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「かは如何に」とて、川の中より抱(いだ)き起したれば、連歌の賭物取りて、扇・小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。
ぜひ味わってみてください。
ある所で夜が明けるまで連歌をしていた法師は、一人で歩いて帰っていたが、小川沿いの道で噂に聞いていた猫又と紛れも無く出会い、その猫又が足元へすっと寄ってくる。
悪日に善を行ふに、必ず吉なり』と言へり。 」と言う者がいたのを、 何阿弥陀仏 なにあみだぶつとかや、連歌しける法師の、行願寺 ぎやうぐわんじのほとりにありけるが聞きて、ひとりありかん身は心すべきことにこそと思ひけるころしも、ある所にて夜更くるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川 こがはの端 はたにて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふと寄り来て、やがてかきつくままに、首のほどを食はんとす。
7一条油小路にあった「元の」行願寺の近くを流れていた川の名前です。 出典 徒然草 参考 「国語総合(現代文編・古典編)」数研 「教科書ガイド国語総合(現代文編・古典編)数研版」学習ブックス. それを見て男は殺生の罪を後悔して出家します。
聴いて・わかる。
希有 けうにして助かりたるさまにて、這 はふ這ふ家に入りにけり。
飼ひける犬の、暗けれど、主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。
」と叫ぶと、家々からたいまつをいくつもともして、走り寄ってみると、この辺りでは見知っている僧である。 飼ひける犬の、暗けれど主 ぬしを知りて、飛びつきたりけるとぞ。
5その頃、東山から安居院(あぐい)へ出かけました時に、四条より北にいる人が、皆、北をさして走っていた。
猫また 伝説上の化け猫。
飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。
『吉日に悪をなすに、必ず凶なり。
[現代語訳] 『山奥には猫又という化け物がいて、人を食べてしまう』と人は言っているが、『山奥じゃなくても近所の猫でも、異常に長生きした猫は猫又になって人を襲うそうだ』という人もいる。 懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る。
それを聞いた何阿弥陀仏とかいう連歌をする行願寺の法師は、一人歩きする時には、猫又には十分に気をつけようと思っていた。
胆魂も消えて、防ごうとするが、力もなく足も立たない。
学生の頃、誰もが授業で習いましたが、『徒然草』の真の味わいは社会に出て経験を積み、それなりに歳を重ねてからこそわかってくるものです。
正気も失って、防ごうとしても力も出ず、足もおぼつかず、小川へ転げ入り、「助けてくれ。 『徒然草』より「奥山に、猫またといふものありて」 こんにちは。
胆心(きもこころ)も失せて、防がんとするに、力もなく足も立たず、小川へ転び入りて、「助けよや、猫また、よやよや」と叫べば、家々より松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。
法師の名前をあいまいに表現している。
京都御所のすぐ東側です。
猫またの話よりも、ひねりがきいていますね。
法師はそのまま小川に転がり込んで、『助けてくれ。 誰も鬼は見れなかったんだ。
私はさっき猫またに噛みつかれそうになって怖かったんだ。
…… 鬼が出たという噂が一人歩きして、平安京の人々が右往左往する話です。
現在、「小川通(おがわどおり)」という地名にその名残がみえます。
現代語訳つきなので内容がつかみやすいです。
それを、何阿弥陀仏とか連歌をする坊さんで、行願寺の近くに住んでいた人が聞いて、ひとり歩きをしたりする自分みたような者は、気をつけなければいけないなと思った折も折、あるところで夜の更けるまで連歌をやって、たった一人で帰ってくる途中、小川の縁で、噂に聞いていた猫またが、はたして、足もとにひょっと寄ってきて、そのまま飛びつくが早いか、頸の辺りに食いつこうとする。
」とて、川の中より抱き起こしたれば、連歌の賭物 かけもの取りて、扇、小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。
」と言って、川の中から抱き起こしたところ、連歌の賞品で取った扇や小箱などを懐に持っていたのも、水の中に入っている。