なお、今年(令和元年)も8月25日に森林組合職員が管理のために水晶峠付近から山頂まで登ったが、登り5時間30分、下り3時間弱の時間がかかっており、大変きつかったとの感想であった。 神木・鬱金(うこん)の桜 家康が腰掛けた石 招福大黒天 道祖神 参道 水・稲荷・秋葉 日本三御嶽 三大霊場 御嶽山金櫻神社由緒 御祭神 俗に 医薬禁厭無病息災の神 俗に 商賣繁昌福徳円満縁結びの神 俗に 祇園さま 厄除、勇気倍増の神 相殿 経営の神 子育て婦徳の神 祭日 一月中 御嶽初祈願祭 四月二十一日・二十二日 春の例大祭 五月十五日 相殿祭 六月三十日 夏越しの大祓え 七月十五日 祇園祭 十月十七日 秋の例祭 十二月二日 特殊神事鎮火祭 第十代崇神天皇の御代(約二千年前)各地に疫病蔓延し 天皇 深く憂慮され諸国に神祇を祀って悪病退散萬民息災を祈願せしめられる この時、甲斐国では金峰山(北方約三十キロ)山頂に少彦名命を祀られたのが当社 の起源である。 - 21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」• 実生活の面では、山は農耕と生活に必要な水をもたらし、道具を作るための木材を包蔵するありがたい存在である一方、時には洪水や土石流によって生活を一瞬のうちに破壊してしまう怖い存在でもあったといえます。
1出雲大社の大国主命の若年名。
境内入口付近に建つ 多宝塔は、後期の3年()の建立。
文献では当社について「金佐奈」と見えるが、「かなすな」がこの「かなさな」に転訛したとされ、表記は「金鑽(貝の上の字が先)」のち「金鑚(貝の上の字が夫)」と変遷して、近代以降は「かなさら」とも読むようになったとされる。
御嶽(御岳)の鏡岩 (国の) 御嶽の鏡岩(御岳の鏡岩、みたけのかがみいわ)は、御嶽山の中腹にある岩( )。
祭神 [ ] 祭神は次の3柱。 当地からは御室山がよく仰がれ、元々は本社の旧鎮座地であって当地から御室山を遥拝したと考えられている。
5外部リンク [ ]• 第十代崇神天皇の御代に疫病退散と万民息災の祈願のため、金峰山山頂に御祭神である少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀ったのが起源で、奥の宮は山頂にあり、金櫻神社は里宮にあたります。
神宝は、昇仙峡で採取された水晶から作られた「火の玉・水の玉」 社殿は、鎌倉時代の様式で、戦前は国宝だったが、 焼失し、今は復元されている。
観応年間一向一揆により金浦郷田井村へ遷座され、金浦郷の総鎮守産土神となり、当宮を前田家祈願所とし城郭の鎮守と定める。
甲斐保勝協会編『甲斐勝景写真帳』昭和初期の「金櫻神社神楽殿」昭和7年(1932年)発行、国立国会図書館蔵書、平成29年10月21日閲覧。
神楽は26座あり、収穫を願う神楽とは違い、山岳信仰の神楽として荒々しい所作も認められ、江戸後期に描かれたと推定される三巻からなる絵巻物にもその様子が描かれています。
参考文献 [ ]• 参道からは、横向きの社殿は、美しい朱色。 また、中世からの社務はの(金鑚寺)が担ったとされるほか、には・や御嶽城主・長井政実から保護されたという。
暁町 石引1丁目 石引2丁目 石引3丁目 扇町 兼六町 兼六元町 小将町 桜町 宝町 天神町1丁目 天神町2丁目 東兼六町 横山町 由緒 永仁5年加賀国主富樫義親京都北野天満宮より丹波屋敷と称する山崎に勧請す。
さて、修験者達が参詣する道を御嶽道といいますが、「甲斐国志」によると、この道は9筋あり、各地に里宮がまつられました。
推測されるのは、明治時代の神仏分離によって神社として独立する際に処分されたのではないかとのことです。
多宝塔 - 室町時代後期、天文3年(1534年)の造営。 北向きで約30度傾斜している。
現在、御嶽山にはその遺構が残っている。
建立時期が明確であり、当地付近を拠点とした(安保氏)との関連を示す遺構になる。
