日常には自然に対する細やかな観察もあるが、あくまで彼の探求の姿勢をこの歌は表していると思います。 童謡(わざうた)は、政治上の風刺や社会的事件を予言する意味を持った、民衆のあいだに流行する作者不明のはやり歌である。 7. 過去は記憶として・未来は期待としてこのいまわが現在におさめつ つ その永遠の現在に われ・われは いま生きている。
牧水もまた、真理を求めて漂泊していたのでしょう。 また、「あくがれ=憧れ」は、牧水の作品を語る上での重要なキーワードともなっていることも付記しておく。
今のところ俳句鑑賞の記事が多く、百人一首や和歌なども日本古来の味わい深い文学作品で取り上げたいものたくさん!ですが、正岡子規大先生以降の近代短歌もたくさん取り上げたいと思います。
この歌では「白鳥は哀しくないのであろうか」と歌い上げていますが、白鳥が哀しいのではありません。
これぞ、「真の酒飲み」 笑。
自分でも不思議になることがあります。 他動詞なら「染め」になり、自動詞なら「染まら」になるところを、いくら語調の関係とは言え、こんな変則的な動詞を使っているのは感心しません。 また声調上もその方がふさわしいと思われる。
19「若山牧水」のそのほかの作品 ( 沼津市の若山牧水記念館 出典:). 執拗に、怖いですね。
もしこういうことを考えるのが好きであれば、 ぜひ、卒業研究のテーマにしてみてください。
文法と語の解説• しかし、傷つきやすく純粋な青春を象徴するかのような白は、青色に染められることなく、むしろ孤独なまでにくっきりと色の違いを際立たせています。
見慣れた歌であっても、案外気がつかないことがあるのだなあとあらためて気付かされます。
「や」は疑問 また、「哀しからずや」の「や」は反語ではなく、疑問であることを、大辻隆弘氏が強調している。
女性のそういう心の底の強さには、「酔う」ということが少ないと思います。
結婚を考えるほど小枝子に強く惹かれていた牧水でしたが、小枝子はなかなか受け入れることはありませんでした。
若山牧水の作品のなかで、もっとも有名な短歌の一つとして教科書にも取り上げられているのが、この「白鳥はかなしからずや空の青海のあおにも染まずただよふ」という歌です(歌集『海の声』収録)。
反語ととれば「かなしくないのだろうか、いや、かなしくないはずがない」と意味合いが強くなります。
白鳥はかなしからずや 空の青海のあをにも染まずただよふ 絵にするのならば、細かいところまでよく考えなければなりません。
対比 対比とは、 二つ以上のものを並べ合わせ、それらの共通点や相違点を比べる表現技法です。
色はもちろん、青い空や海にあるさまざまなものに、白鳥は加わることができず悲しい、という解釈でした。
「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう」カール・ブッセの詩がモチーフにあるといいます。 つまり、いずれの説委に関しても、「恋の不安」を表現しようとして詠まれたものではなく、そのために歌集を編集するときに加えられたということを前提としています。
有限な存在者が「存在する」といっても、真の意味で存在するのではなく、あくまでも「止揚されたもの」として存在するにすぎない。
この視線の動きも哀しさをいっそう強めている。
白鳥は哀しからずや海の青 上の句だけでも真っ青な海上にいる白鳥の白さがストを持って伝わってくる。
そのエッセイの内容に触れる前に、私のこの歌の解釈を述べておこう。
と感じていたはず。
・・・人間に は誰しもそのような渇望があると思います。
授業では疑問の用法(「かなしくないのだろうか」)として解釈し、読解を進めました。
国語の教科書でも載っていたので諳んじれる方も多いことと思います。
「ただよふ(漂う)」 ・ 空中・水面にうかんで、ゆれ動く。
この歌に詠まれた二つの青は、 「空の青」で晴れた日の明るい青を表し、「海のあを」は深く濃い藍色を指す と解釈できます。 文字数が少ないからこそ、短歌は複数の解釈ができてしまう場合がありますが、 そこに、考える面白さもあるのだと思います。
カモメは白いので、「空の青」にも「海のあを」にも染まれない。
つまり、神に触れられた瞬間に、パウロは無限の存在である神の前にまったくひれ伏さざるを得なくなりました。
しかし、回心し宣教者へと大転換します。
明治18年から昭和3年までを生きた歌人。
どこかに属することは、とても安心。
それぞれの特性を強調し、インパクトを強める効果があります。
ところで白鳥は、本当に悲しいのでしょうか。
あまりにも有名で解釈も細かく加えられているが、ここでこの歌を揚げたのは、この歌の解釈をしようと考えてではない。