何度か名前を変えているが面倒くさいので記では「信雄」で統一する。
同じ母の兄弟に兄・信忠、妹・徳姫がいる。
北畠家時代 [ ] 12年()、父・信長のの和睦条件として、の養嗣子となって 、具房の妹の(の娘)を娶った。
織田家の家督を継ごうと考えている人が、羽柴秀吉の指示を待っている状態なわけです。
調べてみる前は「雪姫」が本名で「千代御前」が通称、敬称なのかな…と思っていましたが、史料を見ていくうちに(ちょっと違うんじゃないかな)と思う点が出てきました。
なぜなら信長の子で大名家として存続し続けた系統は、唯一信雄の子孫だけなのですから。 後に庶流は、信長の七男・の系統である家に養子として入った。
信雄が織田家当主の座を逃した一方で、羽柴秀吉と信孝・柴田勝家らの間では「賤ヶ岳の戦い」が勃発していました。
数々の失敗が積み重なり、良いイメージを植えつけられなかった失策がここで命取りになりましたね。
信雄も領地を 110万石から40万石へと減らされることになったのでした。
「文は武よりも強し」と感じたのかも知れません。 織田家の当主の後見人となった信雄。
その後は理由不明ながら秀吉と対立し、と協力してを起こす。
生き残ったのは「信雄」ただひとりと言っても言い過ぎではない状態なのです。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍・東軍どちらにも与しなかったが、1614年の大坂冬の陣では徳川方に付き、戦後、家康から大和国宇陀郡や上野国甘楽郡など5万石を与えられた。
中国地方の戦国大名である毛利元就は、吉川家に次男である元春を送り込み、小早川家に3男の隆景を送り込んでいます。 スポンサーリンク 1,「織田信雄(のぶかつ)」とは、「」の次男で、後世において「愚将」や「愚か者」という評価をくだされた人物。 能の名手でもあり、「能の才能は比類なく、扇の扱いにとても優れいる」と高く評価されています。
っていうかこれ、自身の為にもなる大事な事なんだぞ? それ視して、しかもくんを討死させるとか論外だわ。 こう書くと聞こえはいいが、要は監視である。
大きな失策を犯した信雄は信長の後継を目指して6月に安土城に入りますが、ここでも失火で安土城を焼くという大きな失敗。
信長 織田信雄殿• 豊臣秀吉や徳川家康と付きつ離れつしたのも軽率な判断からではなく深く考えた上の処世術であったのかもしれません。
伊勢から京都に行くには、近江を抜ければすぐなわけで、比較的近い場所に織田信雄はいました。
信長より軽率な行動を叱責されました 第一次天正伊賀の乱。
これを受けていれば150万石の大大名となります。
尾、、賀、あわせて石以上のな領地全てをである。
翌年、居城の田丸城が家臣の放火で焼失したため、新たに松島城を築きます。
清洲会議では、織田信忠の遺児・三法師 織田秀信 を推す羽柴秀吉と、織田信雄の弟で文武両道の誉高かった・織田信孝を推す柴田勝家が対立しますが、最終的に織田家当主は三法師、織田信孝と織田信雄は後見役と決定します。 それでも普通は父ちゃんの弔い合戦だと明智の重臣を追い詰めるものですが、実際他の織田家家臣はそうしたわけですが、この人は深追いしませんでした。
11三瀬の変のとき、雪姫は捕らえられ桜の木に縛り付けられました。
もちろん、家臣団が奮戦してくれたなどもあるかと思いますが、家臣団に裏切られて死んでしまった人も戦国時代は少なくありません。
そこでかねてより兄弟の問題があった信雄に信孝に対して切腹の命令を出すことによって秀吉は手を汚すことなく信孝を葬ることができる。
しかし、叔父のやがしっかり家を存続させ、信雄もまた大坂の陣の功績により大和5万石の大名へと復帰した。
しかしこの変事により父の仇を討った弟のとは離されることになる。 これにより家康も撤退し、のちに信雄の斡旋のもと秀吉に下ることになる。
これにより信長は、畿内の各地を制圧。
この行動が秀吉に怒りを買い、改易されてしまうわけです・・・。
【1614年】(57歳) 「大坂冬の陣」勃発。