これを受けて翌9日に陽成天皇が清和太上天皇に朝覲行幸するため粟田院に輿を進めようとしたが、太上天皇は右大弁藤原山陰(824~88)を遣わして、面会を謝絶した (『日本三代実録』巻35、元慶3年5月9日戊戌条)。 柾目の通った桧材を惜しげもなく使うなど、細部にまで風流な工夫を凝らした部屋からは、当時の西陣旦那衆の羽振りのよさもうかがい知ることができる。 京都の七口の一つ、粟田口の近くでもある「粟田山荘」は京都ホテルオークラの別邸。
6270坪の庭園は傾斜を利用したすり鉢型で、座敷 大広間などお部屋から眺めることができます。 12月10日に初七日が行われ、粟田寺・常寂寺・禅林寺・貞観寺・観空寺・粟田寺・円覚寺、および水尾山寺の7箇寺には修法のため使者が派遣されている。
この「笹踊りの式」は『嵯峨誌』によると「花笠踊」とも称されていた。
また円覚寺では正月8日に本尊の薬師仏に串柿を切って花のように竹にさした「柿花」を供え、12日にも清和天皇社でも柿花を供える風習がある (飯島2007)。
ショウジトは3年交替で2人選ばれ、交替日の9月23日に先任者と併せて4名で愛宕山に参詣した (『嵯峨誌』)。
料理の説明はもうちょっと欲しかったけど笑。 以後の生活は酒・酢・塩などを絶ち、2・3日に一度に限って斎飯(昼食)をとり、常に苦行を行ない、身を削るかのように罪業をたち、この身を厭い、膳をとらずに捨てようとさえした (『日本三代実録』巻38、元慶4年12月 4日癸未条)。
[参考文献] ・上野竹次郎編『山陵』(名著出版、1989年2月〈山陵崇敬会(上・下)1925年の再版〉). また『扶桑京華志』(1665)では源為義の塚が朱雀の祇陀林寺の竹林中にあったというが、これが円覚寺跡と推定している (『扶桑京華志』巻之2、源為義塚)。 近世期には毎年4月3日に清和天皇の祭礼を行っていた。
また水尾大岩(水尾中心部から1kmほど東の山中)の中山には庚申堂があったが、明治16年(1883)9月5日に建物を取り壊し、本尊を円覚寺に遷座している (『葛野郡寺院明細帳』25、円覚寺〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京 都府庁史料(宗教)〉)。
子供は完全に旅館と勘違いしたらしく、「今日ここに泊まるの?」笑。
『拾芥抄』には「北白河」とし (『拾芥 抄』下、諸寺部第9、諸寺、円覚寺)、それを受けて『山城名勝志』(1711)には、鳥居小路の末、南田、字を円覚寺と呼んでいることから、その地に推定している。
12時00分〜13時30分と13時30〜15時00分。 そんなちょっと隠れ家感がまたいいんですけどね。
というか、「子供がOKで、それなりにちゃんとした料理を食べたい!」というのが、もともとのこの店を選んだ理由。
京への出入り口のひとつ、粟田口に建つ【京料理粟田山荘】は、由緒正しき門跡寺院の青蓮院に隣接しています。
ランチはお手軽な粟田重6000円を予約。
しかもじゃぶじゃぶ浸す。
ここで子供連れにありがたいのは、子供用弁当や単品なんてのもある。 大徳寺は近世期には毎年5月に愛宕山福寿院より僧が来て、当寺にて大般若経を転読していた (『京 都古習志』)。 その後同年8月23日には水尾山寺の仏堂造営のため、左大臣源融(822~95)の山荘である嵯峨の棲霞観(現清涼寺)に移っているが (『日本三代実録』巻38、元慶4 年8月23日甲辰条)、重病となり11月25日には棲霞観を離れて円覚寺に移った (『日本 三代実録』巻38、元慶4年11月25日乙亥条)。
とくに足を全く動かさない点では類例がほとんどないという。 延宝7年(1679)5月5日、水尾村の藤右衛門の娘こゞが伝右衛門家にて火の不始末をしてしまい、水尾村85戸のうち83戸が焼失、死者5人、牛3頭焼死の惨事となっているが、この際、「宮寺不残焼失申候」とあるように、円覚寺もまた焼失した。
