悪名高き「東京裁判」でさえ日本人弁護士が法廷で被告を守ったというのに。 運動会の徒競走ですら一等賞を与えてはいけないなどといっている時代に、江田島では百年一日の如くケジメを外さぬ式典が伝統的に受け継がれていたのである。
1迂闊にも私はこれほど厳粛にして国際的な色彩をもった卒業式が行われてきたことを全く知らなかった。
この前の政権も、前の前の政権も二か月で申し合わせたように下落したとのことで、日本はどうなる、自民党はどうなると騒ぎたてている向きもあるが、私に言わせれば 二か月で飽きるように世論を誘導しているのではないかとさえ思われる。
だが、それは特定のリーダーによる策略でも一握りの野心家の共同謀議でもなく、様々な偶然の積み重ねによって生じた時の流れがないあわさり、抜き差しならない状況となって人々を巻き込んだ結果といっていい。
上坂冬子『生体解剖---九州大学医学部事件』(中公文書)の230-1頁において上坂が大学の組織的関与がないと判断した理由は• 経緯 [ ] 1945年(昭和20年)5月5日、の 55機は「作戦任務第145号」を受け、グアムを発し、福岡市を始めとする九州方面を爆撃するために飛来した。
1993年に『硫黄島いまだ玉砕せず』(文藝春秋)などの言論活動により第41回菊池寛賞、第9回正論大賞を受賞。 韓国から来た被爆者• 日露戦争のころ、チリから受注したイギリス製の軍艦ができ上がったとき、チリ側の配慮によって日本は緊急を要するだろうからと優先的にまわしてくれたのがきっかけで、以来日本はチリの海軍と昵懇の間柄なのだそうだ。 ああ、かつて日本では年の始めをこうして一斉に祝ったものだと感動した。
8系誌においてに関する発言を活発に行なった。 問題のポイントは中間ラインを越えたとか越えないという点ではない。
『心ひかれた男たち 男子に本懐を聞く』(PHP研究所 1980年)• 日本にはそれが欠けている。
また九大医学部卒の外科医は、「手術はすべて石山の専門分野に及んでおり、彼の業績に対する野心が明らかである」と指摘している。
Howard Thomas Shingledecker)• 良くも悪くも、いったん身につけた感覚はすぐには切り替えられるものではない。
私が意地悪く外務省をコケにした言い方をするのは、性懲りのない外務省に愛想を尽かしているからだ。 そんなことより、いまこそ所属する企業と私たちの生活の歴史、ひいては日本の歴史にそって伸びてきた地元の歴史など振り返ってみるいいチャンスにすべきだと思われる。 学徒動員の補償問題の関係者驚く(119)。
6最終的なGHQの調査で、捕虜の処理に困った大佐が小森に相談し、石山に持ちかけ実行されたことが判明したが、企画者のうち小森は空襲で死亡、石山は自殺したため、8月にで以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。 こう言われると、墓にこだわるほうがおかしいような気になってくるから不思議なものだ。
デングラー軍曹• 紫電改も負荷で空中分解を起こし、粕谷一飛曹は落下傘が開いたが頭蓋骨骨折のため8時20分ごろ死亡。
第2区隊(指揮:指宿成信少尉、甲飛2期)3番機の栗田徹一等飛行兵曹(丙飛15期)が20ミリ機銃で右エンジンを破壊。
『学ノート』(、共著、三一新書 1961年)• 『男装の麗人・伝』(文藝春秋 1984年、のち文春文庫)• 第1部四十年埋もれていた人々:• レーダー手: ジャック・M・ベリー少尉(2nd Lt. たしかに、自主的に紛争を避けるべく北海道庁が危険の可能性を示して海上に調整規則ラインをきめ、漁師も原則的にこれを守りながら安全操業につとめてきたのはまちがいない。
昔なら戦争に突入していただろう。 昭和天皇および天皇制に関して、私の世代は特に礼賛も否定もする気はないが、その底流に共に戦争を乗り越えてきたという、ほんのりした親近感があるのは否めない。 あらためて心から哀悼の意を 表します。
この不況を百年に一度の大事件のようにとりたて、政局の焦点をボカすのはズルイ。 だとすると不思議な気もするが、それはまあいいとしよう。
チリとの関係など自分の知らない所でこんな感動的な場面が…。
心から哀悼の意を捧げます。
『読売新聞』1970年2月5日付朝刊、17面。
