銀河 鉄道 の 夜 舞台。 アクタージュファンに「想稿 銀河鉄道の夜」(ことのはbox)をオススメしたい!

宮沢賢治ゆかりの山 ― 1 『銀河鉄道の夜』の舞台、南昌山

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まったくその中に、白くあらわされた天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした」 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より — Kouji Ohnishi 大西浩次 koujiohnishi 宮沢賢治は、子供たちに向けた数多くの詩や童話をこの世に残してくれました。 ただ、実はその作品の多くは、宮沢賢治が亡くなった後にこの世に出てきたものなのです。 「銀河鉄道の夜」は、宮沢賢治の代表作だと思いますが、この作品も宮沢賢治が37歳の時に急性肺炎でこの世を去った後に発表されたものです。 宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の原稿を書きかけのままで遺しました。 その原稿は4つあったと言われています。 この4つの原稿は、度重なる推敲が重ねられ、膨大な量になっていたといいます。 この遺稿を、専門家たちが綿密に調査し、推敲がもっとも後とされる第四次稿を最終的な原稿としたのです。 現在出版されている「銀河鉄道の夜」は、この最終形をベースにしているものがほとんどのようですね。 銀河鉄道の夜 あらすじ 主人公のジョバンニは貧しい学生で、活版印刷所でアルバイトをしながら病気の母を看病している。 父親は漁に行ったきり帰って来ない。 孤独な彼は同級生からよく馬鹿にされるが、親友のカムパネルラだけは違った。 「星祭」の夜、ジョバンニが母のために牛乳をもとめて歩いていると、銀河の祭りに向かう同級生たちに遭遇する。 いじめっ子のザネリが彼のことをからかい、そこにいたカムパネルラは気の毒そうに下を向いていた。 ジョバンニはひとりで町のはずれに向かう。 ジョバンニが丘の上で孤独に夜空を見上げていると、突然「銀河ステーション、銀河ステーション…」とどこからともなく聞こえてくる。 次の瞬間、彼は銀河鉄道に乗っていた。 そしてそこにはカムパネルラもいた。 牛の祖先の化石を発掘する大学士や鳥捕りの男と出会いながら、銀河鉄道の旅は続く。 途中で「氷山に衝突して沈んだ船に乗っていた」という子どもと青年が乗り込んで来た。 天上であるサウザンクロスに着くと、他の乗客は皆降りてしまい、ジョバンニとカムパネルラは2人になった。 彼らは「本当のみんなの幸せのために歩もう」と誓う。 しかし暗黒星雲を見たカムパネルラは、「お母さんがいる」と言って消えてしまう。 ジョバンニは丘の上でひとり目覚める。 牛乳をもらって川へ向かうと、カムパネルラが溺れたザネリを助け、そのまま行方不明になっていることを知る。 また自分の父が帰ってくることを知り、彼は母の待つ家に向かって走り出す。 今、廃線旅にどっぷり浸かっている六角精児に、その映像を見てもらうと「これはすごい! 」と大興奮! ロマンあふれる岩手県の「何だコレ」をお送りする! "湖に沈む"、"石積み"。。。 岩手軽便鉄道は、現在のJR釜石線ですが、以前から「銀河鉄道の夜」のモデルと言われていた路線です。 その廃線で"湖に沈む"、"石積み"に当てはまるのが、【足ヶ瀬橋梁跡】というわけです。 童話「銀河鉄道の夜」に以下の一節があります。 気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、 ジョバンニの乗っているちいさな列車が走り続けていたのでした。 ほんたうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、ちいさな黄色の電燈のならんだ車室に、 窓から外を見ながら座っていたのです。 『銀河鉄道の夜』より これってもしや岩手軽便鉄道の跡…? 足ヶ瀬駅の橋? — 黒い森山猫 kuroimoriymnk 【足ヶ瀬橋梁跡】は、岩手軽便鉄道ファンなら見逃せない場所と言われていて、雪解け時期や豪雨などで増水した時は、その姿を見ることが出来ないそう。 写真ではダム中央にある橋脚の根元付近とそれに続く軌道堤のみのが撮られていますが、現地にはもう一つ橋脚があるそうです。 この幻想的で美しい風景。 残して欲しいですね。 また、岩手軽便鉄道には、通称「めがね橋」といわれる【宮守川橋梁】があります。 