シャツ…立ち襟付きのスタイル。
2007年11月11日のアジアシリーズ決勝戦で優勝直後におこなわれた落合監督の胴上げ(東京ドーム) 前年MVPだった福留孝介が怪我もあってシーズン中に戦線離脱するものの、前年レギュラーに定着したがその穴を埋めるように打撃面でさらなる成長を見せた。 帽子…えび茶色に、銀糸の「C」と金糸の「D」を組み合わせたマークが入る。
監督は、天知俊一が3年ぶりに復帰した。
チームは序盤は投手陣の不調、また5番レフトとして期待されたの不振で出遅れたものの、5月には10連勝を記録。
1939年シーズン途中、が監督就任した頃より使用 創立時に近いデザイン。
ストッキング…濃紺と黄色を基調としたスタイル(上中部に濃紺と黄色線1本、下部に黄色のデザインと、太めの黄色線2本入ったものの2種類を使用)。
株式会社中部日本野球倶楽部を設立し、球団名を 中部日本(ちゅうぶにっぽん)として再出発。
極度の低迷を受けてに谷繁監督と共に守備コーチのが休養(事実上の途中解任)し、併せてヘッドコーチのが監督代行として指揮を執ることが発表された。
1967年よりユニフォームの筆記体「Dragons」がロゴ2となったが、球団旗は1985年ころまで引き続きロゴ1が使われたとの著作(綱島理友『プロ野球ユニフォーム物語』)がある。
07 : :『"ルールブック"日本語版製品 正誤表[PDF]』を更新しました 2021. 2008年に処分内容を不服として名古屋地裁に提訴し、2010年1月に応援不許可については退けられたが、入場禁止を無効とする判決が言い渡された。 1936年 帽子…白に黒の「N」マーク。
372)を記録し 、中監督は同年限りで辞任。
一度は入団契約を交わしながらも突如翻意()し、に入団したの代わりによりが来日。
、、、、らが活躍し、巨人のV10を阻止して20年ぶり2回目のリーグ優勝を果たした。
この年、中日を扱ったアメリカ映画『( Mr. アンダーシャツ…黒。
シーズン後半になると巨人との優勝争いになるが、日本プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤に2位で優勝が点灯。 中尾との交換トレードで巨人から移籍した西本聖が20勝で最多勝(斎藤と)、落合は打点王。
67年の初登場時はDの文字が若干小ぶりだがここに分類される。
10月6日、ナゴヤ球場での最後の公式戦を含む残り3試合の対巨人戦に全勝すればプレーオフという状況で、3試合目に2対5で敗戦で2位に終わるが、阪神には5年ぶりに勝ち越した。
第1次星野監督時代 [ ] との提携によりユニフォームを開幕からドジャース風に変更。
特に同年からパ・リーグへ新規参入したには初の3連戦(ナゴヤドーム、5月24日 - 26日)で3連敗を喫し、同球団にとって球団史上初となる3連勝を献上したほか 、セ・パ11球団で唯一負け越す結果となった。
1シャツ・パンツ…白。
オフに宇野がロッテへトレードされ、西本聖が戦力外通告で自由契約となり、に移籍。
ストッキング…白地に太めの濃紺線2本入る。
胸に筆記体で「Dragons」(ロゴ1)。
2019年現在はユニフォーム、球団旗ともにロゴ2である。 FAで入団した和田の人的補償としてが西武に移籍。 収容率50%未満の入場者数制限があるためシーズンチケットはご利用いただけません。
そして、に中日新聞社と中日のグループ会社で地元の中継権を持つ・・、地元・およびの財界の雄、やなど東海地方の有力企業が共同出資し、新たな運営会社・株式会社ナゴヤ球場が設立されて中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され、1996年まで本拠地運営した。
野口茂樹が最優秀防御率、この年から中継ぎに転向したが、ルーキーが新人王を獲得し、チーム防御率12球団1位となった。
米国留学から途中帰国したが5勝無敗。
