渡辺リサ とらじ 関係。 【恋ステ 2020春』毎週火曜よる10時放送中

作曲家という職業の偏差値別出身高校別有名人

渡辺リサ とらじ 関係

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【恋ステ 2020春』毎週火曜よる10時放送中

渡辺リサ とらじ 関係

なっとく童謡・唱歌 大中恩の童謡;いぬのおまわりさん,おなかのへるうた,サッちゃん,ドロップスのうた 池田小百合 に戻る に戻る 池田小百合 なっとく童謡・唱歌 大中 恩 作曲の童謡 童謡・唱歌 事典 (編集中) 作詞 さとう よしみ 作曲 大中 恩 池田小百合なっとく童謡・唱歌 2011年9月1日 池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より 日本音楽著作権協会 許諾番号 J100917445号 【発表誌】 月刊保育絵本『チャイルドブック』 チャイルド本社 の委嘱で作られ、昭和三十五年(1960年 年十月号に掲載されました。 詩と曲は同時掲載。 タイトルは全部平仮名で『いぬの おまわりさん』。 詩は「いぬの おまわりさん こまってしまって・・・」となっている。 作詞者名は平仮名で、「さとう・よしみ」となっている。 挿絵・中尾彰。 編集長は城谷花子。 定価五十円。 ソノシート付き。 『チャイルドブック』が正しい名称。 「チャイルドブック」昭和35年10月号 中尾彰 絵 【掲載ページの説明】 挿絵は迷路の絵。 右上には、さとう・よしみの詩が平仮名で書いてある。 左下には、大中恩作曲のメロディー譜がある。 さらに楽譜の左には「迷路あそび」の説明が次のように書いてある。 〔社会・あそび〕 はじめに文を読んだら、ネコのおかあさんの待っているおうちまで、どこの道を通っていったらよいか、指でたどらせましょう。 【季刊『どうよう』12号の検証】 初出誌の掲載ページは、季刊『どうよう』12号 チャイルド本社 昭和六十三年一月発行の特集「いぬのおまわりさん」を探る(14、15ページ)で見る事ができます。 初出では、猫も犬も四回しか鳴いていません。 この部分は重要な資料です。 そのことに編集者は気が付いていないようです。 挿絵の上に載せられた詩は、ワープロで打ち直され、現在歌われているように猫も犬も八回鳴いているように書き直されてしまっています。 この部分も重要な資料。 それに編集者は気が付いていません。 「いぬのおまわりさん」初出誌より。 「チャイルドブック」昭和36年10月号。 この「昭和36年」は間違いで、「昭和35年」が正しい。 みんなが見たい貴重な文献なのに、ずさんな編集で残念です。 『チャイルドブック』も季刊『どうよう』も、チャイルド本社の出版物。 季刊『どうよう』編集=日本童謡協会「どうよう」編集室。 編集委員は藤田圭雄 編集長 ほか八名。 【詩の依頼】 『チャイルドブック』は、中尾彰の「迷路あそび」の絵に合わせて、さとう・よしみに「迷路のうた」の詩を依頼しました。 【詩の誕生】 当時の編集長の城谷花子によると、完成した詩は社内で大変不評でした。 特に営業サイドから、「こんなに長ったらしい歌を、子どもが歌えっこない。 」「大人だって覚えきれない。 」とクレームがつきました。 編集長の城谷花子は、確かに当時の幼児童謡でこんなに長い歌はほとんど例がなく、しぶしぶ直しを頼みにいきました。 しかし、さとうは、「絶対子どもに歌える、だから直さない」と、頑として修正を拒否しました。 そのまま曲がつけられることになりました 季刊『どうよう』12号 城谷花子・著「いぬのおまわりさん」誕生記より抜粋。 この時の詩は、猫も犬も四回しか鳴いていません。 【曲の誕生】 作曲の依頼を受けた大中恩も、さとうよしみの詩に当惑していました。 季刊『どうよう』12号掲載 やっぱり「いぬのおまわりさん」大中恩・著によると、次のようです。 「この詩を送っていただいた時、さとうよしみさんの詩の好きな私でありながら、"こねこちゃん"というような呼び方や、ちょっと長い歌詩に、ほんとうのところ興味を覚えなかった。 しかしそのころの我が家の生活状況は、いくら私自身は気にしていないとは言いながら、一篇の子どものうたの作曲と言えども、お断りするにはちょっと勇気のいることで、女房子どもの顔を思い浮かべながら、思わず「O・K」と御返事申し上げてしまったわけだ。 