いつも何度でも 歌詞。 井上あずみ いつも何度でも 歌詞&動画視聴

今更ながら『いつも何度でも』の歌詞の意味を知り、癒される。

いつも何度でも 歌詞

スーパームーン、見られましたか? この超が付く月は2001年のもので、 下に見える波は、 大好きな大好きなホワイトハウス。 このふたつのコンビネーション作品は、 とても不思議な気持ちにさせてくれます。 以前にもここでお伝えしましたが、 「いつも何度でも」 という美しい楽曲がある。 これを聴けば聴くほど、 歌詞の意味を読み解けば読み解くほど、 その永遠に続く輪廻のような気流に乗り、 どこまでも透けるような清浄と、 全て悟ってしまったような優しさに包まれる。 さらにはメロディと精神の同化の深さに酔い、 しばし満たされている新しい自分に気づく。 その中身があまりにもすばらしいので、 この曲のことを人に伝えようとして、 「すばらしいのです。 特に歌詞が」 と言うのだが、ほぼ全ての人が、 「知ってますけど、歌詞の意味までは…. 」 この世界に入ることを直感的に拒まれてしまう。 「この世界」と書いたが、 自分は宗教家ではないので何も確信も持ってはいない。 さらに言うと、私もこの歌詞の意味がわからない。 できることなら作詞した人に直接伺ってみたい。 けど、しかし、いやきっと、 10年以上も聴き続けているし、 ここまで好きになった意味もあるだろうから 自分なりの解釈をここに書こうと思い立ったのが今朝。 まずはもう一度聴いてください。 これは作曲家の木村弓さんのオリジナル。 この楽曲は、 宮崎駿さんの映画 『千と千尋の神隠し』の主題歌となったことで、 私、そして多くの人に届いたメッセージです。 彼女は6歳のときに 『チェルノブイリ原子力発電所爆発事故』 によって被曝したという。 家族、友人、故郷。 そのさまざまな悲しみをナターシャが受けて、 そして背負ってきたのだろう。 ナターシャはこの歌詞の意味を深く知り、 その慈しみの解釈を入れて、 自身の人生と重ねつつ、さらには生と死の輪まで予感させ、 そして心を寄せて歌っているのがこちら。 初めてこのナターシャバージョンを聴いたときは涙が止まらなかった。 いまでも涙ぐんでしまうほどで、 音楽の持つ歓びと力強さを再確認させられた。 このすばらしい彼女の活動のサポートとなればと思い、 ここにナターシャ自主製作CDの販売リンクをおいておきます。 さて、 この歌詞の意味を自分なりに読み解いてみました。 まずこの詩で一番のキーワードとなるのが、 「さよならのときの静かな胸 ゼロになるからだが耳をすませる」 この一節でしょうか。 覚さんによると、 「この歌詞は12、3分程度で書き上げました」 とあって、 彼女にとってそういうこと(短い時間で完成すること) はとても珍しいことだそうです。 これを読み解くと、 それぞれの解釈がありますが、 この詩を貫くのは、 心 魂 神 愛 みたいな言葉で表現できると思います。 そして今までは、 この歌詞内の「ゼロ」は、 (=)死だと思っていたんです。 「そんなわけはない」 と一度ふりだしに戻し、ゼロという言葉を調べていくと、 インドの数のゼロが「シューニャ」だということを見つけました。 「覚さんは無意識のうちにこのゼロ、 つまりシューニャという単語を得たのではないか?」 そう推測してみると全ての説明が付いてしまった。 ここにその研究結果をおいておきますね。 まずはゼロ(0)はサンスクリット語で「シューニャ」。 このシューニャは仏教での概念であるのです。 同意語が「空(くう)」も意味しているとあった。 また「成長と繁栄を意味する動詞」でもあるそうで、 そこからこの詩を翻訳すると、 「さよならのときの静かな胸 新しくはじまったからだが耳をすませる」 となりました。 そして、 「さよならのとき」のラインがとても悲しいので気になります。 上にも書きましたが、 覚さんがこの箇所の作詞中に 「すごく大きなものとつながったことを感じました」 と言っていらして、 とするとこの場合の『さよなら』は、 じつは前向きな言葉なのではないか? と直感しました。 というのは詩の後半に 「悲しみの数を言いつくすより 同じくちびるでそっとうたおう」 とあり、 これは「今までのエゴや悲しみを持つ自分」 と決別できたのだと思うのです。 そして生きる、という生命哲学が成就した証に 「生きている不思議死んでいく不思議 花も風も街も みんなおなじ」 と生と死を達観し、 植物も無機質なものも人と同じように消失するとしています。 さらには大事なのが、 「消失と、今までの自身と決別できた結果」 として詩の中ごろに 「呼んでいる胸のどこか奥で いつも何度でも夢を描こう」 ここにこの作品のヘッドラインが完成しています。 だからこの詩の題名が『いつも何度でも』となっているのですね。 覚さんはきっとこの題名を『いつも何度でも夢を描こう』としながらも、 あえて『いつも何度でも』と後半部分を省略したのでしょう。 でもこの省略は、 「気づける人だけに気づいて欲しい」 という形の「このことはあえて言わないし、書きません」 というスタイルとなっているようです。 「閉じていく思い出のそのなかに いつも忘れたくないささやきを聞く」 前記した「今までのエゴや悲しみを持つ自分」 がここでリピートされています。 ただ、その前世の自分が持っていた 「大事な言葉」を新しくなる自分に残しておいてね、 という示唆があります。 その後すぐに 「こなごなに砕かれた鏡の上にも 新しい景色が映される」 ここでの鏡とは=自分のこと 新しい景色とは、上記した新人生でのものということですね。 そして詩の最後はこうして終わります。 「海の彼方にはもう探さない 輝くものはいつもここに わたしのなかに見つけられたから」 「海」=前世で見続けていた*ニライカナイ伝説。 (*ニライカナイ伝説=海の彼方にあるとされる理想郷。 沖縄県や鹿児島県奄美群島に伝わる他界概念) 海の向こうが理想郷ではない、そして、 「輝くもの」=心躍る新しい生き方 つまりわたしのなかに見つけられた=新しい生き方を獲得したということです。 この歌詞は「死の現実」と読み解かれることが多いようですが、 私流の解釈では、 できれば生きているうちに死を知って、 それを良い方向としてみたいというのが根本にあるのではないか、と。 まとめますと、この歌詞の意味は、 「 新しく人生をはじめて、いつも何度でも夢を見よう」 ということではないでしょうか。 いまを辛く、悩んでいる人、 そしてこの楽曲が好きな人たちが、 優しく、新しい人生が始められますように。 最新の記事• カテゴリー• 100• 1,713• 133• 2,130• 380• 936• 435• 446• 483• 1,027• 260• 1,303• 141• 421• 462• 837• 486• 292• 217• 178• 1,012• 103• 146• 265• 224• 106• 310• 142• 1,043• 256 アクセスの多い記事TOP5• Current Moon Phase Waning Crescent Moon The moon is currently in Gemini The moon is 27 days old.

