信長は天皇を超える存在、神になろうとしていたとも言われ、蘭奢待を切り取ることで、正親町天皇を威圧し、自身の存在を世に知らしめようとしたのではないかと考えられている。
7実際に、蘭奢待には足利義政、織田信長、明治天皇という時の権力者たちが切り取り、その切り取った場所には付箋が残されています。 同8年2月25日、宝庫は開封して修理が行われている(続々群書類従所収『慶長十九年薬師院実祐記』)。
奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年). 信長は蘭奢待をもらって、半分を帝に献上しました。
義昭様はお駒さんにいいところを見せようとしている姿もあったような……。
と同様の漢字遊びです。
元号を決める話は13代の義輝様のときにも出てきましたが、あの時は義輝様へのお伺いもなく決められてしまっていたんですよね。 名古屋港ポートビルは、貿易の歴史などを展示説明しており、その中に伽羅の展示もあるんです。 このたび不慮に勅封をひらかれ」とあり、強引な信長の要請に応じざるを得なかった無念が綴られている。
16切ない。 日本には聖武天皇の代(724年~749年)に中国から渡来したと伝わっています。
織田信長の截香 [ ] 『天正二年截香記』によれば、天正2年(1574年)3月23日に、織田信長はとを使者に出し、蘭奢待拝見の希望を伝えた。
改元は将軍から帝にお伺いを立てて行うのが慣例となっていました。
中でも質の良い物は伽羅(きゃら)と呼ばれ、現代においては金の5倍以上の価格で取引されている貴重品だ。
2006年の米田該典氏(大阪大学准教授、薬史学専門)の調査によると、38カ所の切り取り跡があったそうです。 これも本能寺の変の決断の時、大事なキーワードになりそうですね。 帝のため、帝のため、という姿は健気なようですが、当の帝は「毛利に渡しなさい」とあまり喜んではなさそうでした。
勅使を確認した東大寺は僧7人を宝蔵中倉に入れて、蘭奢待を大きな櫃ごと持ち出し、信長が待つ多聞山城へ運ばれた。 織田信長や徳川家康の時代には、その姿を見るだけでも天皇による許し、つまり勅許が必要でしたが、現代では特に秘密にされた存在というわけではありません。
蘭奢待• 正倉院は巨大なタイムカプセルではなく、藤原氏のトランクルームだったのかもしれない。
ちなみに、安芸の厳島神社には毛利から寄進された蘭奢待があるとか。
こちらは聖武天皇 701〜756)が大切にしていた香木で「全浅香ぜんせんこう」の別名があるが、信長は紅沈については拝見しただけで、先例がないという理由で切らなかった。
「信長公記」によると、信長は長さ6尺の長持ちに収められた蘭奢待を多門城に持ち帰り、御成の間の舞台に置いて「末代の物語に拝見しておけ」と家臣達に披露。 6キログラム」(山田憲太郎博士の調査)。
証拠とされていた史料はどうやら主語を読み違えており、天皇は信長ではなく、関白の二条晴良(1526〜79)の開封手続きがずさんだったことを怒ったのだというのが今の定説だ。
義政が切り取って以来、幾人もの足利将軍家が希望しても叶わなかったことなので、たいそう名誉に感じたという。
もちろん、蘭奢待を切り取るには天皇の許可(勅許)が必要だったので、歴史の中でも限られた人物しか手に入れることは出来ませんでした。
藤孝は「政を行うには時の流れを見ることが肝要」だと気づいたのだ、と兄に言いました。
米田該典は1997年の調査で38箇所の截香跡があるとした上で、繰り返し切り取られた跡もみられることから50回くらい切り取られたとしている。 関氏の居城・一宮城 蘭奢待を村井貞勝から授かり、自分が神官を務めていた真清田神社に残した関氏ですが、その居城跡は現在でも残っています。
6以前はこの一件は強引な香木の切り取りは朝廷に対する自らの権力の示威行動と見られていた。
足利義政(『肖像』国立国会図書館蔵) 蘭奢待切り、信長の気遣い 上の表に示したように、正倉院の宝物はその歴史のうちに何度も喪失の危機にさらされている。
正倉院 沈香はジンチョウゲ科の樹木が幹の中に分泌した樹脂成分を採取した物。
しかし光秀はそうは思わない。
その状況下で「蘭奢待切り取り」の許可を受けることは、「信長のバックに天皇がいる」ということをアピールすることでした。
では、信長による蘭奢待の切り取りは、これまでどのように評価されてきたのだろうか。
意見を聞くとはいっても反対意見まで聞くわけではないかもしれませんが 笑 私は見ているときに「天を正す時代にするみたいなかな?」なんて思ってしまいましたが、帝に心酔している信長は「天が正しい時代だ」と説明しました。
「自分で切り取ると、いかにも私欲で拝領したように思われる」から、寺僧に切り取ってもらったという(神田千里『織田信長』)。
また5分角を1個切り出し東大寺別当の公恵に献じた」と記されている。 流石に本人には言えなくて「帝がお許しになったなら」という温度感でした。
16この通称をつけた人物についてはとしたが、本間洋子による『実隆公記』の検討によりこの説は否定されており、命名者は不明である。
このあと藤英は信長に仕えることになりますが、それも長くは続きません。
開封手続きは本当に丁寧だったのか 天正2年(1574)3月23日、信長は塙直政(?~1576)と筒井順慶 1549〜84)を使者に立て、「東大寺の霊宝、蘭奢待を拝見したい」と東大寺へ申し入れた。
豊臣秀吉(1537~98)に至ってはまったく記録がないが、何ごとも信長をまね、茶の湯に凝っていた秀吉が蘭奢待を切らない方が不思議ともいえる。
とりわけ、この伝説を大々的に喧伝し利用したのが織田信長です。 この雅名は聖武天皇によって命名されたと伝えられています。 そして、信長はなぜ蘭奢待を所望したのか。
4このことは「十七カ条の異見書」でも義昭批判のひとつとなっています。 恨みや怒りではなく、敬意を表したものであったという説もありますね。
歴史と截香 [ ] 蘭奢待の伝来について記される史料はない。
「薫烟芳芬(くんえんほうふん)」だったというから、昔と変わらず良い香りがしたことだろう。
正倉院1200年の悠久の歴史についてはコラム本文をお読みいただきたい。