思えばこの「O・K」によって、私はいまもって幽かな生活を支えられている結果となった・・・・・、というまことに感謝感激の有難い話ではある。 「そう言えば、このうたが少しうたわれはじめたころ、「題名がよくない。 "迷子のこねこちゃん"にしなさい」と言った人がいたが、「いぬのおまわりさん」はやっぱり、「いぬのおまわりさん」でよかったと思う。 親しみがあるし、愛敬もある」。 「作曲は昭和三十年代の半ばごろ」が正しい。 【天才作曲家の仕事】 大中恩の才能が光るのは、猫と犬の鳴き声のところです。 さとう・よしみの原詩では、「にゃん にゃん にゃん にゃーん」と四回しか鳴いていません。 読む詩としては当然のことです。 しかし大中は、これを八回にふやして、みごとなリズムを付けました。 曲なしで現在の歌詞だけを読んでしまうと、八回の鳴き声は、そこで間延びしてしまって、無駄な繰り返しでしかありません。 ですが、曲が付き、歌ってみると、この八回は、なくてはならない回数に思えます。 犬の「わん わん わん わーん」も同じです。 まさに大中恩、天才の仕事です。 【レコードの製作】 当時の『チャイルドブック』には、毎月フォノシートがついていました。 絵本に掲載した歌を音にして、保育園や幼稚園の先生方、子どもたちに聞いてもらおうというもの。 初演、初録音は『チャイルドブック』です。 編集長の城谷花子の記憶によると、編曲・指揮は湯山昭。 季刊『どうよう』12号掲載『チャイルドブック』編集長・城谷花子による。 昭和三十五年八月、『いぬの おまわりさん』は『チャイルドブック』の発売に先駆け、中野慶子の歌でレコード化されました。 『チャイルドブック』十月号に付けて販売するためです。 これは、「ソノシート フォノシート 」と呼ばれた薄いビニール製のレコードです。 長田暁二著『童謡歌手からみた日本童謡史』 大月書店 平成六年十一月発行には次のように書いてあります。 この記載は、重要な証言として『親子で歌いつごう日本の歌百選 文化庁編』 東京書籍。 解説・上田信道、平成十九年発行)はじめ多くの書物で紹介されています。 中野慶子については、長田暁二著『童謡歌手からみた日本童謡史』 大月書店 で知ることができます。 ファンは必見です。 【テレビ初放送】 昭和三十六年十月十日 火 、NHKテレビ「うたのえほん」。 歌・中野慶子、ピアノ伴奏・小林道夫。 今月のうた『いぬのおまわりさん』。 この日の曲目構成は季刊『どうよう』12号で見る事ができます。 スタッフの中には、「言葉の数が多すぎる」「曲が長すぎる」「幼児には、この曲は難しい」などの意見が多く、私ももっともだと思ったので、なかなかチャンスがなかったのですが、この番組のピアニスト小林道夫さんの助言もあり、ともかくやってみようというので、取り上げてみたのでした 季刊『どうよう』12号/岡弘道・NHKテレビ「うたのえほん」企画担当ディレクターによる。 【「うたのえほん」の発足】 「うたのえほん」は、昭和三十六年四月三日 月 に発足するや、眞理ヨシコ 当時・東京藝術大学四年生 、中野慶子 学習院大学卒、劇団三十人会 、砂川啓介 さがわけいすけ・パントマイム の三人の活躍で一挙に人気番組になりました 季刊『どうよう』12号/岡弘道・NHKテレビ「うたのえほん」企画担当ディレクターによる。 以上のように、当初この曲は、子供の歌の中で最も人気の高い歌の一つになるとは、だれも予想していませんでした。 しかし、前項【レコードの製作】で記述しているように、その前年に中野の歌でソノシート化されていて、『チャイルドブック』にも曲譜が掲載されていることから、この歌はすでに歌われていました。 初見で歌ったと言うのは中野慶子の記憶違い。 詩と曲は同時掲載。 中野がこの本の楽譜を見ていない可能性があります。 新曲はたくさん発表されます。 ・・・歌手がどなただったか失念してしまったのは残念でなりません」と書いている。 歌手は中野慶子でなく、他の歌手だった可能性もある。 しかし、城谷花子は「編曲・指揮は湯山昭」というのを覚えている。 「歌手を覚えていない」というのはおかしい。 なぜ、このように書いたのか。 このあいまいな表現を本人に問いただすには勇気がいる。 ソノシートを見れば 聴けば 問題は解決するのだが。 これで調査は不可能になりました。 いったい『いぬの おまわりさん』は、だれが最初に歌ったのでしょうか。 【大人気の曲になる】 歌は、前奏二小節を聞いただけで、「あっ、『いぬのおまわりさん』だ! 」とわかります。 