Watkins)中尉以下、搭乗員11名が阿蘇山中に落下傘降下した。
憂国の士に合掌・・・。 本書は、さまざまなエージェンシーが相互に作動しながら、被爆者への差別や偏見を撥ね退け、自らの被爆者・戦争犠牲者としての主体を取り戻すのかについてのアイデンティティをめぐる旅程の物語でもある。
上坂冬子『奄美の原爆乙女』ノート 上坂冬子『奄美の原爆乙女』ノート On remarks of Fuyuko Kamisaka's "The Amami Atomic Girls," published at 1978. もちろん医者が人命にかかわるをしたことは悪いが、そこを間違わせるのが戦争であり、いかに戦争というものが人命を預かる人間でもここまで狂ったというか、そういうことが二度とあってはならないが、戦争時代にあったという事実、軍が良いと言ったからとやったという言い訳はもう今後は二度と出来ない。
『日本はそんなに悪い国なのか』(PHP研究所 2003年、のちPHP文庫)• 戦後がこの事件について詳しく調査し、最終的に九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕された。
2006年5月号【無知にして頑迷固陋な国よ】 《引用者注:タイトルの「無知にして頑迷固陋な国」とは中国を指している。
『この人、午後のもてなし』(講談社 1998年)• 若い頃の失恋体験から生涯独身を通し、倹約してアパートを建て、やがて4階建てのマンションを建ててテナントを入れ、自らは最上階を専有し、経済的な心配がなくなってから心置きなく執筆活動に打ち込んだ。 『老いの周辺』(文藝春秋 1994年)• 上坂冬子は如何にして真実を探り当てるのか?「ドキュメント作家が語る、作家自身のドキュメント」ならではの臨場感が魅力の講演。
11著書 [ ]• 天皇として戦没者の慰霊だけは何としてもと思われたにちがいない。
本社への投書などにも東条礼賛のものを時に見受ける」(昭和二十三年一月八日) と書いている。
1930 6月10日東京府生まれ 1936 永田町小学校入学 1943 年産25万反の大島紬を縮小し、最終的に2,500人が女子挺身隊として奄美を離れる。
そもそも漁協は組織とはいうものの、それぞれが号令によって一丸となって動くようなシステムにはなっていない。
ゴネ得を許さぬことであろう。 同年に首相が述べた「日本が侵略戦争を行った」という発言に関して「何と粗雑にして迂闊な発言であろうか」と批判し、細川発言との比較での従軍に関する談話を引き合いに出して「近年、稀にみる名文といってよい。
名だたる文筆家が登場する、文藝春秋の文化講演会。
私の年代にとって、昭和とはこうして見送らずにいられない時代だったのである。
そればかりではない。
外交音痴にもホドがあると怒り狂うのはわけないが、 実はあのとき、日本はのっぴきならない事情をせおっていた。 「」『先端倫理研究 : 熊本大学倫理学研究室紀要』第6巻、熊本大学、2012年3月、 49-63頁、 2020年9月13日閲覧。
:『何とかしなくちゃ』(1970年、) - 役名:羽仁冬子 脚注 [ ]• 万が一、大学総長を飛ばして命令が伝達されたとしても、組織上総長に上申して大学としての判断が下されているはずであるが、その証拠が存在しない。
この時とばかりNHKが、まるで免罪符を得たかのように簡易裁判所を通じて受信料不払いの督促を言いだしたのは、どう考えても腑に落ちない。
2009年1月号【ガンの虚実を見定めん】 《引用者注:冬坂さんは2005年に婦人科系のガンを手術。
まして密漁などという表現はもってのほかというべきで、すべてはスターリンの無法にはじまっている。 東野利夫談(当時19歳)。
『みごとな女たち 上坂冬子の同性研究』( 1975年)• Finkelstein)• ベリー少尉• 何を理由に百三十万もの人々が不払いを決めたか、分からないのか、と。
Fredericks )• の治療法の確立のための実験• だが満足感に似たそんな思いを抱いて帰りかけた私を、打ち砕いたのが最後の全国戦没者追悼式に寄せられた昭和天皇の御製である。
著者は「緩和ケア」によって、充実した最後の日々を過ごすことができた。