また『風土記稿』によると、12年()銘の鰐口にはやはり五宮と刻銘があるという。
貞観4年(862年)8月6日、正六位上から従五位下(『日本三代実録』) 境内 [ ] 社殿 [ ] 多宝塔() 境内の主要社殿は拝殿・中門からなり中門の背後には一般の神社に見られる本殿がなく、とする御室山(御室ヶ獄)を直接拝するという形式を採っている。
かなざくら神社 ライトアップ 2020年は? 日時 4月20日(月)~5月6日(水) 時間 18時~翌4時. また『風土記稿』では、祭神をとして素戔嗚尊の別名とする別説を挙げる。 武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が厚かった。 また、保有している工芸品の中には県指定有形文化財もあります。
神使は白狗と狼 祭神の道案内 交通安全守護 虫切の鈴 日本三土鈴の一つ 水晶守 生涯守として金運と厄除け 日本三御嶽の内、花の御嶽とも云われる。
昭和初期の神楽殿(左側)と拝殿(右側) 古代には甲斐国司が参詣し、は自筆経文を奉納したという。
は4月21日から22日で、御岳大神楽が行われている。
(やまとたけるのみこと) - 第12代の。
昇竜降竜は堀友二作のものが奉納されている。 御岳町の相原(廣)さんと坂下さん 金櫻神社の昔を知る御岳町のお二人に話を聞きました。 社名「かなさな」の語源は「金砂」にあると考えられているように(「」節参照)、採鉱・製鉄集団によって祀られたのが当社の実際の創祀と見られている。
5年()成立の『』では、に「金佐奈神社 名神大」と記載され、に列している。 この地で発掘され、磨き出された水晶「火の玉・水の玉」がご神宝。
金浦郷総社田井天満宮、椿原神社、椿原天満宮と称え奉り旧金沢五社の筆頭たる御社格であった。
には幕府のがを奉納し、も法華経を奉納したという。
文化財 [ ] 特別天然記念物(国指定) [ ]• 4461 関連項目 [ ]• - 通称「金鑚元三大師」。
両本殿はに国のに指定されたが、30年()12月18日の火災で両本殿はじめ12棟や伝作の昇竜降竜が焼失しており、現在の朱塗社殿は昭和34年に再建されたものである。 当社の御神木となっている楠木の巨木は、埼玉県指定の天然記念物で、幹回り五・一メートル、高さ約二十メートル、樹齢約三百五十年以上と推定される。 また、御獄山の中腹にある「鏡岩」は国のに指定されている。
4第十代崇神天皇の御代、各地に疫病が蔓延した時に、 各地に神を祀った、その一つ。
一方で江戸時代の『武乾記』(元年())では当社は二宮と記され 、地名や神社公称も二宮としているが、当社を二宮とする中世史料はなく明らかでない。
武田信虎は、この御岳の川窪に信玄の弟である信実(のぶざね)を配置し、信州佐久方面から北部山岳地帯を経て甲府城下町に至る道筋の監視・防衛にあたらせるとともに、社家を抑え、武田氏の支配下に組み入れていくというねらいもあったものと考えられます。
(神川町ホームページ)。
この里宮が金櫻神社であり、金峰山信仰の中心神社となりました。 社名 [ ] 社名「金鑚(かなさな)」は、を意味する「金砂(かなすな)」が語源であると考えられている。 の桜 見頃は5月の上旬です。
6境内は、欅や銀杏などの老樹に囲まれ、本殿と拝殿とを幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。
信仰対象となり得る霊山への登り口には、 それぞれに里宮を祀ることが多いし、 その、いづれが真の式内社であるか、判定は難しい。
青木慶一 『邪馬台の美姫 日本古代史測定論』 1971年 毎日新聞社 pp. 金櫻神社(かなざくらじんじゃ) 甲府の名勝、昇仙峡を登りつめた地に鎮座する金峰山を御神体とした神社です。
御年91歳の相原廣美(あいはらひろよし)さんと、御年80歳の坂下武(さかしたたけし)さんです。