明智 光秀 ハゲ。 織田信長はあだ名の名人!どんなあだ名をつけたの?

残念な戦国武将のあだ名4選!全然カッコよくないあだ名もあった?

明智 光秀 ハゲ

ガッカリな戦国武将のあだ名 戦国武将のあだ名といえば武田信玄の「甲斐の虎」、上杉謙信の「越後の龍」などのカッコいいあだ名が有名で、彼らのあだ名から取って川中島合戦は通称:龍虎の戦いとも言われています。 しかし、戦国武将のあだ名はカッコいいものだけではありません。 「鮭様」だったり「ハゲネズミ」などもはやバカにされてるんじゃない?と思ってしまうもものもあったのです。 残念な戦国武将のあだ名を4つご紹介します。 鮭様(最上義光) 最上義光は伊達政宗の母義姫の実兄で、伊達政宗の叔父にあたる人物です。 伊達政宗が当主を務める伊達家とは父親の代から東北地方の覇権を争うライバル大名でした。 その最上義光のあだ名が 「鮭様」です。 最上義光に「鮭様」というあだ名がついた所以は文字通り「とにかく鮭が大好物」だったからです。 当時鮭は高級品でなかなか入手することができませんでした。 最上義光は大宝寺氏との争いの末に日本海に臨む現:山形県庄内地方を手に入れます。 そこで鮭が獲れると大いに喜んだそうです。 そして最上義光は伊達政宗と文通をしており、 『妹のために鮭を贈る』 『伊達政宗の送った手紙の返礼として鮭を贈る』 『徳川家康への献上品として鮭を持参する』 『手紙を書いてくれた家臣への返礼として鮭を贈る』 というように鮭、鮭、鮭…とにかく鮭づくしな大名でした。 ハゲネズミ(豊臣秀吉) 豊臣秀吉のあだ名といえば織田信長がつけたとされる「サル」が有名なのですが、実は織田信長が豊臣秀吉のことを「サル」と呼んでいた証拠はありません。 しかし別のあだ名が文書として残されています。 それが 「ハゲネズミ」です。 豊臣秀吉は顎が細くて目がパッチリ、さらに額が広かったため、織田信長はその容貌から「ハゲネズミ」というあだ名をつけました。 そして、「ハゲネズミ」が書かれている文書は豊臣秀吉の妻である寧々(ねね または おねとも)に宛てた手紙に登場します。 そもそもなぜ主君である織田信長が家臣の妻に手紙を送っているのかというと、豊臣秀吉の女癖の悪さが原因でした。 豊臣秀吉は寝ても覚めても極度の女好きで、浮気放題の限りを尽くしました。 いつものことなのですが、寧々は夫の浮気を知ったとき殴る蹴るの暴行を加えたり、食事を抜く、豊臣秀吉を縄で縛って土間につなぐなどのお仕置きをしていたと伝えられています。 しかし、豊臣秀吉は全然こりません。 さすがの寧々も呆れてしまい、ある秘策をとりました。 その秘策とは「24時間旦那を無視」という精神的ダメージが甚大なお仕置きです。 さすがの豊臣秀吉もこのときばかりはたいそう狼狽し、困り果てた末泣きついたのは主君の織田信長です。 このとき豊臣秀吉は織田信長にこっぴどく絞られたそうなのですが、主君として可愛がっている部下のためにひと肌脱ごうと夫婦喧嘩を仲裁する手紙を書きました。 その手紙には以下のような文面が書かれています。 「この度は私のハゲネズミがあなたに対して不敬を働き、大変遺憾に思う。 私の監督がきちんと行き届いていなかったので、申し訳ない。 しかし、あなたも武士の妻ならば旦那が妾のひとりやふたり作ってもいちいち目くじらを立ててはいけない。 私のほうからもハゲネズミを叱っておくので、今回はこれで終わりにしてあげて欲しい。 」 きんかん頭/きんか頭(明智光秀) 明智光秀は髪が薄い、つまりハゲだったと言われています。 明智光秀にこの 「きんかん頭/きんか頭」というあだ名をつけたのはやっぱり織田信長です。 夏場になると汗をかいた明智光秀の頭はテカテカしていたらしく、織田信長はみんなの前で明智光秀をバカにする一言を放ちます。 「光秀よ、お前の頭はテラテラとよう光る。 眩しくてかなわんわぁ」。 すると周りは爆笑し、明智光秀は赤面ものの恥をかかされました。 ちょっと苛立ちを覚えたのですが、上司なので苦笑いを浮かべて「はぁ、申し訳ありません」と頭を下げたところ。 「このきんかん頭めっ」と何故か怒られてしまいました。 さらにこの「きんかん頭」は本能寺の変の引き金を引く、織田信長が明智光秀の額を扇で叩き、流血させた事件でも言い放たれました。 しゃもじ(織田信忠) 織田信長の長男、織田信忠は幼名を奇妙といいます。 並みたいていの親ならば自分のこどもに「奇妙」という名前をつけることはないのですが、さすが織田信長のネーミングセンスといったところでしょうか。 さらに織田信長は信忠のひょうきんな性格から 「しゃもじ」というあだ名をつけました。 その由来はみんなを楽しませる為になくてはならない存在ということのようです。 ごはんを食べることは幸せなこと。 それをとりわけるために使うしゃもじは必須アイテムということでこのあだ名になったそうです。 まとめ いかがでしょう? カッコいいあだ名であれば呼ばれてもよい気分になりますが、本記事で紹介したようなあだ名はむしろ忘れてほしいレベルのあだ名です。 カッコいいあだ名で呼ばれている戦国武将たちですが、上司や同僚からはカッコ悪いあだ名で呼ばれていたことがわかります。 みなさんは人が傷つくようなあだ名をつけないようにしましょうね。

