4番艦「ピョートル・ヴィェリーキイ(ピョートル大帝)」 脚注 [ ] 435、工藤庸子「訳者あとがき」• しかし台風に襲われ、また病人がつぎつぎと出て航行が難しくなり、途中の無人島に上陸した。
乱もこの年末ごろまでに平定された。
国家奉仕のためには教育が必要不可欠であり、彼ら貴族の子弟のために、実業学校など様々な教育の場がもうけられた。
ロシア軍の連隊の一つに、ワシリー・コブィリンという伍長が勤務していたことが、歴史に記されているが、その彼は、エカテリーナが自分とピョートルを結びつけるために魔法使いを利用していると大真面目で非難している。
の制度に倣ったと考えられる。
ピョートル三十五年間の治世において、平和な時期は二年とつづかなかったといわれるが、 「海への出口」を求めることは、ロシアにとって不可欠であり、このため 他国と衝突した。 かつての首都であり、現在ではに次ぐロシア第2の都市である。 シェレメーテフのところで、ツァーリの右腕であった、アレクサンドル・メーンシコフが彼女に目をとめ、この超大物が彼女に興味をいだき、召使の一人として連れて行った。
13」 すなわち、ピョートルにとって西欧は手段であって、目的ではなかった。
いくら平均身長が高いヨーロッパ諸国であっても、さすがに彼と同じくらいの人はそんなに多くはいません。
スエーデンとの北方戦争 (一七〇〇~二一)で、その領土をうばうためである。
大使節団 [ ] オランダで船大工とともに働くピョートル。
すなわち、修道院領からの収入はツァーリの官吏があつめ、そのうちから修道士に給料として、ひとりあたり「十ルーブルとパンー塊」を支払ったのである。 「西欧への窓」新首都のペテルブルクが築かれたのです。
5ピョートルはこの敬虔なだけで何の取り柄もない妃を疎んじ 、1698年には彼女をに追放した。
このこともあり、ロシアとスウェーデンの戦争は大北方戦争と呼ばれて、20年も続くことになる。
しかしロシア軍は損害が大きく一七一一年、和議がなり、その結果、ロシアはまえに獲得したアゾフを返還することとなった。
ピョートルは沢山の物産品や武器を買い集め、1000人の軍事や技術の専門家を雇い入れて、その知識をロシア人に教え込ませた。
遷都してから2年後には人口が5万人を越すなどの発展を遂げた。 『物語スウェーデン史』 、2003年• 158「ロシアの西欧化~ロシアの絶対王政と領土の拡大~」に、「ひげを切る図」という面白い絵が載っていた。
5第三に外遊後急に老けたように見えたこと。 帰国すると匿名 (とくめい)の手紙でピョートルに「鷲 (わし)」印紙を提案し、その結果、年三十万ルーブルの利得を国庫にもたらしたということで商工局長にばってきされ、さらにアルハングリスクの副知事にまでなったが、ついに官金消費の罪をおかして死んだ。
現在のアリューシャン列島のいずれかの島であったが、どこかは判らない。
バルト海進出 北方ではの覇権をめぐってのとのを戦った。
大野真弓、『世界の歴史 8 絶対主義の盛衰』、1974年。
こうして大北方戦争はロシアの勝利で終わったのである。
この意味からすれば、「ピョートル改革」はロシア史の転換点であり、これを境として「古いロシア」と「新しいロシア」とがわかれることになる。
少年期のピョートル ピョートルは1672年5月30日にツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチと2番目の后妃ナタリヤ・ナルイシキナの子として生まれた。
これらの事は、ロシアがポーランド・リトアニア共和国に対する化への端緒となった。
そ の著書のひとつ『政治的随想』のなかで、クリジニッチは、 ロシアを西欧と比較し、そのいちじるしい後進性を指摘している。 …… 彼はその治世中にさまざまな工場を発達させたので、留め針、兵器、麻織物などの商品は、国内の需要を自給できるようになり、とくに海軍が必要とする帆布は、外国に掛け売りするほどになった。 1304—1318• 1533—1547. 従って正教会からのピョートル1世に対する評価は著しく低いものとなっている。
3当時のスエーデンは北欧の大国で、バルト海沿岸地方の多くを領土とし、ヨーロッパ一流の軍隊をもっていた。 相田 1975 , p. 物づくりが、好きな人でもあったのでしょう。
そのすすむところ、貴族は殺りくされ、土地台帳は焼かれ、農奴は解放された。
シベリアの鉱山も開発されたので、もはやロシアはスエーデンから鉄や銅を輸入しないでもよくなり、かえって外国に輸出するようになった……。
昼食後、オランダ語の新聞を読み、必要な個所を鉛筆でチェックしたり、ノートする。
第2次カムチャツカ探検 第1次探検では海峡を発見したが、アメリカ大陸を確認することができなかったので、再度探検隊を派遣することとなり、再びベーリングが指揮を執ることになり、他に多数の学者が同行、学術探検隊の様相を呈した。 17世紀はじめ(1613年)に成立したロシア・ロマノフ朝は、スウェーデン王国、ポーランド王国に圧迫され、東ヨーロッパでは弱小勢力にすぎなかった。
この戦争の勝利は、ロシアにとって大きな意味がありました。
ただし、ネバ河口は不健康な沼沢地であったため、ペテルブルグ建設には多くの犠牲者がでたり、また、のち政治犯を収容したペトロパブロフスク要塞がつくられたような一面も、忘れられてはなるまい。
というのも、この当時のロシアはあらゆる面で他のヨーロッパ諸国に遅れを取っている、まだまだ後進的な国に過ぎなかったのです。
こうして北方戦争はさらにつづき、一七一八年、カール十二世は戦死したが、けっきょく一七二一年八月、講和が成立、ロシアはバルト海沿岸に領土をえて、ヨーロッパの大国として登場するにいたった。
98> ベーリングの墓は正確には不明である。 そこで死刑が宣告され、二日後に執行されたというが、一説によると、この日の朝、父と九名の将官のまえで取り調べをうけ、拷問中に死んだともいう。 一六七二年、 後妻ナタリアが皇子を生むと、アレクセイ帝は大よろこびで、『外人部落』の市長ヨハン・グリゴーリに、劇を上演するように命じ、これが奇縁となって、ロシアで最初の劇場 (『喜劇座』)が生まれたというが、この皇子こそ、のちの ピョートル一世 (大帝)であった。
4再びロシア帝国が発展するのはの治世の時まで待たなくてはならない。 これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、創設を断行。
まず、彼らはプロイセンのケーニヒスベルクで砲術を習いました。
現在、エルミタージュ博物館で、革命まで皇居であった冬宮も、ピョートル時代に造営がはじまった。
国内には依然として農奴制を基盤とした有力貴族が存在し、産業も未熟であり、近代的な軍隊の創設が急がれていた。
」 「よいこと、必要なことでも、新しいこととなると、わが国民は強制しないとやらない。 「ロシア史はすべてピョー トルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」。
3ピョートル1世はまで同乗してスウェーデン本土に攻撃を命じ、一時はにも迫ったが、全て撃退された。 」 ピョートル一行は、ここでもロシア式のどんちゃん騒ぎのあとを残していった。
カール12世はトルコに逃げたため故国に戻れず、ピョートルはこの機に乗じて親露派のアウグスト2世をポーランド王位に復帰させ、とリヴォニアを征服した。
彼を治療していた医師の一人が同僚たちを告発する報告書を書いた。
これを聞いたピョートルは、自ら伝兵衛に会い、日本の話を聞いてその文明の高さに興味を持ち、ロシア語の習得と日本語をロシアの青年に教えることを命じた。