貞元元年(976)6月18日には大地震にて円覚寺が倒壊しており、他に八省院・豊楽院・東寺・西寺・極楽寺・清水寺も地震により倒壊している (『日本紀略』貞元元年6月 18日癸丑条)。
席も若干低く設定されていて、お座敷とテーブル席の間ぐらい。
実は予定より30分も遅れて笑。
かつては丹波国に属していたこともあるように、丹波国と国境を接している。 これは安祥寺の例にならったものである (『日本三代実録』巻49、仁和2年6月20日戊辰条)。
19京都ホテルオークラは、8月18日より、ホテル最上級客室「インペリアルスイート」指定、京料理「粟田山荘」夕食付き期間限定宿泊プランを販売。 31歳。
元慶5年(881)3月13日には円覚寺は官寺に昇格し (『日本紀略』元慶5年3月13日辛酉 条)、4月3日に山城国愛宕郡八条野尻里空閑地5段を円覚寺に充当し (『日本三代実 録』巻39、元慶5年4月3日庚辰条)、7月22日には白米100斛、黒米100斛が円覚寺に送られ、造仏・造寺の料として充当された。
元慶7年(883)12月4日の忌日は太皇太后が円覚寺にて斎会を行っており、親王・公卿が参列した (『日本三代実録』巻44、元慶7年12月4日丙申条)。
つるんとした喉越しに生姜が利いててウマし。
この粟田山荘は「鴨水の東」にあったというから (『扶桑略記』第20、元慶3年5月4日癸巳条)、鴨川の東河畔に位置していたらしいが、その位置は判然としない。 あらかじめご了承ください。
広さ227㎡の客室に広がる総延長50mの窓からは、京都三山(東山・北山・西山)や鴨川、京都御苑が望める。
自然と一体となった建物がかっこいい。
数寄の美を随所に見せる座敷で器と庭園に描かれる、秋の風情を堪能 元は西陣の織元が、昭和12年に建てた別荘だったという粟田山荘。
宮内庁治定清和天皇陵(平成23年(2011)8月16日、管理人撮影) 粟田の円覚寺 円覚寺は藤原基経の山荘である粟田山荘を前身とした。 この時点では水尾(水雄)は山背国の所轄であったものの、いつ頃かは不詳であるが後に丹波国の所轄に移管されている。
抹茶と小豆の水羊羹。
翌年の元慶6年(882)12月4日の忌日にも円覚寺・貞観寺・水尾山寺の3箇寺に勅使が派遣され、円覚寺・貞観寺には綿がそれぞれ411屯、水尾山寺には211屯が忌料として用いられた (『日本三代実録』巻42、元慶6年12月4日壬寅条)。
天暦3年(949)9月29日に陽成前太上天皇が冷然院にて崩ずると、円覚寺になきがらを安置した (『日本紀略』天暦3年9月29日条)。
現在の水尾の円覚寺は、直接的には水尾山寺の系譜を引いているにもかかわらず、水尾山寺の創建年は不詳であり、水尾自体の記録も乏しく詳細はわかっていない。 10月22日には右大臣藤原基経が六衛府に対して、この月24日に太上天皇が大和国に御幸するため、諸陣を厳戒にするよう宣している (『日本三代実録』巻36、元慶3年10月22日戊寅条)。
また「ショウジト」と呼ばれる役があり、愛宕山へ集落代参役として毎月亥の日と23日、出火の際に必ず2名が参詣することとなっていた。
安永8年(1779)12月4日の清和天皇九百回忌に際しては、円覚寺住持の慈潭を同士として、念仏寺・大徳寺、村の古老・庄屋・年寄をはじめとした村中の老若男女が参詣し、仏前に「清和太上天皇九百御忌」と位牌をたて、御膳やその他の盛物を供え、赤飯を炊いた (「庄屋記録」松尾家文 書〈『史料京都の歴史』第14巻所載〉)。
これを5・6度繰り返すと、鉦鼓が4度叩く間、太鼓は1拍1休止1拍1休止し、これを繰り返すと、再度鉦鼓が4度叩く間、太鼓は3拍1休止に戻る。