廃止時点で、1線を有する地上駅であった。 駅舎は無いが、線路の西側(沼尻方面に向かって左手側)に出入口が2つある、片流れ屋根の大型の待合所を有していた。
7t、定員32名、座席定員20名。
田園地帯に位置した。
Aug 17, 2006. 全線廃止となったからに譲り受けたが、その直後に沼尻鉄道も破綻したため、ほとんど使われることはなかった。
駅舎は無いが、線路の東側(沼尻方面に向かって右手側)に開放型で片流れ屋根の小さな待合所を有していた。
1968年(昭和43年)6月14日:鉱山の閉山式が行われる。
以下の写真はで撮影したものですが、「ボサハ12型」と言うことが作業担当者に誤って伝わったのか、2輛ともボサハ12と言う車番が記載されてしまっています。
詰まらぬ冗談として、元来ホームが在った辺りに沼尻行きの単行列車を気取って止めて撮影してみたものです。
集落の北東の山頂にある旧八手山城の城主、三浦経連の重臣の邸にあった木と伝えられ根本には三宝荒神を祀った小祀があります。
6 『懐かしの沼尻軽便鉄道』編集委員会 編『』2000年,p. 車両数の変遷 [ ] 年度 機関車 動車 客車 合計 備考 蒸気 ディーゼル ガソリン ディーゼル 1913(大正2)年 2 0 0 0 3 5 1916(大正5)年 2 0 0 0 5 7 1917(大正6)年 3 0 0 0 5 8 1924(大正13)年 3 0 0 0 7 10 遠州電気鉄道より客車を購入 1930(昭和5)年 3 0 1 0 7 11 ガソリンカーを新製 1931(昭和6)年 3 0 1 0 8 12 1933(昭和8)年 3 0 1 0 10 14 1936(昭和11)年 4 0 1 0 10 15 三蟠鉄道より蒸気機関車を購入 1937(昭和12)年 4 0 1 0 10 15 中国鉄道より客車を購入 1943(昭和18)年 4 0 1 0 9 14 1946(昭和21)年 5 0 1 0 9 15 釜石製鉄所より蒸気機関車を購入 1947(昭和22)年 3 0 1 0 9 13 九十九里鉄道に蒸気機関車を売却 1949(昭和24)年 4 0 1 0 8 13 仙北鉄道より蒸気機関車を購入 1950(昭和25)年 6 0 1 0 8 15 栃尾鉄道より蒸気機関車を購入 1952(昭和27)年 6 0 1 0 9 16 1953(昭和28)年 2 2 1 0 9 14 1955(昭和30)年 2 2 1 0 12 17 栗原鉄道より客車を購入 1958(昭和33)年 1 2 1 0 12 16 1961(昭和36)年 0 2 1 0 12 15 1968(昭和43)年 0 3 1 2 12 18• 製のL型機で、蒸気機関車と同様、サイドロッドによる動力伝達機構を備える。 (昭和39年) - 日本硫黄観光に名称変更。
鉱山で苦労して掘り出してくる硫黄よりも、石油の脱硫工程で産出?される硫黄の方が安いからです。
また、デルタ線の左辺に当たる部分の途中から分岐しさらに2線に分岐する工場線、及び本線川桁方から構内南西方に分岐しさらに2線に分岐、片方には小さな車庫が設置された車庫線も有した。
11 との中間にある字(あざ)。
『THEレイル No. 1930年(昭和5年)11月: ,営業運転開始。
全長10,620mm、全幅2,126mm、全高3,145mm、自重10. 倒産直前の1968年(昭和43年)には磐梯急行電鉄株(二部上場)がの介入によると見られる異常な値動きを示し、筋によるに翻弄されるがままに陥った。 チハ4は廃車、チハ5は廃車。
小レイアウトのような可愛らしい風景が広がっています。 廃止時点で、2線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった。
一説に拠ると、猪苗代湖へ注ぐ長瀬川を渡る橋を架けることが資金的に困難であったために、苦肉の策で川桁へ向かったと言うことですが、この説には少々疑問が残ります。
千石川を渡る橋梁。
蒸気機関車で営業運転を開始。
しかし,その後の硫黄鉱山の衰退とともに沼尻鉄道も衰退し,1968年(昭和43年)10月に廃線になりました。 46 「日本硫黄沼尻鉄道線の歴史とその車両」『』2001年,p. 1927年(昭和2年):停留所設置 - (おぎくぼ),(うつの),(すかわの)。 純粋な新車扱いとなっていますが、実際にはトレードイン的と言いますか、廃車にした古い蒸気機関車の下回りを流用して新車並にして納入されたと言うことのようです。
10歌謡曲『』()• 硫黄鉱山の閉山後はとして脱皮を図り、旅客輸送で経営を維持しようとするが休止となり、その後廃線になった。 なお、「磐梯急行電鉄 株式会社」は法人としては倒産した(及び前記の紆余曲折を経た)ため連続性が窺えないながらも、同名の法人が2008年(平成20年)時点においてとして存在していた模様であり 、また、2015年(平成27年)10月には同名の法人が国税庁からの指定を受けている。
住谷甲子郎は・大蔵財務協会出身OBで大蔵経営経理研究所所長・(社)全国日本学士名誉会員等を務めた経済学博士。
また、地元の方が方言で民話や紙芝居を披露してくれました。
(再録: 『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、、東京、1977年。
昭和に入ってからの、沿線住民へのサービスの一環として新規開業した駅の一つであり、正式には白津停留場であった。
さらに硫黄の日本国内での大口消費者であった繊維業界のに伴う需要減少や、以降市場に出回るようになった廉価な回収硫黄 の普及、といった事情も手伝って、1960年代中盤以降、日本国内における天然硫黄の採掘は次第に採算が取れなくなっていった。
開会式で、語り部の方のハーモニカに合わせて「高原列車は行く」を歌った。
廃線後の沼尻駅駅舎は(58年)時点で沼尻観光(株) が使用していた。
長瀬小学校 - 当駅所在地が入口になっていた。 そのため、鉄道を建設しこれによって鉱石輸送を実施することが計画され、(41年)に日本硫黄関係者および地元有力者の手によって、川桁 - 大原 間で耶麻軌道として609mm・でのが出願された。
会津下館~会津樋ノ口は廃線跡を拡幅した道路を歩くルートになった。
一般には沼尻鉄道(ぬまじりてつどう)の名前で呼ばれ、耶麻軌道(やまきどう)という名称でも呼ばれていた。
会社倒産後の鉄道の線路や敷地などの土地は労働組合の管理下に置かれ、従業員の退職金はこれらの土地をやに売却して得た金で支払われた。