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千と千尋の神隠しの主題歌「いつも何度でも」という曲の歌詞の意味を教...

いつも何度でも 歌詞

映画「千と千尋の神隠し」を子供達と観に行き、それ以来、木村弓さんの「いつも何度でも」(作詞は覚 和歌子さん)に、はまった。 ・・・ほんとこの曲、深い。 一番で迷いのある姿を見せ、 二番で「かなしみ」に負けず、力強く地に足をつけ、 自分自身を取り戻して生きる姿勢を打ち出している。 桑田佳祐さんの「白い恋人達」もそういう構成。 最近のいい曲は、絶望のままに終わらせないね。 「希望」を含ませている。 80年代の曲は 「退屈な毎日に嫌気がさすぜ。 くだらない日常をブッ壊そう!」みたいな、ただ文句たれてる歌詞が多かった。 それが「カッコイイ」みたいな風潮もあった。 90年代以降、湾岸戦争や阪神大震災、地下鉄サリン事件、 最近ではアメリカでの同時多発テロ・・・ 考えられないようなことが、ある日突然、起こる。 その災いが自分自身の身に降りかかっても全く不思議ではない状況を 新聞、テレビ等の情報を通じて目の当たりにし、 「ごく普通の日常の有り難み」を知った人は多いのだと思う。 トクトクと速く胸を打つ鼓動を感じていたい。 目の前に、花が舞うような幸せな瞬間。 足元が宙に浮かぶような夢見心地のひととき。 私の胸の奥には、手を伸ばしてつかまえたい希望がある。 とても大切な、私だけの・・・夢。 光射す雲の上にある夢。 私は天に向かって首を伸ばす。 そんな少女のような私が胸の奥にいる。 辛いこと。 頭に来ちゃうこと。 もう、いやんなっちゃうような うっとぉーーしいこと。 思い出すと、涙が出そうな想い出も。 きっと、私だけじゃないね? 悲しいのは。 悲しみに押しつぶされたらいけないのね? 先が見えず、暗いけれど、 この暗闇の向こうに光が待っている。 私を抱きしめてくれる あなたが そこに。 あなたに会いたいから。 どうして、こんなに不器用なんだろう? 何度、同じ失敗を繰り返せば、賢くなれるんだろう? こぼれる涙で曇って何も見えない。 誰とも会いたくないよ。 部屋に一人でいる。 膝を抱えてベッドの上に一人。 そんな私の部屋の窓のカーテンを あなたが、サッと開けてくれた。 射し込む日差し。 うららかな空。 ああ、空はこんなに青かった・・・・ もう二度と日は昇らないような気さえしていたけれど 今日も、こんなに空は青い。 穏やかに微笑むあなた。 そうだね。 空は青い。 まだ少し悲しい色にも見えるけど、 大丈夫。 私は大丈夫。 大好きな人達に囲まれて、楽しく幸せな毎日。 ずっとこのままでいたいけど、 この当たり前のような幸せも、 いつかは形を変えてしまうものなの? そうだとしたら・・・ 今日の、この幸せに感謝したい。 この、ささやかな私の幸せに満足したい。 この体を脱ぎ捨てる時のことを想像してみる。 消えてしまいたいと祈った夜もあった。 だけど、ちゃんと私は起き上がったよ。 胸の奥で、「負けたくない!」と小さく叫んでいる私がいる。 「もう一度!」の声に立ち向かう力が私にはまだ、ある。 その後で、いつも、弱い自分が嫌いになるよ。 だから、なるべくならやめよう。 代わりに、この歌を口ずさもう。 グチャグチャに絡んだままだった思い出の糸を ゆっくりと、ゆっくりと時間を掛けて 丁寧に解きほぐし、一本のまっすぐな糸にできた。 今となっては、つまらないことだったとさえ思う。 こんなに悩むほどのことではなかったと。 だけど、だけど、 やはり、思い出す度、胸に冷たいしずくが落ちる。 