えなかった 今更なんだから なぁ、もう思い出すな 「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 心の中に線を引いて(He/art:彼/芸術)音楽と距離を置いてみても、指で机を弾く癖が抜けないというこの歌詞からは、エイミーがかつて憧れていたピアニストの夢を未だに捨てきれないでいる様子が伺える。
16虚数単位iを二乗すると-1になります。 君が生きていたころ一緒に描いた未来も歳をとるほど不可能になっていく。
3つ目の意味から考えると 「遠く仰いだ夜」というのは遠い昔に飲み干した=体験した夜とも解釈できそうです。
そういう思いで作っています。
「iを二乗」するつまり「-1」をそれぞれ歌詞中の 「僕」と「君」にみたてて最終的に「1」になるという理解です。