母は刑部卿女、従三位範子。 そして小町は仁明天皇の寵愛をそれほど受けたわけではないが、天皇の死後も慕い続け貞節を守って他の男の誘いを断り続けたのではないかというのです。
飛鳥時代-奈良時代、8世紀 701-800 前半、洛北は山背国愛宕郡に属した。
京都府八幡市。
蔵人頭(くろうどのとう)として仁明天皇に仕えています。
入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
随心院 小野随心院に小町伝説が定着した背景として考えられるのは、随心院のあるところが、古代小野氏ゆかりの小野郷に当たるからということが言えるようです。 やがて、毘沙門堂と呼ばれるようになったという。
さて、もう三が日の初詣はお済みになられたと思いますが、全国の神社の参拝客ベスト10は2001年集計で下の通りです。
そこには、おばけや、 悪魔 ( あくま )などの、けっしてわからない、ただお 母 ( かあ )さんと 自分 ( じぶん )だけが 知 ( し )っている、いいところだと 子供 ( こども )は 信 ( しん )じているのでした。
命そのものを指して言うこともある。
こうした 人 ( ひと )たちの 集 ( あつ )まるところは、いつも 笑 ( わら )い 声 ( ごえ )のたえるときがなければ、 口笛 ( くちぶえ )や、ジャズのひびきなどで、 煮 ( に )えくり 返 ( かえ )っています。 同年三月の「通親亭影供歌合」、同二年 1202 五月の「仙洞影供歌合」、同三年 1203 六月の「影供歌合」、元久元年 1204 の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年 1206 七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」などに出詠。 【参考歌】「古今集」 あまつ風雲のかよひぢ吹きとぢよ乙女のすがたしばしとどめむ 「後撰集」 幾世へてのちか忘れむ散りぬべき野辺の秋萩みがく月夜を 百首歌たてまつりしに 日かずふる雪げにまさる 炭竈 すみがま の煙もさびし大原の里 (新古690) 【通釈】何日も続く雪模様で炭竈の煙が多くなるのも寂しげである。
1そのくらい君に忠心を抱いていたということになるようです。
有職菓子御調進所 老松は有職儀式典礼にもとづく婚礼菓子、茶席菓子を中心に、 たえず新しい菓子を生みだしています。
題しらず 恋ひ恋ひてそなたになびく煙あらばいひし契りのはてとながめよ (新後撰1113) 【通釈】あなたを恋し、恋した挙句、そちらの方へ靡く煙があれば、私と言い交わした約束の果てと眺めて下さい。
清見が関を描いた障子絵に添える歌である。
【補記】「いひし契 ちぎ り」とは、逢うと言った約束。 それが、なんで 病床 ( びょうしょう )に 横 ( よこ )たわる、 患者 ( かんじゃ )たちの 安静 ( あんせい )を 妨 ( さまた )げずにおくことがありましょう。
「おお、よしよし。
* 衣通姫(そとおりひめ)は19代天皇允恭天皇の寵妃で、「その艶(にほ)へる色衣を徹して晃(ひか)れり」と『日本書紀』に記された美女。
」 「あんたも、 疲 ( つか )れるでしょう。
1988年、奈良市の平城京長屋王邸跡から出土した木簡には、安麻呂の名があった。 【補記】嘉禎二年 1236 七月、後鳥羽院が配所の隠岐で催した歌合での作。
「みんな、お 家 ( うち )へ 帰 ( かえ )っちまった。
「末」には「行く末」の意を響かせ、「後々までも見たいと願う花」、また「春が終わろうとする頃にも賞美したい花」といった意を掛けるか。
大原の里よ。
つたへ聞く袖さへぬれぬ浪の上夜ぶかくすみし四つの緒のこゑ 【通釈】伝え聞く私の袖さえ濡れてしまった。 私思わす「オー」と声が出ました。 耳 ( みみ )というよりか、 心 ( こころ )をすましていました。
別れ別れになってから、何年も経ってしまったことよ。
鞍馬街道は、鞍馬口から深泥池、檜峠、幡枝、市原を経由する東街道、清蔵口から千本・大宮、上賀茂、朝露、柊野、原峠、市原へいたる西街道があった。
また「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」、「東寺口、 竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともされた。
この里も私も、その霧の底深くに、沈み込んでゆくのだ。
実 ( じつ )に 長 ( なが )い 間 ( あいだ )のことで、あの 子 ( こ )の 安否 ( あんぴ )を 気遣 ( きづか )い、そのため、 私 ( わたし )は、やせてしまった。 「正治初度百首」。
11【補記】家集に収められた二つめの百首歌の春歌。
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塩水に濡れた袖を、冬の夕風に翻 ひるがえ らせて…。
【補記】「しられぬ雪」は下記本歌により「空に知られぬ雪」を意味し、散った桜の花を指す。