只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。
御利益のある、願いの叶う御題目は、大聖人様と、大聖人様よりの血脈を御所持遊ばされる、総本山の御法主上人を「よき師」と仰ぎ、末法の修行である折伏行を表にして、素直で正直な信仰に励む「よき檀那」の立場を守り、「よき法」である、文底独一本門戒壇の大御本尊様を持つことですから、間違いはありません。
しゅじょうほんぬの みょうりとは みょうほうれんげきょう これなり. これは、爾前経の「歴劫修行」に対する言葉です。
非常に難しい漢文で書かれた御書や、「観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)」など多くの重書をいただくなど、四条金吾と並び称されるような中心的門下でした。
ですから、「一生成仏」といっても「即身成仏」といっても同じ意味なのです。 同じ南無妙法蓮華経のお題目を唱えても、自身の生命の外(ほか)に法があると思って唱えたならば妙法ではなくなってしまうとと強調され、「唱題行」の意義について、法理と実践の両面から明らかにされている御抄です。 天上は日数は永く寿も長ければ、併ら仏をおがみ法華経を聴聞せる天人かぎり多くおはするなり。
1しかし「生命の鏡」を知らない多くの人は、人生を自分の生命の反映として見つめることができないため、自分の姿を見て身だしなみを整えるようには、自分の生命を見つめ変革することで、現実を変えていくことができません。 されば当世の祈りを御覧ぜよ、一切叶はざる者なり。
富木常忍が何者かと言いますと、千葉県の武士とされておりまして、現在でいえば上級公務員であり、守護大名の執事のような立場であったそうです。
ただいまも いちねんむみょうの めいしんは みがかざる かがみ なり. 今世一生の間に成仏の功徳を受けてゆくことです。
続く御文に「譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし」とある通り、迷いにとらわれた凡夫の心は「磨かざる鏡」であり、凡夫の迷いの生命も、磨けば仏の悟りの生命となる、との仰せです。
この妙理を観ずることを『観心本尊抄』では「観心とは我が己心を観じて十法界を見る。
反対に、欠かさずに勤行をしても、この三つが具わらない創価学会のような信仰では功徳が出ないことに注意しなくてはなりません。
人間の五十年は四天王の一日一夜にあたります。
ゆえに、このような人を、仏法を学んでいながら、外道となるとはずかしめられたのです。
生命を変革すれば、地獄は天国に変わり、迷いの生命は悟りの生命になる。
これを観心と云なり」(六四六頁)と示されます。 要するに、仏道の根本的な悟りとは何か。
そして、その信心を毎日、朝晩、怠ることなく持続し続けること。
そうすれば、わが人生も、境涯も広々と開ける。
不幸な人生が幸福な人生に一瞬にして変わったのです。
『一生成仏抄』(四十六頁) 「譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。
したがって、深く信心をおこして日夜朝暮に怠らずに磨くことです。 くしくもジャスミーナさんが小説・新人間革命を「最高の宝」と表現されましたが、 まさに創価学会の宝は小説・人間革命にあるし、その宝を得て 私たちは、信心を奮い起こし、祈り行動できる訳です。
16勇敢な心については、正木理事長が新年勤行会拝読御書の種種御振舞御書の講義で『正義を語れない臆病者では、自身の生命に真の正義は確立できない。
さらに、「念仏宗や禅宗、真言宗等の、諸経諸宗は、真実の教えではない権教・不成仏の法であり、それを元にして修行をすることは、無間地獄に堕ちることになる。
その具体的な実践方法をご指導された御書が、今回の座談会御書・一生成仏抄の拝読範囲です。
では、どのようにして磨いたらよいのであろうか。
また「時間のムダではないか」と思う一念で仏道修行すれば、その不信や愚痴の心が功徳を消してしまう。 自身の心の変革によって、成仏という、生命の根本的な変革も成し遂げられると言われています。 そして、その生命の中にある仏と同じ性分を「妙法蓮華経」であるとご教示になります。
大聖人は「深く信心を発して」そして「日夜朝暮に又懈らず」と2点のポイントを挙げられています。
只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。
それは凡夫と仏においても同じです。
それを例えていえば、鐘は音の大小に応じて音が出るようなものです。
答ふ(中略)妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ。 しかれば ぶっきょうを ならうと いえども しんしょうを かんぜざれば. 心の師とはなるとも心を師とせざれ 「法」を根本とした「師弟の道」を 勇んで唱題に励み、の行動へ打って出ることこそ「一生成仏の直道」 無明・魔性と戦い抜く、深く鍛え抜かれた信心、 そして自行化他にわたる唱題の実践。
末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり。
御書の最初に、「問うて云はく、華厳宗・法相宗・三論宗・小乗の三宗・真言宗・天台宗の祈りをなさんにいづれかしるしあるべきや。
たとえば、勤行や広布の活動で、時には「ああ、いやだな」と思うかもしれない。
私たちの身体に影の付き随うようにして、常に私たちを守もる、とのことですから、法華経を信仰する私たちの祈りが叶わぬ筈はありません」となります。 立宗宣言をされた二年後、大聖人様は鎌倉の松葉ケ谷(まつばがやつ)に草庵を構えられ、折伏弘教のまっただ中でした。
1先の一生成仏が修行の時間の上からの言葉であったのに対して、即身成仏は修行をする身にあてはめての言葉である、ということがおわかりいただけると思います。 日寛上人の御本尊を真似て作った「池田大作作の『ニセ本尊』」を拝んでいる者たちへの警鐘です。
この御本尊を拝する時、わが生命の本来の姿(実相)を観 み 、仏界を涌現できる。
(いっしょうじょうぶつしょうに まなぶ) 一生成仏抄(いっしょうじょうぶつしょう)。
ついには、ただただ苦しんでいた時には全く想像もできなかった形で問題が一気に解決し、立ち込めていた黒い霧がスカッと晴れるような気分を味わわせていただいたのです。
ありがとうございます。 したがいまして、仏の前で法華経の行者を守ることをお誓いしたことを、自身を成仏に導いて下さった法華経の御恩を忘れ、法華経の行者を見捨てるようなことはないと思えば、頼もしい限りです。 この中では畜生の身である竜女がその身を改めることなく仏になることができた、ということを教えています。
17そういうさまを万法と言うのである。
富木殿は、信行学の錬磨に努め、後に入信した曽谷教信殿、太田乗明殿、四条金吾殿らの中にあって中心的な役割を果たしました。
たとえば びんぐの ひと にちやに となりの たからを かぞえ たれども. この御書拝読のとき、一生成仏抄の御文から一念が転換したのです。
四、結 び 本抄で御教示あそばされる妙法唱題の大事について、大聖人様は後の『御義口伝』において、 「日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは捨是身已 しゃぜしんい なり。