台座に垂らした裳裾は、垂直に垂れ下がるのではなく、左右に勢いよく反り返っている。 は、「当初から像と台座が一具であったことを示すもので、銘文を後刻したとは考えにくい。 (斎藤、1994)、pp. 施無畏与願印(せむい・よがんいん) - 如来像の印相(両手の構え)のうち代表的なもの。
14鬼前太后(かみさきのおおきさき)とは、聖徳太子の生母・のこと。
奈良国立博物館ほか『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、1994• 荘厳の具とは、ここではとのことを指す。
注 1. これは、奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背裏面に刻された銘文です。
にによって、の阿弥陀三尊像を模したものは一光三尊形式をとり、阿弥陀如来を本尊、両脇侍を観音、勢至とみなすと決められ、以来この形式を「」と呼ぶ。
加藤諄「金石文について」• 「南北朝仏像様式論」『国華』1066、1983、同「止利式仏像の源流」『美術史研究』20、1983• 西脇侍では冠帯と耳朶は密着しているのに対し、東脇侍では両者の間にはわずかに隙間がある。 製作当初は全体が鍍金されて光り輝いていたようだが、今は金がはげ落ち、深緑色を帯びている。
7干食王后仍以労疾、並著於床。 この誓願の力によって、病気を平癒し、寿命を延ばし、安心した生活を送ることができる。
ただし、穴穂部間人皇女を「鬼前太后」と呼ぶ例は他になく、この部分を「十二月鬼、前太后崩」と区切って読み、「鬼」を日付の意に解釈する説もある。
関連項目 [ ]• 脚注 [ ] 51, 52, 56• 仏像を亡くなった者と等身に造る習慣はにある。
もし釈迦三尊像が『書紀』にいう670年の火災以前から法隆寺に安置されていたのだとしたら、火災時に焼損なく運び出すことは不可能ではないかという意見がある。
紹隆(しょうりゅう)とは、受け継いで、さらにそれを盛んにすること。 しかし、釈迦如来の脇侍の名称を「薬王菩薩・薬上菩薩」とすることは、日本古代にも中国にも例がなく、後世に付された名称とみなされている。
1この銘文については、「法興」という私年号の使用や、「」「」という語が推古朝にあったとは考えられない等の観点から、疑わしいとする説もある。 翌日法皇す。
編(古谷稔)『書道テキスト 第3巻 日本書道史』(二玄社、初版2010年)• 市大樹「黎明期の日本古代木簡」『国立歴史民俗博物館研究報告』194、2015(から検索可) 関連項目 [ ]• 含識(がんしき)とは、のこと。
台座前面には大衣との裾を長く垂らしている(裳懸座)。
『書紀』に見える止利の最初の事績は、の銅繍(銅造と刺繍)の丈六仏像の造仏工に任じられたことである。
の像高は87. 中国美術史学者のは、止利式仏像の様式は中国南朝に源流をもち、それが朝鮮半島のを経由して日本へ伝えられたとした。 こうした造形は北魏の仏像彫刻、なかでも賓陽中洞本尊の如来像()に似ていることが早くから指摘されていた。 『奈良六大寺大観 法隆寺二』(補訂版)、「補訂」のp. 左手は第一指と第三指で玉を持つ。
(らほつ) - 如来像の頭髪の形式。 」 と述べているが、大山誠一は、「8世紀の墨書土器などに見られ、日本化した書風と考えることができる。
仏像を造る動機は施主にあり、銘文は施主の立場から書かれるものである。
)には銘文が刻されており、これについては、「流麗な南朝系の楷書で書かれている。
この像はに造像させた。
なお、「西の間」の阿弥陀三尊像は、光背銘によれば、もとの像が末期に盗難に遭った後、貞永元年(1232年)に制作されたものである。 (京都府) 「 木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(棲霞寺旧本尊)」 平安時代、三とも尊坐像、霊宝館安置。
これは重要文化財「旧江戸城写真帖」とともに、明治初期に行なわれた文化財調査を写真という近代特有の記録手段を用いて後世に遺したものである。
法隆寺の創建縁起にかかわる銘文を有し、607年に造られたとされる薬師如来像が金堂の中央ではなく東脇に安置され、これより16年後に完成した623年銘の釈迦三尊像の方が堂内中央に安置されていることについては古くから疑問視されていた。
右手は第三・四指を曲げ、第三指と掌の間に玉を保持する。
しかも破れて失われやすい紙に書かれたのではなく、堅牢な材料である金石に、永く末代まで知らしめる目的をもって記されたものであるため、史料的価値の高さを期待されやすい傾向にある。 石田茂作『法隆寺雑記帖』、学生社、1959• と同時に造像の施主たちはその造像のによって、自分たちも現世での安穏と、死後には亡くなった3人()に従ってにし、ともに浄土・悟りに至ることを祈念している。
ただし、本銘文の真偽についてはさまざまに議論されており、現在でもこの銘文を後世の追刻とする見方もある(を参照)。
光背について『』は、釈迦の身から発せられる光明に触れることで、は悟りに至ることができると説いている。
は1935年の論文で、釈迦三尊と東の間の薬師如来の光背銘はいずれも疑わしく、推古朝の作ではないとした。
建築史家のは、の文化がもっぱら南朝の梁の影響下にあることから、止利式仏像の起源は南朝にあるという説を1934年に発表した。