ただ翌1491年(延徳3年)に慈照院から慈照寺に更に改められました。 その後京(京都)に上洛し、南禅寺(なんぜんじ)の住持(じゅうじ・住持)などを歴任したり、銀閣寺の開山になったりし、歴代天皇から7度の国師号(夢窓国師・正覚国師(しょうがくこくし)・心宗国師(しんしゅうこくし)・普済国師(ふさいこくし)・玄猷国師(げんにゅうこくし)・仏統国師(ぶっとうこくし) ・大円国師(だいえんこくし) )を授けられ、七朝帝師(しちちょうていし)とも言われました。
境内の南西、錦鏡池(きんきょうち)の前に建つのが銀閣(観音殿)です。
北山文化を象徴する建物は、金閣寺• そして本来備わる純粋な人間性を、坐禅を通して自覚し悟ることを宗旨とする宗派です。
妻との間に男子がなかったため、還俗させた弟・義尋に足利義視(よしみ)と名乗らせ次期将軍に決定しましたが、2年後には嫡男・義尚(よしひさ)が誕生します。
通称銀閣寺こと慈照寺観音殿は近年の調査では初めから銀箔を貼る予定はなかったとされています。
当時は「銀閣寺」「銀閣」ともに呼ばれていなかったということですね、 銀閣寺にそもそも銀箔をはる予定があったのか、なかったのかという議論は昔からあったようです。
8またこの一帯には、東に法然院、霊鑑寺、南に黒谷金戒光明寺、真如堂など古くから寺院が営まれてきました。 2階には、武士階級に好まれた書院造の様式で、L字型の空間が広いベランダに囲まれ、そこから池のそばで月を見ることのできる場所になっています。
すぐにでも拝観したいという人々の心をいったん静めさせようという演出なのでしょうか。
また、初代が偉大な人物でも、2代目以降になると必ずしも将軍の器にふさわしくない人物が政治を行っていたというケースもあります。
隠やかに生活したいと願う義政の気持ちを反映するかのように、東山殿は都に背を向けて建てられています。
しかし政治機構としてみれば、室町幕府の守護への介入方法や統治への権限は明らかにアウトです。 中国の模範的な風景に対抗するかのように、日本の建築のモチーフを設定していますが、この絵もまた中国の影響の受容を証明しています。
ここで義政は、以前から考えていた、自分のための山荘造営に取りかかります。 これは16世紀半ばまで続き、経済や文化の発展に大きく寄与しました。
金閣寺・銀閣寺が作られた理由 14世紀の間に、鎌倉と京都の大規模な禅宗の伽藍の発達は、覚視芸術に著しい影響を与えました。
東山殿と呼ばれた大邸宅です。
内部の見学はできませんが、 池の中にたたずむ趣ある外観をお楽しみください。
しかし、8歳の子に政治ができるとは思えず、政務は管領や政所所事といった偉い人たちが牛耳ってしまい、義政が政治をすることはほとんどありませんでした。
1東山文化がのちの日本の和の文化の源流となりましたので、義政が日本にもたらした影響は計り知れないということなんですね。 銀閣寺は、義政の祖父である3代将軍・足利義満の北山殿(鹿苑寺金閣)を意識して建てられたと言われています。
父の暗殺と兄の早世により、1449年(文安6年)4月29日、元服を迎えた義政は正式に第8代将軍として就任しました。
かくして日本未曾有の大乱の火種が出来上がっていったのです。
実際、造園の善阿弥、水墨画の相阿弥、能の音阿弥らを大切に扱ったたといいます。
南面は中央に、両側に、北面は中央に桟唐戸、両側は板壁になっています。 香厳はある日師匠から転生する前の人生を問われました。 しかし義政のそばには三魔と呼ばれた今参局、烏丸資任、有馬元家 持家説もあるが元家が有力 の3人がおり、御家人以上の発言力を持ってあれこれ支持していました。
7中門から境内に入ると、白砂をならして太い筋文様を入れた銀沙灘(ぎんしゃだん)と円錐形の上部を切り取って円錐台形の形に白砂を盛り上げた向月台(こうげつだい)が目に飛び込んできます。 長享3年(1489年)に室町幕府8代将軍の足利義政が、祖父の足利義満が建てた鹿苑寺( 金閣寺 )を真似て造営し、完成しました。
銀閣寺の歴史 足利義政が建立した銀閣寺は、どのような歴史を辿っていったのでしょうか? 年表で見ていきましょう。
以後は政治に関わらないはずでしたが、義尚成人後も依然として権力を握り続け、幕府内の政治にさらなる混乱を引き起こしました。
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義政は、政治家としては今一つだったといわれますが、建築、造園および芸術に大いに関心があって、見る目もありセンスもよかったといわれます。
20この場所には、かつて浄土寺という寺があり、応仁の乱で焼失していたのでした。 義政は当初長きに渡って我関せずな態度でしたが、途中から富子の進言を受け入れて義尚を正式に後継者に決定し隠居。
さらに 日野富子を娶ると政務に完全に興味をなくしてしまい文化に傾倒。
例えば雪舟の水墨画、水を使わずに石で流水を表現した枯山水、それに茶道、書院造といった戦国~江戸時代までにも見られるような「日本」のイメージを作り上げるものばかりです。
それではまとめです。
その後銀閣寺は太政大臣・近衛前久(このえさきひさ)の別荘になりました。 この内乱は大規模なものとなり、その後11年も続く応仁の乱へと発展していったのです。 応仁の乱で京都の経済は疲弊していました。
17そうなると頭をよぎるのは幼い将軍を擁して権力を握ることです。 これが入場券代わりになります。
元信は、たいてい構図の中心に、香厳の家などの単一のモチーフを置きます。
しかしこの義勝も8か月後に突如病死、次に将軍に推されたのが義勝の三弟・義政でした。
【銀閣寺 足利義政】 足利義政は室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の子で、8代将軍になり、銀閣寺を開基しました。
まとめ いかがでしたでしょうか? 色々と調べているうちに著者も考えが巡り巡って何だか歴史とは遠い所まで来てしまったような気もしますが・・・。 また日本にもたらされた多くの名画や名器、墨蹟などは、平安から室町にかけて中国へ渡った禅僧たちによって持ち帰られたもので、全国の大禅刹に収蔵されていましたが、これらの多くは歴代の将軍によって献上させられ、将軍家のものとなりました。 スポンサードリンク この記事のまとめ 銀閣寺の歴史や作られた理由、その名前の由来についてご紹介しました。
17しかし応仁の乱は義政が期を逃して何もしなかったために続いてしまった事件です。
仏典が役に立たないことがわかると、彼は蔵書を燃やしてしまい、瞑想の中で模索します。
2階建て構造になっていて、1階部分は日本の伝統的な住宅建築書院造りで、壁には「心空窓」(しんくうまど)があります。
室町時代の間には、2つの顕著な文化的な環境が、2人の隠居した足利将軍の周囲で形成されます 義満の別荘は、金閣寺として知られ、黄金の東屋という意味を持ち、その孫の義政の別荘は、銀閣寺、銀の東屋として知られます。