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明智光秀が「本能寺の変」で織田信長を裏切ったのはハゲいじりが原因!? : ハゲルヤ

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2020年のNHK大河ドラマの主人公は 明智光秀 あけちみつひで です。 本能寺の変で主君、織田信長を討った光秀ですが、その背景には信長により繰り返された 折檻 せっかん 、簡単に言うとパワハラがあったと言われています。 では、明智光秀はどれだけ信長にブタれたのでしょうか? ここでは、文献の 信憑性 しんぴょうせい は置いて信長の光秀への折檻の回数について紹介します。 転じて、厳しく 叱 しか ったり、 懲 こ らしめの体罰を加える事を意味します。 由来は、前漢の 成帝 せいてい が自身に激しく 諫言 かんげん した 朱雲 しゅうん に対して腹を立てて宮廷から引きずり出そうとした時、 朱雲は抵抗して 欄檻 らんかん につかまり、やがて折れてしまいました。 成帝は死をも恐れず諫言した朱雲を讃え、あえて欄檻をキレイに直さず折れた部分が分かるようにし 顕彰 けんしょう の証とした故事に因みます。 関連記事: 関連記事: この記事の目次• 言葉による暴力キンカン頭 織田信長は、あだ名をつける名人でした。 木下藤吉郎 きのしたとうきちろう 時代の秀吉にハゲ 鼠 ねずみ とあだ名をつけた事で有名です。 さらに信長は光秀にもキンカン頭とあだ名をつけている事が、 義残後覚 ぎざんこうかく という16世紀の末に成立した史料に出てきます。 それによると、 庚申待 こうしんまち という徹夜で起きていないといけないイベントで光秀は小用の為に席を立ちました。 それを見た信長は、いきなり槍を取って光秀の前に立ち 「この 金柑頭 きんかんあたま め、座席を立ってどこに行くのか?」とからかったそうです。 金柑とは、丸くて黄色く艶のある 柑橘類 かんきつるい の事で、これが 禿頭 はげあたま の事を意味すると言われています。 つまり、信長は「ハゲ!どこに行く気だコラ」と言ったのです。 明智光秀が本当に 禿 はげ ていたか不明ですが、仮にハゲていなくてもハゲ、ハゲと言われるとストレスになるでしょうね。 稲葉一鉄の家臣を引き抜き、信長に投げられる 川角太閤記 かわすみたいこうき という江戸初期に書かれた本によると、明智光秀は、 稲葉一鉄 いなばいってつ の家臣で一鉄と不和だった 斎藤利三 さいとうとしみつ を引き抜きます。 これに対して一鉄が激怒、信長に調停を依頼しました。 信長は美濃攻めの時に一鉄に助力してもらった恩義から一鉄の肩を持ち、光秀に斎藤利三を返すように言いますが、 光秀は拒否したので、怒った信長は光秀の 髻 もとどり を掴みブン投げたそうです。 翁草 おきなぐさ という史料では、光秀はさらに強硬に反対しており、 「三十万石頂いても 栄耀 えいよう とは思いませぬ善き士を召し抱えるのも信長公への奉公のため」と叫んでいます。 また、 続武者物語 ぞくむしゃものがたり では信長は光秀の頭を敷居にこすりつけたそうです。 敷居に頭をこすりつけられるのは兎も角、髷を掴んで投げるとは相撲好きだった信長の嗜好が感じ取れ、かなりバイオレンスですね。 武田滅んだ、我らの手柄発言で信長キレる 慶長十二年(1607年)に成立したとされる 柿屋喜左衛門 かきやきざえもん の 祖父物語 そふものがたり では、 武田勝頼 たけだかつより を滅ぼした織田の軍勢が 諏訪 すわ の法華寺で酒宴を開いている時、ようやく、十年近い激闘の末、武田氏を滅ぼせたという 安堵感 あんどかん から光秀がつい 「大変にめでたい事、我らも骨を折った甲斐がありました」と漏らすと 信長の顔色が志村けんのバカ殿様レベルで豹変。 「お前がどこで骨を折ったと言うのだ!ああん?」と激怒 光秀の頭を掴んで引き回し、欄干に顔を押し付けたという話があります。 これらの話は一次史料ではなく、いずれも二次史料、三次史料で元々の話に尾ひれがついたり、伝聞が 膨 ふく らんだり全くの 捏造 ねつぞう もあるかも知れません。 しかし、こと明智光秀に関してだけ、これだけバイオレンスな話があるのは本能寺の変が、当時の人々には意外であり、 きっとひどく信長に殴られヤケになったんだろうと動機を推測された結果なのでしょう。 本当に折檻されていたのか?ルイス・フロイスの明智評 戦国時代にキリスト教布教の為に、日本に来ていた宣教師、ルイス・フロイスは膨大な報告書「日本史」を残していますが、 この中における明智光秀評は、 冷酷で残忍、表面を飾るのが上手く忍耐強く、人を 欺 あざむ く手法を七十二も持つと散々です。 そして、フロイスは信長による光秀への折檻について 光秀が信長と密会をしている時、何か信長の意に沿わない発言で信長の勘気に触れ、立ち上がった信長は、 一度か二度光秀を足蹴にしたそうだと書き記しています。 これを見ると、やはり信長はパワハラ野郎かなとも思いますが、フロイスによると、 この事は密室での事なので長らく噂にも上らなかったとも記されています。 そしてこれが噂になったのは、光秀が自身が信長を討った根拠にする為に、 意図的 いとてき に振りまいたかも知れないと推測しているのです。 これが本当なら世間に流布する信長パワハラ加害者・光秀被害者の図式は本能寺の変を正当化する為に光秀が流したデマという事になります。 ただ、ルイス・フロイスはキリスト教に敵対的な人物を悪しざまに書く癖があり明智光秀はカトリックに何の関心も示さない人でした。 この為に、ことさらに悪しざまに書かれた可能性もあります。 戦国時代ライターkawausoの独り言 しかしよく考えてみると、信長の気性が荒いなら光秀以外にも信長に 折檻 せっかん された武将がいても不思議はありません。 ところが、光秀以外で信長に折檻を受けた人物は見当たらないのです。 佐久間信盛 さくまのぶもり にも折檻状が出ていますが、あれは文面で信盛をボロクソに批判したもので、実力行使ではありませんでした。 もっとも信長の場合、本当にキレたら折檻どころではなく、手打ちにされそうな気もしますが・・ そう考えると、信長はキレたからと言って、家臣を殴るような パワハラ上司ではなかったかも知れません。 すると、光秀が本能寺の変を正当化する為に 信長をパワハラ上司として宣伝し、それがもっともらしかったので 長い歳月の間に史実のように思われたかも知れません。 参考文献:歴史旅人 明智光秀 歴史から消された生涯の謎を徹底解明 参考文献:フロイスの見た戦国日本 関連記事: 関連記事:.