少女だった私の気持ちが蘇る。 とても悲しく、切なくて、つらいけど、 私の大事な思い出。 彼を好きだった気持ち。 どうしようもなく気持ちが擦れ違って、戸惑ったことも。 彼を彼女に奪われ、絶望した、あの夜も。 もうずっと前のことなのに、 思い出すと、涙が溢れる。 そこに植えれられている決して大きくない一本の木。 その木が、4年前のある日、荒っぽいせん定をされ、枝を失った。 無惨な姿だった。 こんなに切られてしまっては枯れるんじゃないか?と思った。 しかし、その後、その木は二股の枝を伸ばし、 少しずつ葉をつけて行った。 バッサリと頭を落とされ、年輪の見える切り口の そのすぐ下から二本の小さな枝を伸ばす木。 ・・・・それは、「私」のような気がした。 一度は、もう生きていられないと思ったけど、 やっぱり、しぶとく生命を維持して、 二人の娘を得た。 木の二本の枝も、今ではこんもりと葉が茂り、 一度は全ての枝を落とされた、あの時の面影はない。 ・・・やはり、あの木は「私」かもしれない。 ・・・・後悔していると言って欲しい。 ・・・・もう一度、私に愛を誓って欲しい! 忘れたいのに。 もう、とっくの昔の出来事なのに、 全く過去の物にならず、突然、フラッシュバックする。 そのたび、いまだふさがらないままの胸の傷口から 鮮血がしたたるのを感じ ・・・そんな自分にげんなりする。。。 この苦しみは永遠に私につきまとうのだろうか? 私が私である限り、 地獄に堕ちても、きっと、きっとついてきて 私を責めるに違いない・・・・。 そう悩んでいたのが4年前。 あれから、少しずつ少しずつ・・・ 友人の力にも支えられ、 やっと、落ち着いて振り返ることができるようになった。 苦しかった気持ちが消えていく。 迷宮の中でもがいていたけれど、やっと出口を見つけられた。 こんなふうに生まれ変われる日が来るとは思わなかった。 もう一度、笑って話せたら。 愚かだった私を許してもらえたら。 私のことを本当に愛していたと、それだけを言ってもらえたら・・・ ずっと、そればかりを願っていた。 それができるまでは死んでも死にきれない、とさえ。 だけど・・・ 「あの人」はもうどこにもいない。 私が求めているのは「あの日、あの時」の彼。 この世に存在しているのは、 もしかしたら、もう結婚してパパになっているかも知れない彼。 その彼と、もし会ったって・・・話すことなんてない。 それに・・・ 本当は私だって知っている。 彼が私を心から好きでいてくれたことを。 どんなに大切にしてくれていたかを。 結末は辛かったけど、確かに心が結び合っていた瞬間だってあった。 その想い出は、この胸の奥にちゃんと大切に残っている。 別れも・・・ 残酷だったけど、 ・・・誰のせいでもない。 人を恨んだこともあったけど、 今ならわかる。 誰も悪くなかった。 彼も、私も、そして彼女も それぞれに精一杯だった。 私は今、とても幸せ。 私を必要としてくれる子供らがいる。 私に抱かれて目を閉じ眠る娘達が。 私の声に優しく応えてくれる人達もいてくれる。 一方的に体重をかけて、もたれかかるのでなく、 支え合って、 助け合えていける人達が。 生きていくこの道は、良いことばかりじゃない。 時につまづき、膝をすりむいたり、捻挫したり・・・ ぬかるみにはまって立ち往生することも。 でも、豊かな道を歩いていると胸を張れる。 これが私の道。 誰も代走はできない。 この足で歩いて行く。 ******** 2002年の日記再掲 …この頃はやっぱりまだ病んでいたわ〜 私のブログ に同じ記事があります.