ここも「銀河鉄道の夜」のモチーフになったと言われています。 [生]1896. 岩手,花巻 [没]1933. 花巻 詩人,児童文学者。 1918年盛岡高等農林学校卒業。 家業に従事中,日蓮宗の熱心な信者となり,布教のため上京, 『どんぐりと山猫』 1921 ,『かしはばやしの夜』 21 など童話数編を書いた。 しかし発表の機会がないまま帰郷して 24年童話集『注文の多い料理店』および詩集『春と修羅』を自費出版。 凶作と不況にあえぐ農民に稲作指導をしつつ天衣無縫の詩才を育てたが病弱のため夭折。 没後,草野心平に発掘され,その豊かな空想性とユーモア,宗教性,土着性,科学精神などの交錯する世界が注目を浴びた。 ほかに童話『銀河鉄道の夜』 27頃 ,『グスコーブドリの伝記』 32 ,詩『雨ニモマケズ』 31 など。 」 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より — Kouji Ohnishi 大西浩次 koujiohnishi 「銀河鉄道の夜」は未完成のまま現在に至るわけですが、宮沢賢治がこの物語で使えたかったことって何だったんでしょう? この物語は「本当の幸せ」がテーマです。 実際、5つの場面で、本当の幸せについて11回も言及しています。 主人公であるジョヴァンニが、母の看病に苦労し、同級生にいじめられる中で「銀河鉄道」が教えてくれたこと、友人「カムパネルラ」の行動から、 「本当の幸せ」について考え、それは何なのかを意識する。 その心の成長を描いている作品とも言えると思います。 そしてジョヴァンニが行きついた答えは、「他の人の幸せのために生きること」。 これが「本当の幸せ」。 物語の中でジョヴァンニはこう言っています。 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、 どこまでもどこまでも一緒に行こう。 僕はもうあのさそりのように本当にみんなの幸(さいわい)のためならば 僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。 」 (『銀河鉄道の夜』より引用) このあと現実の世界に戻っラカムパネルラは、友人ザネリを助けるために死んでしまいます これはもちろん物語としての象徴的な表現ではありますが、 宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」という童話で子供たちに伝えたかった「本当の幸せ」は、「誰かを助けることができること」だったのかな、という気がします。 まとめ 府中市郷土の森博物館 プラネタリウム(東京都)にて、好評につきKAGAYAスタジオの全天映像「銀河鉄道の夜」の再上映が始まります。 多くの人が一度は読んだことのある童話かもしれませんね。 久しぶりにもう一度読み返して、その神秘的な世界観と、舞台となった岩手軽便鉄道、そして宮沢賢治に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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劇団ひまわりミュージカル「銀河鉄道の夜」アルタイル公演

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初めてを読んだのは、小学校の4年生か5年生の時。 そのころ私はすでに重度の・読書好きであったにもかかわらず、わが家では本を買うという習慣がほとんど無かった。 あるのは姉たちが定期購読していた学習雑誌か、農業雑誌の「家の光」(ああ、懐かしい!)くらい。 そんなある日、めったにない事なのだが、父に誕生日に何が欲しいかと聞かれ、「本」と答えたのである。 父は「本か…」とつぶやいたような気もするが、ク(ホンダカブ)の後ろに乗せて町の本屋に連れていってくれた。 特に目当ての本があったわけではない。 一軒の本屋で『名作集 (少年少女世界名作全集)』( 1963. 25)を見つけたのは偶然である。 その時点でを知っていたかどうかは、憶えていない。 おそらく知らなかったのではないかと思う。 それを選んだ理由は思い出せないが、中身を少し読んで、どこか、何か、心惹かれるものがあったということなのだろう。 それを買ってもらい、さらにもう一軒別の店での『』も買ってもらったが、こちらの方は知っていた。 『』はすぐに読み終えた。 それなりに面白かったが、そのときはそれだけのことである。 