猛打賞未輩出 開幕から17試合 2021年3月26日〜4月15日• しかし、終盤の対横浜戦7連敗が響き、2位に終わった。
8月1日の巨人戦で川上憲伸がノーヒットノーランを達成。 オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ、首位阪神に2度にわたって0. シャツ・パンツ…ダークグレー(シャツ前立て部分…白)。
ベルト…茶。
オフにブランコ、ソト、は残留交渉が難航し、保留選手名簿から外れ、揃って自由契約でDeNAに移籍。
開幕投手を務めた大野雄大は6戦して未勝利だったが、7戦目の7月31日に完投で初勝利を挙げると 、その後球団記録に並ぶ5試合連続完投勝利を達成した。
最多連敗 15連敗(1946年) その他の記録 [ ]• 1949年 - 1975年 (1952年の導入に伴い、正式にが本拠地となる)• 東京ヤクルトとのファイナルステージは4勝2敗で2年連続となる日本シリーズ出場を決めた。
シーズン中盤まで巨人との首位争いとなったが、8月18日からの8連敗となり、9月に入るとこの年に任期が切れる髙木監督の後任として星野仙一の名が報じられたが、9月20日からの9連勝などで首位の巨人に並び、、史上初の最終戦同率首位決戦()となった。
6シーズン途中、主砲のブランコやエースの吉見一起が故障で離脱するなど、共に規定打席、投球回に達せず、クライマックスシリーズでは吉見を欠いたのが響いた。
Aクラス・50回、ただし、2リーグ分裂後は46回(1938年秋、1943年、1947年、1950年 - 1959年、1961年 - 1963年、1965年 - 1967年、1971年 - 1975年、1977年、1979年、1982年、1984年、1987年 - 1989年、1991年、1993年 - 1994年、1996年、1998年 - 2000年、2002年 - 2012年、2020年)• チーム最多勝は山崎武司との交換トレードでオリックスから移籍した平井正史(12勝)で、川上憲伸 とと前年好成績を残した2人のケガによる離脱などもあり、ローテーションを守ったのは山本昌だけであった。
帽子天ボタン・ツバに赤。
赤の左寄り部分に中日マークが、紺の右寄り部分に「中日」の文字がそれぞれ白文字で入る)をアレンジしたものが使われる(ただし、赤のスペースがやや狭く、紺のスペースがやや広くなっている)。
中日ドラゴンズ(1960年 - 現在)時代 [ ] 1960年 - 1968年 [ ]• Bクラス・35回、ただし、2リーグ分裂後は24回(1937年春 - 1938年春、1939年 - 1942年、1944年 - 1946年、1948年 - 1949年、1960年、1964年、1968年 - 1970年、1976年、1978年、1980年 - 1981年、1983年、1985年 - 1986年、1990年、1992年、1995年、1997年、2001年、2013年 - 2019年)• オフに森繁和は監督を退任し、シニアディレクターとして球団に残り 、後任に球団OBのが就任。 投手陣では川上憲伸、朝倉健太、中田賢一を中心としたローテーション投手が活躍した常に上位を保ち、終盤には巨人、阪神との三つ巴の展開となったが、勝負どころでの取りこぼしが響き、最後は2位に終わる。
19星野仙一や木俣達彦が現役を引退した。 ナゴヤ球場最終シーズンとなったこの年は長嶋巨人による「」の年だったが、巨人があと1勝で優勝という時点(巨人の残り試合は全て対中日戦だったのでマジックはつかなかった)で勝ち続け、9月24日から6連勝。
背番号…えび茶色。
の対ロッテ戦に7-6で勝利して球団通算5000勝を達成、巨人・阪神に次いで3球団目となった。
25 :を2020年12月25日到着分までで対応を終了させていただきました 2020. 連続イニング無失点 50(2010年)セ・リーグタイ記録。