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木村弓 いつも何度でも 歌詞

いつも何度でも 歌詞

Contents• 主題歌「いつも何度でも」誕生秘話 この曲について、木村弓さんが映画完成前に作曲し、宮崎駿監督へ送った経緯があるというのは結構よく知られた話です。 始まりは、木村さんが映画「もののけ姫」を観たことにありました。 「もののけ姫」に感銘を受けた木村さんは、ご自身の作品CDやテープを手紙とともに宮崎監督に送ったそうです。 すると監督から以下のようなお返事が。 「煙突描きのリン」という作品の企画が進行中で、その作品が形になるときには連絡させていただくかもしれません。 宮崎監督から送られた「煙突描きのリン」とは、大地震に見舞われた東京を舞台にした物語でした。 手紙の中の作品アイデアを読み、しばらくしてからふとメロディーが生まれ、それが「いつも何度でも」になりました。 歌詞は、最初の2行だけ木村さんのアイデアでしたが、その後が出てこなかったため作詞家の覚和歌子さんに相談。 木村さんが「煙突描きのリン」の物語について話をしながら、鼻歌でメロディーを歌ったところ、覚さんにあるイメージが湧きました。 煙突の上に少女がいて、眼下に広がる瓦礫の向こうに海が見える… それからものの10数分で「いつも何度でも」の歌が完成したと言います。 「煙突描きのリン」の企画は残念ながら中止となってしまったそうですが、完成した「いつも何度でも」を聴いた宮崎監督は「とてもいい歌ですね」と感想を述べています。 企画は中止となっても、「煙突描きのリン」のアイデアは、不思議の町にある油屋の煙突、水に沈んだ街のイメージとして作品世界に出現しています。 歌詞と意味 「いつも何度でも」の歌詞は、やさしい言葉の中にとても深いものを感じます。 「千と千尋の神隠し」の物語に沿って解釈することもできますが、この歌詞はもともとの企画だった「煙突描きのリン」のイメージを重ねることで、よりぴったりくるようにも思います。 繰り返すあやまちの そのたび人は ただ青い空の青さを知る 果てしなく 道は続いて見えるけれど この両手は光を抱ける 大きな災害で破壊された都市、被災した人々、かなしみのやり場のない憤り。 そうした中にも希望が見える、そんな情景が浮かびます。 若干16歳にして単身渡米、ピアノを専攻して大学を卒業後、声楽家として勉強されていました。 一時、体調を崩して声楽の道を断念されたものの、癒しや祈りに関わる音楽の世界へ。 最近の活動 現在は全国各地でコンサートを行っていて、オーケストラと共に演奏されることも。 2016年末には三鷹の森ジブリ美術館にてサプライズ・クリスマスコンサートに出演されています。 詳細はにて確認できます。 覚和歌子さん 「いつも何度でも」の歌詞を担当されたのは、 覚和歌子(かく・わかこ)さん。 山梨県出身の詩人・作詞家として活躍。 沢田研二さん、平原綾香さん、SMAP、クミコさん他、多くのアーティストの作品に参加しており、詩集や翻訳絵本も出版されています。 最近の活動 詩作ワークショップや朗読会など、詩人としての活動を活発にされているようですね。 詩人の谷川俊太郎さんと、対談ならぬ対詩ライブを継続的に開催されています。 詳細は覚和歌子さん公認の公式ファンサイトにて確認できます。 「いのちの名前」 「いつも何度でも」と並んで、聴くと映画のシーンが思い浮かぶ曲として「いのちの名前」があります。 作曲はジブリアニメとは切っても切れない人・ 久石譲さんです。 劇中ではインストゥルメンタルのみですが、実はこの曲にも覚和歌子さん詞をつけています。 映画公開時に発売されたマキシシングルでは木村弓さんが歌っています。 未来の前に すくむ心が いつか名前を 思い出す 叫びたいほど 愛おしいのは ひとつのいのち 帰りつく場所 わたしの指に 消えない夏の日 これは2番の歌詞の一部ですが、千尋がハクに見送られて不思議の国を後にするシーンを思い浮かべて切なくなってしまいます。 映画音楽は、曲を聴いただけで物語や映像が浮かんでくるものが多いですが、ジブリ作品では特に印象に残る楽曲が多いと感じます。 映像がなくても、音楽でそのときの感動が呼び起こされるなんてすごいことですよね。 最後まで読んでいただいてありがとうございました!.

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