この『名作集』は50年たった今現在、手元にあるのだが、「」、「」、「」等、代表的な童話はほぼ収録されており、詩が「」、「永訣の朝」ほか三篇、他に「その他の作品紹介」や解説等、今見ても良く構成された、充実した内容である。 詩についてはやや印象が薄いが、小学校の4・5年生にはちょっと難しかったのだろう。 中学校での「」との出会いまで待つ必要があった。 ちなみに同書の「」では、ジョバンニがカムパネルラの死を知る場面がに乗車する前におかれているが、現行ではそれが終りにおかれている。 同書に親しんだ私としては現行の配置転換はいまだになじめないところがあるのだが、後述の氏も同様だとのこと。 ともあれ、小学生の私にとって、初めて出会ったの作品は実に魅力的だった。 その世界にごくすんなりというか、ぬるりと入っていった感覚を、今も懐かしく思い出す。 その当時「異界」という言葉は、むろん知るよしもなかったろうが、それは間違いなく異界への入り口であった。 運命的な出会いだったといっても良い。 そして今に至るまで私にとって、は最も好きで、大切な文学者・詩人であり続けている。 似たような体験をへた賢治好きは多いだろう。 学生時代に知り合った友人S氏もまた幼時に母親の読み聞かせによって賢治好きになったとのこと。 しかしそのことを知ったのは、つい最近のことだ。 およそ美術以外のことは、あまり話題にしたことがない間柄なのである。 その彼が『童話「」の舞台は・南昌山』( 2010. 23 ツーワンライフ出版)という本を知っているかと言う。 についての本、研究書は多い。 それこそ山ほどある。 おそらくと双璧か、あるいはそれ以上、つまり日本で最も多く研究書・関連書が出ている文学者であろう。 あまりに多すぎるゆえに最近ではめったなことでは買わない、読まない。 なによりも筑摩書房の『校本 全集』全14巻が出て、さらにその後、『新校本 全集』全16巻+別巻1(全19冊)が出るにおよんで、その膨大さに圧倒されて、何かをあきらめたような気がする。 S氏が上述の本に載っている南昌山847. 5mに、の日に登り、頂上で一泊しようと言う。 詳しくは同書を読んでもらうに如くはないが、概要は「」の中の天気輪の柱のある丘が西方の南昌山であり、カムパネルラのモデルが中学校の一年先輩の藤原健次郎だという説を主として考証したものである。 ゆかりの地めぐりとしては、ちょっとした奇縁があって、三年前にその墓や賢治記念館、記念館、イギリス海岸などを訪ね歩いた。 だから、いまさらゆかりの地といってもそうは食指が動かない。 しかし、山登りとなればまた話が別だ。 できればかといきたいところだが、上述の主旨からすれば、標高に不足はあるが、仕方がない。 同書を一応読み終える頃には、それなりにというか、大いに興味が湧いてきた。 同書によればに乗ったのは、ケンタウル祭=の日ということであるが、いかんせん梅雨の真っ最中。 幸いS氏の都合もあり、一ヶ月ほどずらして早めの梅雨明けを期待したのだが…。 旅行全般についてS氏が、山登りについては私がという分担で、7月12日発。 昼前に着。 事前に依頼しておいたボランティアガイドの高橋さんと合流。 聞けば全国どこでもボランティアガイドが大流行りで、それはけっこうなことなのだが、最近はそれらの多くが有料となっているらしい。 それなりの理由あることなのだろうが、有料のボランティアというのも何だかなあ~、という気はする。 しかしここ岩手花巻では無料との由。 むろん抜かりのないS氏のことだから、あらかじめ手土産を用意してきたのはさすがである。 その高橋さんのガイドで、レンタカーで動く。 羅須地人協会の建物(現在、県立花巻農業高校に移築されている)、イギリス海岸、羅須地人協会跡地、賢治の生家、賢治の母の実家、田日土井の「と座禅」詩碑、賢治と宮沢家の墓、ぎんどろ公園(花巻農学校の跡地)、などを見て歩く。 田日土井の詩碑以外はすでに一度訪れているところだが、二度目には二度目の感慨があるが、本稿は「山」のカテゴリーなので、委細は省略。 昔ながらの湯治場の面影を色濃く残している宿である。 素泊まりとはいえ、布団と浴衣を借りて3000円とは素晴らしい!中でも昔の雰囲気をそのままとどめている白猿の湯の、豪壮かつ質朴な浴室空間は、私が体験した温泉の中でも最上位にランクされるものだった。 二日目の朝、駅で連絡しておいた『童話「」の舞台は・南昌山』の著者さんとお会いする。 駅の展示コーナーでたまたま開催中の「賢治が愛した南昌山と親友藤原健次郎 『童話』の舞台は南昌山」展の展示パネルを前に丁寧なレクチャーを受けた。 地方の在野の研究者として、地道かつ実証的な研究を続けてこられたその熱意が、痛いほどに伝わってきた。 