「読んでみると真実の匂いがするのですね。 この私を遙かに超えた偉大な存在が私にかけて下さる大きな愛情というイメージでしょうか。 たとえば「ただ信心を要とす」という一文でも、「助かったとハッキリした心」という意訳に対し、「ただ念仏で往生できると信じた心」ではないか、と反論がなされました。
18解説はこちら 第7章 現代語訳 念仏者は無碍の一道 第七章 原文 現代語訳 念仏者は無碍の一道なり。
親鸞は「唯円よ、お前もか。
(岐阜県 73歳・男性・農業) 文字が大きく分かりやすい。
まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。
時間、お金、体力費やして何をしているんでしょうか?会の中のサークルの延長でしか、皆となんとなくでしか求められない人なんだとがっかりしました。
19(長崎県 84歳・女性) 『歎異抄』を、一度は読んでみようと思っていたが、難しくてあきらめていました。 実は、私も全く同じ心なのだ」と答えている。
会長は、果たして真実信心を獲ているのかも疑問。
手間を惜しんじゃいけないよ! 投稿: 2009年7月25日 土 09時18分 親鸞会創設以来、会長は本願寺、他宗、他宗教に対して、激しい批判の姿勢をとってきました。
聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
」と言ったそうです。
まだ会長崇拝が解けていないから、教えてくれなど、とぼけた事が言えるのです。
著者は『歎異抄』を「凡夫(一般人)」に向けた教えであると終始意識しており、そのことが現代にも通じる訳を生み出した原動力となっている。
いくら「歎異抄」が魅力的な書だといっても、100分という短い時間で入門者向けの解説などやってもいいものかどうか。
だから「この人達は俺の裁量で仏法聞くようになったのだ」などと考えるのは極めて極めて傲慢不遜であり、決してあってはならぬことだ。 よく戦時中の話で 「特攻隊に志願して、終わってみれば騙されていたことに気づく」 なんて言ってるけど、彼の頭の中には戦争が強烈な原体験として、 焼きついたのかもしれないね。
阿弥陀仏の本願は、この世で悩み苦しみ、そして生きるために数々の罪を犯している我々を助けようという、約束である。
わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも 助け候わめ、ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、 六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便を もってまず有縁を度すべきなり、と云々。
その自覚が他の宗派よりは一段と高かったと言えるのだろう。
投稿: 2011年12月29日 木 09時39分 確かに。
「情報」と「物語」 「歎異抄」を取り上げたいと思ったきっかけは、コラム「」で書いたとおり、東日本大震災の被災地を取材した折の経験でした。 それぞれの時代で文化も考え方も変わってきているのに、参考になる部分があるのかと、疑問がわいてきます。
ダミーサークルも仏教を知らせるために必要。
もちろん、学齢前後に信心決定できる人は本当に少ないと思いますが、過去世から類稀な仏縁があり、真実の仏教を話してくれるたり、聞ける環境を与えてくれる親を選んで生まれてきた尊い子どもさんもあるのでしょう。
現役の会員の人、今なんだよ!考える時間作って、逃げないで、向き合うんだよ!現実と。
救われたと言っていた人は何時の間にかいなくなるし、救われて会の中で布教しようとしていた人は除名になるし。 反対に間違いに気ずいていれば、、あまりにも多くの人の人生を狂わせたことで、普通人の感覚なら気が狂わんばかりになるもんでしょうが?不思議な人物です。
専門は宗教思想。
創価学会、顕正会、本願寺と比較すると、信者数なら数百分の1程度だ。
六道輪廻やケドというと、あまっちょろいし。
それと6歳のとき信心決定したお子さんは会長の話を聞いていたかも知れませんが、その後K光で聞いたとは書いていないような気がします。
浄聞房 [備後国] 澄西禅光房 [伯耆国] 好覚房 [伊豆国] 行空法本房 [佐渡国]幸西成覚房・善恵房二人、同じく遠流に定まる。
またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せ の候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、い はんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつ しんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひとを千人ころしてん や、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにて は候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえ ず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふこと をたがふまじきとはいふぞ」と。
如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。
どんな悪より弥陀の本願を疑う疑情が悪いと教えられて、そのために六道輪廻から抜けられないと教行信証に聖人も教えられています。
投稿: 2009年7月26日 日 15時25分 20年近く聞いているなら、会長先生の言うことには間違いはないと思っています。 ここで、退会してるひとが言ってるようなことは、ささいな取るにたりないこと、小さなたわごとにしか聞こえないと思います。 家族がいるのだから在家だろう。
9これでは聖人の教えを学ぶ後輩が、正しく学び、伝えるのに、疑いや惑いが生じかねません。 念仏申すことかたし。
会に今は属していない妙好人。
それでもおすわは、夫の目を盗んで親鸞の元に通い、行けない時は親鸞から貰った御名号に向かって熱心に念仏を唱えたそうです。
だから、阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称える身になることのみが、徹底した大慈悲心なのです、と親鸞聖人は仰せになりました。