子どもたちの知っている言葉で構成され、「まいごの まいごの こねこちゃん。 」の呼びかけが、子どもたちの心を自然にとらえました。 そして、だれでも簡単に弾ける伴奏により、保育園や幼稚園で人気の曲になりました。 ヒット曲「いぬの おまわりさん」「おすもう くまちゃん」「アイスクリームの うた」も掲載されています。 【の略歴】 ・明治三十八年(1905年 一月二十日、大分県直入郡岡本村 現・竹田市 に、父佐藤平太郎、母キツの長男として生まれる。 父は泉郷(郷土で一文字)と号して絵を描き、のちに文展にも入選。 当時、鹿児島県立第一中学校で図工の教師をしていた。 母は織物をよくした。 ・大正九年(1920年 十五歳、三月、父が横浜市視学になったため、家族は横浜市本牧町に転居。 二学期より、神奈川県立横浜第二中学校 現・横浜翠嵐高校 に編入。 同組生に高木東六がいる。 この頃より詩・童謡を書き始めるが、画家を志望していたため絵を描く事に熱中、休日は父と共に野外写生にでかけた。 ・大正十二年 1923年 十八歳、関東大震災で家が崩壊し焼け出される。 絵の具を焼失して絵が描けなくなり、詩・童謡を創ることに専念。 ・大正十三年(1924年 十九歳、雑誌『赤い鳥』『童話』『金の星』に童謡の投稿を始める。 三月、横浜第二中学校卒業、早稲田大学第二高等学院を受験したが不合格。 九月、父が東京市の視学になったため、東京市小石川区久堅町に転居。 ・大正十四年(1925年 二十歳、三月、早稲田大学と慶應大学を受験して両方に合格。 早稲田大学第二高等学院文科F組に入学。 英文学のクラスで英詩を読み、詩と童謡のちがいを考え、詩としての童謡を考えるようになる。 ・昭和二年 1927年 二十二歳、三月、早稲田大学第二高等学院を卒業。 四月、早稲田大学国文科 英文科より国文科に変る に入学。 ・昭和五年(1930年 二十五歳、三月、早稲田大学国文科を卒業。 四月、早稲田大学大学院に入学。 五月、『赤い鳥童謡集』に「月の中」「風のふく日」「銀ぐさりの芽」「煙り雨」「たんぽぽ」「雉子」「みそはぎ」「畦道」「目白の声」「お山の夏」が収録される。 九月、『新早稲田文学』が創刊され、参加して編集を手伝う。 ・昭和七年(1932年 二十七歳、三月、早稲田大学大学院修了。 四月、東京府立第三商業学校に奉職。 国語・作文の教鞭をとる。 六月、童謡集『雀の木』を高原書店より刊行。 ・昭和三十五年(1960年 五十五歳、『佐藤義美童謡集』を、さ・え・ら書房より刊行。 ・昭和四十一年(1966年 六十一歳、九月、神奈川県葉山で、学研ヨット部のヨットに乗せてもらい、積年の夢であったヨットを手に入れる決心をする。 十一月、ヨットを注文。 十二月、神奈川県逗子市桜山に仕事場をもつ。 ・昭和四十三年(1968年 五月、食事の後、吐気を感じるようになる。 京都に旅行。 吐気がひどくなり、国立東京第二病院で診察を受けた結果、食道ガンの末期で余命二十日、二、三日中にも大吐血が起り死に至ると診断される 後に他の病院でガンではなく内臓癒着と診断される。 民間療法で吐気が止る。 六月以後、あらゆる民間療法を試みながら仕事に打ち込む。 十二月十六日、東京都目黒区平町の自宅で、子どもたちと多くの友人に囲まれ、ひとりひとりとそれぞれに最後の言葉を交し、六十三歳で永眠。 代表作品に「グッド・バイ」「おすもうくまちゃん」「アイスクリームのうた」ほか。 故郷の大分県竹田市竹田には「佐藤義美記念館」 平成十年四月開館 があり、神奈川県逗子市にあった最後の仕事場を再現し、遺品や著書が展示してあります。 隣接して、「このこのおうち」というミニホールがあります。 名前は『いぬの おまわりさん』の二番の歌詞「このこのおうちは どこですか」からとったものです。 【阪田寛夫が書いた理由】 次のような理由で、阪田寛夫は「サッちゃん」を書きました。 昭和三十四年十月に松田敏江さんの「歌のおばさん十周年」記念音楽会が催された。 この時「ろばの会」という当時の若手の意欲的な 作曲家グループ五名が、それぞれ 二曲ずつ新作童謡を松田さんに贈った。 『ろばの会』とは、昭和三十年に磯部俶の提唱で結成されたを創作発表する作曲家のグループで、磯部俶、宇賀神光利、大中恩、中田一次、中田喜直の五人がメンバーです。 「一人二曲」が正しい。 【「ろばの会」について】 ・「ろばの会」は、磯部俶(いそべとし)、宇賀神光利(うがじんみつとし)、大中恩(おおなかめぐみ)、中田一次(なかだかずつぐ)、中田喜直(なかだよしなおお)の五人の作曲家グループ。 