標高は高くないが、美しく、また可愛らしい愛すべき山々の連なり。 こうして佇めば、百年の時を隔てて、少年の頃の賢治と共振しているような気がする。 現地に身を置かなければ見えないものがある。 来て、本当に良かったと思う。 詩碑の設置された山麓の「水辺の里」は、何年か前の出水でまだ荒れたままなのが惜しまれる。 幣懸 ぬさかけ の滝は、南昌山神社と山頂とを結ぶ、雨乞い神事の起点となる重要な場所である。 また、これから見るはずの山頂の「天気輪の柱」の石柱が柱状節理のものであり、その産地というか採取の場所がこの幣懸の滝だったのではないかという、私の机上の仮説を確認する上からも重要視していた。 ところが、滝に近づいてみると、何人かの男女がうごめいている。 見れば女性モデルが滝身で濡れながら、数名のスタッフに囲まれて撮影中である。 どうやら、色っぽいというか、怪しげな雰囲気のそれであるようだ。 私としては、もっと滝に近づかなければ地質的考察ができないのだが、ちょっと近づける雰囲気ではない。 仕方がない。 帰途に寄ることにして早々に立ち去る(ただし、帰途では後述するように雨が降っていたせいもあり、立ち寄り確認するのをすっかり忘れてしまった…)。 南昌山の肩に上がる林道の途中から右に入れば、すぐに南昌山神社。 ここまで松本さんに送ってきていただいた。 突然の物好きな旅人にもかかわらず、すっかりお世話になりました。 本当にありがとうございました。 この神社は年代(782~806年)にが山頂に造営し、16年(1703年)に青竜権現の祠が建てられ、合わせてそれまで毒ヶ森と呼ばれていた山名を「 南部(藩)繁 昌」の意をこめて南昌山と変えたとある。 さらにその後嘉永2年(1849年)に山麓の現在の地に移されたということである。 祭神は青龍権現で、雨乞いの山として古来より有名。 そのためか、谷文晁の『日本名山図譜』にも収録されている。 ここが今回のわれわれの出発点である。 しかし「 南部繁 昌」で南昌山というのも相当に現世御利益的な改名ではある。 ちなみに現在の毒ヶ森の名は南昌山のすぐ北西のピークに冠され、さらに少し離れた南西の和賀郡境にも同じ名前の山がある。 後者は残雪の頃にでも歩けば良い山のようだが、さて実現できるだろうか…。 ともあれ人里近い山は、色々と人間の都合で、改名させられたりするということなのだ。 実は、賢治たちが南昌山の山頂に登ったルートはどこか、という問題がある。 松本氏は前掲書や『新考察「」の誕生の舞台 物語の舞台が南昌山である二十考察』(2014. 1 ツーワンライフ みちのく文庫)において、賢治の描いた鉛筆スケッチをもとに、幣懸の滝の上流で北ノ沢から分かれた支流の金壺沢の右俣沿いに上る林道「盛岡庭線」と同じラインであった旧道を登ったものとされている。 このラインは地形的にももっとも容易なため、古くからあった道と重なっていると思われる。 現在でも南昌山を訪れる多くの人が辿るルートであり、肩まで自動車を利用して、1時間ほどで山頂を往復することができる。 賢治たちも基本的には、このルートを利用したのは間違いないだろう。 右下に延びる稜線が東稜、左下の線が金壺沢右俣=現在の林道ルート、下のが幣懸けの滝とされるが? ただし私は、絵を見る限りにおいては、道を描いたとされる左下の線は、金壺沢の右俣の沢筋を表現したものに見える。 実際には道は沢沿いにあったわけだから位置関係や意味合いとしては同じことなのであるが、絵の中のモチーフの扱いとしてはあくまで沢を描いたものだと思う。 それは山頂から右下方に伸びる木立の生えた稜線(東稜)の、具体的描写との対比からもそう思われる。 また、この道とされる線は上部で二ヵ所の分岐を示しており、それは沢筋を表現する時に自然と現れる表現様式である。 以上は絵描きとしての私の観点であり、また長く山登りをしながら記録としての「ルート図」を描いてきた経験から自然に導き出される結論である。 また松本氏は、画面下部の黒い点(染み)を幣懸の滝と同定されているが、右下方に伸びる稜線と、その向こう側に描かれた北ノ沢と思われる二本の線(その左のものはやはり途中で支流とも思われる線を派生させている)の位置関係からして、幣懸の滝ではないと思う。 幣懸の滝は、右下方に伸びる稜線が、北ノ沢と金壺沢が合流する地点で消失するさらに下流に位置するからである。 地形図と照らし合わせてこの絵を見れば、以上のことがより明快に見てとれよう。 むろん絵であるから、必ずしも忠実に実際を再現したものとはかぎらない。 しかしおそらく現場、もしくは実際の体験から間をおかずに描いたものであろうから、そうした場合、大きなデフォルメ(変形)は成されないものである。 