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【ハゲ】だから明智光秀はキレた?本能寺の変「珍説」の真相 : (遅報)歴史まとめ

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明智光秀画像[伝] 東京大学史料編纂所所蔵模写 歴史上の人物について私たちが持つイメージは、往々にして学校で習った内容や、小説やテレビドラマなどで描かれる姿そのものだったりする。 明智光秀はライバル大名を次々と滅ぼし、比叡山延暦寺などの寺院まで攻めて天下統一を目指した織田信長の家臣。 天正10(1582)年、京都本能寺に宿泊中の信長を襲って死なせ、謀叛人として名を残した。 歴史作家の桐野作人氏が光秀の実像について指摘する。 * * * 明智光秀が主君・信長を討った「本能寺の変」。 光秀が謀叛を起こした動機は謎で、「怨恨説」「義憤説」「野望説」など諸説ある。 そんな中、私はある史料に注目している。 それにより、これまで知られていた光秀像とは異なる一面を垣間見ることができるからだ。 信長の家臣・稲葉一鉄の子孫らが書き残した『稲葉家譜』。 そこには光秀を「本能寺の変」へと駆り立てた動機が明記されている。 その現代語訳は次の通り。 「……信長は光秀が法に背いたのを怒って呼びつけると、譴責してみずから光秀の頭を二、三度叩いた。 光秀は髪が薄かったのでいつも附髪を用いていたが、このときそれが打ち落とされたので、光秀は信長の仕打ちを深く恨んだ。 謀叛の原因はここに起因する……」 光秀は附髪=カツラを落とされたことを恨んで信長を討ったというのだ。 月代を剃り髷を結った武士のカツラ姿とは、イメージしづらいものがあるが……。 通説では当時光秀は55歳。 実は光秀の年齢について「67歳だった」とする説があり、近年はこちらのほうが有力となっている(*)。 67歳であれば、髷が結えないほど禿げていたとしても不思議ではない。 【*:55歳説は『明智軍記』によるものだが、そもそも江戸中期に作られた軍記物で史料としての信頼度は低い。 一方、67歳説は江戸初期に作られた『当代記』による。 作者は家康の外孫・松平忠明と言われており、脚色がほとんどなく史料としての信頼度は比較的高い】 光秀が当時67歳だと考えると、腑に落ちるエピソードがいくつもある。

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