道徳家くさくてもいけない。
意味は違うが仏教でも「自己満足」は否定的なのでした。
仏教には「動と静は同じものである」という思想がある。
百尺の竿灯から一歩踏み出せば、命を失うこと必定である。
「百尺の修行をして、竿頭に安坐し、悟りの境界にいる人は、まだ真(まこと)に悟った人とはいえない。 極地に達した場合であっても、満足せずさらなる成長を目指す。
11大切なことは目に見えないということなのかな。 「得る」と「失う」もまた同じです。
『十方世界に全身を現ず』とは、悟って悟って、悟りの世界にもひっつかいていない。
「景徳伝灯美録」とは、多くの禅僧や僧侶の伝記を収録している書籍です。
そうすると十方世界に全身を現ずることができる。
ここに、それを上げるならば、 「百尺竿頭坐底人 雖 ニ然得入 一 未 レ為 レ真 百尺竿頭須進 レ歩 十方世界現 ニ全身 一」であるが、漢文だと、こりゃ難解だ。 だから禅門では「大死一番、絶後に蘇る」という言葉を尊ぶ。
8私達一般社会においても言えることではないか。 とはどういうことなのか? 一歩を踏み出したならば、その竿頭から落ちてしまうことになる。
—しかし— 上りつめたとしてもそこに「安住するな」「安住してはいけない」という戒めとして受け取ってみればどうであろうか。
しかし、 ただ「 はかない」 と いう だけで なく、 その 一瞬 で 消え て しまう「 はかない 存在」 こそ が、 じつは とても 尊い もの なの だ という こと も 同時に 教え て いる の です。
彼は職場の中で優秀な人材だが、おごることなく 百尺竿頭に一歩を進むように努力している。
十方世界とは、あらゆる世界、あらゆる所という意味であり、そこにいる人々の為に、自己の仏向上の修行を具現し全ての人々を救うことが、本来の悟りということであるとのことだった。 その方も、そしてその場の皆さんも一様に「何て、言ったの?」というような空気が流れた。
12」という解説があります。
—だが— 私なんぞは、悟るどころか未だに修行未熟で百尺の竿頭には上ってはいないし、ましてやどのぐらいの所まで上っているかも分からない。
昔、読んだ「人生がときめくかたずけの魔法」とも共通点みたいなものを感じた。
一期一会、一生に一度だけ出会うという意味で、だから、その時間を大切にしろという意味です。
以上のことを前提として、先の漢文を解釈をしてみる。 然(しか)も得入(とくにゅう)すと雖(いえど)も、未(いま)だ真(しん)と為(な)さず。 永遠に生命があるのなら、そうはいきません。
14それがとても大事という教えです。 その こと で、 人生 は ラク になり、 いつの間にか、 幸せ を 手 に 入れる」 これを読んでてて、人生は「かたずけ」に似ているなと思った。
ということは禅宗ですね。
本当に悟りを得た人は、更に一歩を進めて身を投げ出し十方世界に、自己の全体を実現するところにある」とのことであった。
—そこで— 今回は、この「百尺竿頭 進一歩」の意味を「さわやか説法」してみることにする。
その身を投げ出し、落つる所はどこか? それは、苦しみ悩める我々衆生(しゅじょう)の世界ということなのだ。 多少、説教臭い部分があり、とっつきにくいが、理解できればいい話しばかりでした。 さらに 先 を 目指し、 精進 を 続け なけれ ば なら ない、 という 戒め が 込め られ た 言葉 です。
その 頂点 と 思わ れる 場所 から、 さらに 一歩、 二歩 と 進ん で いく こと が 大切 で ある、 という 思想 が 禅 には あり ます。
2013-02-20 「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に須 すべか く歩を進め、十方世界に全身を現ずべし」 『無門関』(むもんかん)の第46則に「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に須 すべか く歩を進め、十方世界に全身を現ずべし」という禅語があります。
しかし、 足る を 知ら ない もの は、 どんなに 裕福 で あっ ても 心 が 満たさ れ ず、 常に 不安 で ある」 と 教え て くれ ます。
故に、真の悟りとは、安住することなく、執着することなく、更に一歩を進め、身を投げ出し、自由無礙(じゆうむげ)なることが肝要なのだと説かれる。
つまり、この禅問答の教えたるものは、 百尺たる修行に修行を重ね、悟りの世界に上りつめたとしても、そこに安住しているならば、それは本当の「悟りの境界」とはいえない。 いったん掴んだ安らいの境地、悟りの世界は大変居心地が いいものらしい。 それは物質だけでなく、他人からの評価や、与えられたポジションなどについても同じである。
12そのように、人は常に水の流れのように変化し続けているということなのか? 「百尺」は「ひゃくせき」と読む場合もあるので、注意しましょう。
喫茶去の話しは興味深かった。
「百尺竿頭に一歩を進む」の由来 「百尺竿頭に一歩を進む」の由来は、禅宗の書籍『景徳伝灯美録 けいとくでんとうびろく 』に登場する禅僧・長沙景岑 ちょうさけいしん の言葉です。
という映画が同じモチーフです。