では絵の中のこの黒い点(染み)は何かと言えば、現物を見ていないので断定はできないが、保存状態等に由来する単なる染み、汚れなのではないかと思う。 エックス線等の科学的調査を行えば真相は容易に判明することだろうが。 ともあれ、この林道のラインは地形的にも最も容易なため、古くからあった道とほとんど重なっていると思われる。 現在でも南昌山を訪れる多くの人が辿るルートであり、肩まで自動車を利用して、1時間ほどで山頂を往復することができる。 賢治たちも基本的には、このルートを利用したことは間違いないだろう。 しかしそれと別に、現在でももう一つ、側からのルートがある。 それがこの神社から山頂に伸びる東稜というべきルートなのである。 の地形図には破線は記されていない。 『分県別登山ガイド の山』(1993. 15 )でもふれられていない。 しかしネットで調べると容易に検索でき、それなりに登られていることがわかる。 山麓に神社がある場合、そしてそれが山とかかわりがある神社の場合、その山頂にはが置かれ、神社の裏手から直接登り始めるようになっているのが一般的である。 南昌山の場合、もともと山頂にあった神社を麓に移したという経緯がやや特殊ではあるが、山頂が(雨乞い)神事の場であるという意味で、神社と山頂の関係の深さは変わらない。 前記の林道のラインが生活と密着した容易なルートであることと、神事の場へのルートとしての東稜ルートが併存することは不思議ではない。 南昌山は「かつて活動していた火山が風化浸食を受け火道が露出した岩頸と呼ばれる地形」のため、下半はなだらかだが、釣鐘型の頂上から下、標高差250mほどの間はどの方向も傾斜がきつい。 林道からのルートは現在はが九十九折り状に整備され登りやすくなっているが、以前は一直線のやはり急傾斜だったようである。 つまり林道ルートも東稜ルートも、前半がなだらかで後半が急傾斜という構成は同じなのである。 だとすれば雨乞い神事の際に辿るルートは神社から東稜であったという可能性があり、山頂の「天気輪の柱」の所以を知っていたであろう賢治たちが少なくとも一度はその神事ルート=東稜を辿ったのではないかという可能性も考えられるのではないだろうか。 以上は私の、とりあえず机上の推論である。 東稜=神事ルートについては地元で調べれば容易に判明するだろう。 しかし、それはそれとして、正直に言えば、林道ルートで車で肩まで行き、そこから30分で頂上というのは、あまりに楽すぎて面白くないというのが本音だった。 多く賢治が辿ったであろう林道ルートは下りに歩くことにして、せめて登りは少しは面白そうな東稜からということにしたのである。 数年前に一度、箱根の駒ケ岳から神山、冠ヶ岳まで一緒に歩いたことがある。 体力等もそれなり、気心も良く知っている。 幸い天候も今日一杯はもちそうだし、2時間ほどの行程であり、不安はない。 神社わきの木の階段を上がり、登り始める。 若干急な所もあるが、よく歩かれており、歩きやすい。 なだらかな部分と時おりの多少の急な部分を繰りかえす。 熊を恐れるS氏のガランガランと鳴る鈴やら、ときおり吹く熊除けの笛がやかましい。 とはいえこの辺は熊の多数棲息する所ではあるらしい。 なめとこ山も峰続きだし。 実際途中で一か所、翌日もう一か所、少し古いものだが、熊の糞を見つけた。 ところどころに巨木も現れる。 さすが東北の山、独特の深さ、風情だ。 展望はほとんど無いが、百年前にひょっとしたらこの尾根を歩いたかもしれない賢治少年たちのことを思えば感慨深いものがある。 ここから頂上までが一気の急登である。 とはいえ標高差は250m、1時間足らずだ。 登り始めると、岩と木の根と湿った泥の急傾斜に張られたロープが連続するようになる。 ロープはマニラ麻で、湿った泥がこびり付き、コケまで生えている。 手がかりになるような結び目も無い。 旧式のロープ張りである。 三点確保を保ちながら、なるべく体重をかけずに、バランス保持程度につかまれと指示するが、S氏はそれどころではなさそうで、必死に両手でしがみついて登っている。 気持はわかるが、一番危ないパターンだ。 ロープに体重をかけると、場所によっては後続の者を弾くこともあるのだ。 歩幅を狭く、ゆっくり登れと言っても大股で息を切らせている。 確かにその気になれば、結構恐いところもあった。 途中二三度休憩をとって見下ろせば、樹が多いせいであまり高度感はないが、なかなかの急登であることは間違いない。 その分、私は楽しかったのであるが。 ルートとしてはやはり登り専用というべきであって、下りにはちょっとすすめ難い。 頂上は小広く、木立に囲まれている。 