うち74人の児童と10人の教員が津波にのまれて死亡するという事件が起きたのだ。 著者はこの視点から我慢を美徳とし必要以上に声を上げることをよしとしない日本の文化が生み出す光と闇にも焦点をあてる。
一生懸命証言してくれた子どもたちが口封じされ苦しんでいる。 ほかの遺族たちも疑問を持ち始める。
html 大川小学校の跡地に立てば、ほとんどの人が「なぜ裏山に逃げなかったのか」という疑問をもつでしょう。
津波被災当時、周辺の集落の人々が避難していたところだ。
哲也さんは自身の役割を全うするかのように大川小学校校舎保存の活動を始めた。
学校の建つ釜谷地区は、小さな集落だが、石巻市内でも突出して遺体発見数が多かった。 まさに誰に向けての何のための検証結果なのかということです。
それが私たちの遺族の心からの願いです 長男・哲也は、高校生になりました。
英《ザ・タイムズ》誌アジア編集長、東京支局長でもある著者は前作『黒い迷宮』で2000年におきた英国人女性ルーシー・ブラックマンさん殺害事件を追い、日本の歓楽街の闇の一面を見事に描き出した。
宮城県経済商工観光部観光課 〒980-8570 宮城県仙台市青葉区本町三丁目8-1 宮城県の大川小学校献花台に関する情報なら「こころから」をチェック!口コミや写真だけでなく、周辺の観光スポット フジテレビ「fnsドキュメンタリー大賞 ~校庭から伝えたいこと~遺族 石巻・大川小~~」で2017年7月15日(土)に放送された内容です。
3月10日(日)石巻・大川の震災語り部と復興祈念公園の市民活動体験 石巻市の旧大川小学校で語り部の話を聞く仙台発着のバスツアーが3月10日(日)にあります。 その頃はまだ、行方の分からない家族や知り合いの手がかりを探す人たちで、校舎周辺はいつも騒然としていた。 しかも校舎の裏には、低学年の生徒でも上ることが可能な緩やかな勾配の小高い裏山がある。
16生年月日: 1963年8月29日 出身地:石巻市(旧河北町)生まれ、宮城教育大学卒業。
だからこそ、助かった命ではないか、どうして我が子は死ななければならなかったのかを解明して欲しい遺族は望んでいたわけです。
HONZでも話題騒然となり内藤編集長が著者インタビューを敢行している。
紫桃さよみさんら、福地地区の遺族の多くは津波の被害を一切受けておらず、何人かのお子さんを亡くしただけで、他の家族や財産は無傷である。
さらに、教師の遺族が辛いのは、「生徒たちを救えなかった」と一生遺族や第三者から言われ続けてしまうのです。
教師の判断で校庭に座らされ、裏山ではなく三角地帯(川の堤防方向)に避難させられて死亡・行方不明となった児童74人のうち、23人の遺族が市と県に計約22億6,000万円の損害賠償を求めていた大川小訴訟。 保護者たちの怒りと不信は頂点に達し、市の教育委員会が主催する説明会が開かれることに。
(ポプラ社)でも写真を担当し、執筆協力も行っている。
私も同感ですので、この言葉を只野さんのお許しを得てブログにのせさせていただきました。
釜谷にある大川小学校には当時108人の生徒が在籍していた。
そうした指摘に対しては「聞いていなかったという証言があるから」という返答が帰ってくるのですが、防災無線も聞こえていた人と聞こえていなかった人がいます。 子どもたちがどういう気持ちで津波にのまれ、悔しい、悲しいって亡くなっていったのか…」 裏山を下りた後、メディアの囲みで、改めて哲也さんは自らの思いを伝えた。
10本当にそう思います。 「ヘルメットを被ってたから頭は守られた。
「1月20日は妹の誕生日。
日頃の津波や地震に対する意識が足りなかった。
他にも同じように避難訓練していなかった学校もあったのも事実です。
高校へ進学したとき幼稚園の同級生と再会したという友達がいました。 一般の人にもぜひこの記事を読んで、正しく何が起きているのかを把握し、我が子を失ったご遺族を傷つけることがないようにしていただければと、心よりお願いしたいと思います。
5年生のクラスでは帰りの会をしており、「さようなら」を言う前に地震が起きた。
震災のことから離れて地元を出たい反面、校舎の保存のことがあるので地元にいたい。
震災がなければ、普通に過ごせたはず。
でも靴は靴下も脱げて、裸足で雪の中を歩いた」 周囲「えーっ?!」 哲也さん「翌日、山を避難するときも裸足なんで、刺さる、刺さる…」 哲也さんは、年月が経つにつれ、思い出すことがあるのか、あの日のディティールを少しずつ語り始めているように思える。
私たちは、この工場の経営者が、大川小の生存者の当日の様子を知っていると聞いて、話を聞きに行った。
おじいちゃんっ子、おばあちゃんっ子でした。
1枚目の右下の青いテープが津波到達地点です。
辞書で「推定」を引くと、「はっきりとはわからないことをいろいろな根拠をもとに,あれこれ考えて決めること。 つまり、学校で亡くなった児童のほとんどが、この大川小学校の児童という事だ。
17話を引き継いだ鈴木典行さんの次女で、当時小学6年の真衣ちゃんも、ここで見つかった。 社長夫妻の話によると、この報告のなかには、いくつも矛盾点があり、A教諭とは別人の証言のように読めるという。
実は、私たちは、裁判の場でA先生から話を聞くよりも、もっとA先生が話し易い方法でA先生と接触ができたらいいとも思っていました。
「教師は津波の襲来を予見しながら、児童を安全な裏山に避難させず、避難場所として不適当な橋のたもとに誘導した」として遺族が裁判を起こします。
教頭先生から激励の言葉を頂きました。
そういう長い付き合いはうらやましいと思いましたね。 入釜谷の国道に出る林道につながる。
そんなとき、宮城県石巻市にある釜谷地区の大川という小学校で震災の中でも、とりわけ悲惨な事件が起きていたことを知る。
東日本大震災という数十年に一度、百年に一度レベルの地震と津波に慌てない人はいませんし、選択は間違ったとはいえ避難はしようとしました。
彼は震災3日目に今野ひとみさんに目撃されて以来、音信不通の状態であった。