あの天気輪の柱(のイメージの源泉)と言われる奉納された石柱が何本も立っていた。 その内の何本かは柱状節理の特徴を示していた。 何体かのも鎮座している。 そしてこの山頂のどこかに、今も賢治の遺言に従って、一冊の『国訳』が埋められたままでいるのである。 いや、賢治はそのイメージの一半をこの山頂で形成したのか。 そして私はその現場に、遅れて今、佇んでいる…。 それやこれやとイメージと感慨が交錯し、何だかとりとめもなく時間が過ぎてゆく。 酒と賢治談義が弾む。 盛岡方面が見えるだけだ。 その方向に展望台というかテラスのようなものがしつらえられてある。 夜半からの雨が予想されることもあり、そのテラスの上にテントを張る。 夕食はコンビニで買ったおにぎりとインスタントみそ汁。 それなりに美味しくいただけた。 ただ一つ残念なのは、ぜひ見たいと思っていた山頂でのヒメボタル(姫蛍)の乱舞。 もうすでに出ていると言う情報もあったのだが、天候のせいかついに一匹も現れなかった。 「まるで億万のの火を一ぺんに化石させて、空中に沈めたという具合」、ああ、それを見るために、わざわざこの時期に山頂で泊まったのに。 仕方がないが、やはり残念である。 夜半、小便に起き出してみれば、しめやかな雨。 濃密なガスの中、天気輪の柱は静かに濡れていた。 簡単な朝食をとってのんびりと出発する。 雨はひとしきり本降りとなるが、問題はない。 林道までよく整備された擬木の階段の道を下る。 ちょっと整備しすぎと文句を言いたいところだが、歩きやすい。 舗装された林道を淡々と歩き、50分ほどで、車を置いた南昌山神社に着いた。 濡れた服を着替え、山行を終了した。 振返れば、休憩を入れても合わせてたかだか3時間半ほどの歩程だったが、変化のあるルートで楽しめた。 思索的要素の多い、印象深い山登りであった。 その日の午後は盛岡に行き、ともりおか啄木・賢治青春館を見る。 前者では万鐡五郎・松本峻介・船越保武の常設展を中心に見、後輩ののO氏と30余年振りで会う。 お互い年をとったもの。 年をとったからこそ再会できるのであろうが。 その夜はこれも賢治ゆかりのに泊。 やはり湯治部で素泊まり3000円。 湯も申し分なし。 ただし疲れからか、酒は弾まず、早々に寝入った。 【コースタイム】 7月13日 南昌山神社14:10~東稜~南昌山16:35 847. 5m 7月14日 南昌山8:45林道9:13~南昌山神社10:05 sosaian.

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アクタージュファンに「想稿 銀河鉄道の夜」(ことのはbox)をオススメしたい!

銀河 鉄道 の 夜 舞台

初めまして毛蟹です。 今日は「」の凄さを皆様に知って欲しいと思い、この記事を書いています。 この作品は童話で片付けてはいけないと思います。 『』はモチーフの散りばめ方、物語構造が素晴らしい作品です。 この作品の舞台は秋ですが、暑い夏にに乗り込み、涼やかな秋の風を感じるのもまた一興ではないでしょうか。 素人の文学好きの一意見なので学術的な根拠は何もなく、ふわっとした語りになるかと思います。 これを読んで、少しでも『』を楽しんでいただければ幸いです。 おそらく今日でも教科書に載っている作家、。 、かぷかぷ笑うの人ですね。 『』 タイトルだけは聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。 の元ネタとなった作品ですね。 なるべく物語の流れに沿ってこの作品を語っていきたいと思います。 しかも、天にあるものと地にある物の取り合わせ。 この2つのワードを合わせたセンスには脱帽ものです。 このでの短い夜はその後のジョバンニの人生を運命づけることになるのです。 まず、冒頭の銀河の科学的な講義。 これはそのまま銀河を渡るにつながっています。 ジョバンニの仕事先、活版所。 ここで彼が拾っている活字は、おそらく「号沈没」の記事ではないかと思われます。 実際にのアニメ 監督 で印刷されているのはまさにこの事件の記事でした。 次に、牛乳。 このモチーフは帰宅した時やジョバンニが牛乳屋さんに行くシーン終盤にまでかかわってきますね。 先生の講義の中でも出てきましたね。 彼が辿る一夜の物語の道筋がすでにここに示されているのです。 その次に、海に漁に出たまま帰ってこない、監獄へ入っているかもしれないお父さん。 これはジョバンニの貧しさを生み出すとともに、父親という役割、道を示す存在不在であるということも暗示しているのではないかな、と思います。 ジョバンニは働きづめなだけではなく、指標を見失っているがゆえに思考の鈍り 冒頭で天の川を知っていたのに答えられなかった を感じているのではないかなと思います。 それに対比されるように、終盤で冷静なカンパネルラの父親の存在が出てきているのではないかな、と思います。 ジョバンニの父の帰りを示すのもカムパネルラのお父さんですね。 母親との会話の中で、「川」が登場します。 これは「天の川」と同時にこの作品を読んだ方ならお気づきであろうある結末を想起させます。 ジョバンニは自分を機関車だと考えながら坂を下ります。 これは「鉄道」を予期させます。 時計店の星座盤、それをどこまでも歩いてみたいと思うジョバンニ、これは言うまでもなくの示唆ですね。 この作品の中では何度も同じモチーフが繰り返されているのです。 ジョバンニがいじめられていることもこの物語の鍵だと思います。 ジョバンニは迫害されるものです。 弱い立場の人間です。 ジョバンニが弱い人間であるということは、多分一様に迎え入れられる素質があるという意味になると思うんですね。 イキリストが弱者の側に立ち続けたように、が悪人 いわゆる普通の人 こそ救われると説いたように。 ジョバンニはカンパネルラがいるから、と奮い立っていますが銀河のお祭りの日、ザネリからいじめられます。 そしてその中に親友の姿もありました。 カンパネルラからの「裏切り」を受け、彼は悲しみに暮れ、天気輪の丘へと向かいます。 そして、あの一夜が始まるのです。 ですがこの作品はよく読めばきちんと線路の上を走っていることに気付くと思います。 線路の周りの星々も、本当に星というわけではなく、三角標でできています。 三角標というのは当時の日本が自身の土地を測量するために三角点の上につくられた作られたやぐらのようなものです。 当時の日本は、富国強兵のための最優先事項として日本の測量を行いました。 そんな時代背景もこの作品には織り込まれているのです。 星に等級があるように三角点にも等級があります。 その三角標のてっぺんには大小さまざまな色の明かりがついています。 から何百も見えるその明かりが星座を形作っているのです。 まさに星ですね。 三角標の具体的な形は検索をかけていただければわかりやすいかと思います。 木でできた低い簡素な東京タワーをイメージしていただければ近いです。 この作品はただファンタなだけではなく、科学に裏打ちされているのです。 さて前提が長くなってしまいました。 いよいよここからが星めぐりの旅となります。 ですが、作品に触れてほしいのでここでは物語の内容にはなるべく触れず、の道筋やこの作品で扱われているテーマについて語るにとどめようと思います。 ・巡礼の旅路 一度読んだ方はおわかりと思いますが、この物語には「死」が深くかかわってきます。 この一夜は死者へを見送る弔いの物語だと思います。 そして作品の中で何度も登場する「川」と言えば彼岸と此岸。 あちらとこちらを隔てるものですね。 まさに「死」の象徴と言えるでしょう。 ・からまでの旅路 からは始まりますが、本当の始まりはデネブの付近にある、X-1ではないかな、というお話を聞きました。 物語の終盤も石炭袋、に向かっていますね。 この物語は、無から無への旅路ともいえると思います。 そう考えると、我々の命とも同じですね。 の作品に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というものがあったことを思いだします。 宗教観はどうあれ、感覚的に考えれば我々は無から生まれて無に還ります。 この物語は「生」の物語をも内包しているのではないでしょうか。 ・りんどうの 「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」 ・プリオシン海岸 これは花巻にあるイギリス海岸のことで、ここの地層がおよそ120万年前の新第3紀(がプリオシン)から名付けられたのではないかとされています。 現在では地層の年代が変わってしまうようです。 風の北三郎の冒頭でもアオイが出てきますが、ここに出てくるの化石も重要な意味を持ってそうですよね……! ・七夕伝説 こと座のベガとわし座のアルタイルの七夕伝説は皆さんもご存知でしょう。 このモチーフは作品内の「鷺」にもかかわってきます。 鷺は七夕の夜に彦星と織姫が逢瀬を重ねる際の橋の役割を果たします。 ただ降ってくるわけではありません。 「鷺」にもきちんと理由があるのです。 ・とエウリュディケ こと座と言えばこの物語でしょう。 冥界下りの物語ですね。 ・切符 このジョバンニが持っていた切符が本当に天上世界へも行ける、どこでも勝手に歩ける通行券である、というのは彼が生きているからではないかと思いました。 生きているから、どこへでも行くことができる可能性があるのではないでしょうか。 ・ とはの中の有名なです。 当時は二連星だと思われていたようであの描写につながっています。 とても美しいので見てみてください。 ・ これは物語に直接は登場しませんが、この物語の執筆時期や乗り込んでくる子供たちの様子、青年の話を聞いていると、おそらく号沈没を取り上げたのではないかと思われます。 ・苹果 林檎と言えば罪の果実、アダムとイブの物語ですね。 ・献身 燃えているさそり座、女の子が話していたさそり座の逸話は「ほんとうのさいわい」のための献身ですね。 このお話はこの物語に大きくかかわってきます。 おそらく、このテーマは作品内だけでなく論文でも数多く言及されていると思うので、ここでは触れるにとどめておきます。 ・十字架 のから南十字までこの物語は進んでいきます。 ところで、は日本から見ることはできません。 見えないもの、然し確かにあるもの。 それは「死」です。 そしてまた「ほんとうのさいわい」があります。 南十字と結びついていくような気がしませんか? ・ほんとうのさいわい この作品内に登場する「ほんとうのさいわい」とは何でしょう?それぞれのキャターが言う「さいわい」は少しづつ違っています。 それについて考察したり、論文を読んでみるのも面白いと思います。 ・ザネリを愛せるか(隣人愛) ザネリは嫌な奴として物語に登場します。 その嫌な奴を愛せるか。 カムパネルラはザネリを愛しました。 ジョバンニは彼を愛せるか問われることとなります。 あなたはザネリを、愛せますか。 ・啓示と呪い さた、この旅でジョバンニはカムパネルラと「どこまでもどこまでもいっしょに行こう。 」「みんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」と約束をします。 あらゆる人のいちばんのこうふくを探し、みんなといっしょにそこに行くこと、そうすればカムパネルラといっしょに行けるようになります。 この約束によって、ジョバンニは必死に勉強し、死ぬまで善行を続け他者へ献身をしなければならなくなりました。 これは啓示であり「呪い」ともいえるのです。 死んだ者にはもう先がありませんから「これから先」を背負うことがありません。 しかしジョバンニは違います。 彼が生きている限りこれが付きまとうことになります。 それでも、たとえザネリであろうとも彼は愛す決心をしました。 この物語はジョバンニが強い強い決心をしたことを示す物語でもあるのです。 さて、星めぐりの旅はいかがだったでしょうか。 未熟な案内人故に作品の持つ魅力のほとんどをうまく伝えられなかったかと思います。 ぱっと思いつくだけでこれだけあったので、専門家の方なら私の比較にならないほどあげられるのではないかと思います。 私のこの記事は本当に触れている程度なので、ぜひ作品ないしは論文や各サイト様 とても詳しくこの作品を分析しているサイトがあります をご覧ください。 この作品内では様々なモチーフが取り上げられ、そのどれもが深い意味を持っています。 これを読んで『』を少しでも楽しんでいただける人が増えたらなあ、と思います。 長々と読んでいただきありがとうございました。 と戦争のかかわりについてなので気分を害される方もいらっしゃるかと思うので読まないほうがいいかと思われます。 ) 賢治が作品内でたびたび取り上げている「みんなの幸福」というのはとても素晴らしい考え方ではありますが、的で、理想論であり非常に脆いです。 「みんながおなじくらい幸せ」というのは「みんながおなじくらい不幸」であるのとほぼ同義です。 一言で言えば「幸せが管理された社会」でしょうか。 よくで取り上げられる題材でもありますね。 もちろん彼の思う「みんなの幸せ」はこれではありませんが、残念ながら、コインの様に簡単に裏返すことができてしまうのです。 彼の死後、彼の作品は戦争思想に使われていくことになります。 彼の理想は実現しないばかりか、「みんな我慢しているんだから」と「みんなが同じくらい我慢する」、という思想に利用されることになります。 賢治の作品を冷静に見つめることができる現代。 「個人の幸せ」だけでなく、「みんなの幸せ」が一体何なのか、どうしたらなるべくたくさんの人が幸せになれるのか、私たちも作品を通して考えていく必要があるのではないかと思います。 nankamoumendoi.

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