昭和三十年、時 流におもねることのない作品作りをしようと発足。 以来、数多くの子どもの歌の創作をした。 <> ・大正十二年 1923年 十二月十八日生まれ。 東京都出身。 別名・宇賀神光利 うがじんみつとし 作曲家。 父は戦前期に浅草オペラなどで指揮・作曲家として活躍した宇賀神味津男 うがじんみつお。 ・国立音楽大学本科卒。 師は尾高尚忠、諸井三郎。 音楽コンクール作曲部門室内楽曲第三位 第十八回・1949年 入賞。 ・童謡の分野で活躍し、NHKの童謡番組「うたのおばさん」などにも曲を提供した。 1955年、子どもの歌の自主的な創造を目的として、 磯部俶、大中恩、中田一次、中田喜直らと「ろばの会」を結成、作曲・公演・出版を行うが、昭和四十二年 1967年 一月十五日、四十三歳の若さで亡くなった。 ・作品には「てぶくろ」「あの頃」「風の子」「くしゃみ」「五月の雨」「チューリップがひらくとき」「わっしょいわっしょい」などがあり、曲集『新しい子どもの歌』を第5集まで刊行している。 「光敏」は間違い。 「宇賀神光利」または「宇賀神敏道」。 「青い青い秋ですよ」「サッちゃん」「おなかのへるうた」「マーチング・マーチ」「夕日がせなかをおしてくる」など三十六篇。 装画は和田誠。 【「うたのおばさん」について】 藤田圭雄著『解題戦後日本童謡年表』 東京書籍 昭和五十二年(1987年)八月二十五日発行で、次のように書いてあります。 「昭和二十四年八月一日、NHKラジオで「 うたのおばさん」はじまる。 うたい手は松田トシと安西愛子。 」 37ページより抜粋。 「サトウハチローやさとうよしみの新時代の童謡は、一九四九年八月一日、NHKラジオに依るうたのおばさんの出現まで待たねばならなかった。 ラジオから毎朝きこえて来る新しい童謡は大きな魅力だった。 所謂レコード童謡の豆歌手でなく、幅のある、そのつややかなうたのおばさんの歌声は、童謡の世界に新境地を拓いた」。 註 「かわいいかくれんぼ」「めだかの学校」「ぞうさん」「サッちゃん」、これらは、童謡といわずに、新しい子どもの歌と呼んだ。 彼も持ち歌として歌いつづけたため、次第に広く知られるようになりました 長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』 ヤマハミュージックメディア による。 (註)NHKラジオ第一「うたのおじさん」は、昭和35年4月25日 月 よりスタート。 詳しくは、以下の「」についてを見て下さい。 当時の新聞などを調査しました。 中田喜直作曲『めだかのがっこう』の項に記録しています。 【NHKからの初放送は】 『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』 平凡社 には次のような事が書いてあります。 「作られた時期については作者が記しているところでは、一九五九年 昭和三十四年)であるが、 NHKからの初放送は、それから約六年後の一九六五年 昭和四十年)、としている童謡集もある。 」(構成・解説は秋山正美)。 「サッちゃん」は、日本放送協会・編『NHK こどものうた楽譜集 第4集』 日本放送出版協会 昭和四十三年発行に収録してあります。 【子どもには名前がある】 『サッちゃん』は文字通り、名前のうたです。 「ミッちゃん」や「ヨッちゃん」や「ナッちゃん」と名前を入れ替えて、自分たちの歌として歌うことができます。 昭和五十四年(1979年)、ユニセフ国際児童年の協賛曲として、ゴダイゴが『ビューティフル・ネーム』(作詞・奈良橋陽子、作曲・タケカワユキヒデ)で 「エヴリ・チャイルド・ハズ・ア・ビューティフル・ネーム Every Child Has A Beatiful Name (すべての子どもには美しい名前がある)」と歌いましたが、すでに、『サッちゃん』にも同じ素晴らしい世界観が流れていました。 『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』 平凡社 掲載の阪田寛夫著「新しいわらべうた『サッちゃん』」によると次のようです。 ・・・ 歌が流行って一番よく受ける質問は、「サッちゃんは、あなたの初恋の相手ですか」ということだ。 「いいえ、実在の人の名ではありません」と私は答える。 これは音のひびきが好きでつけた名前で、その他の理由はない。 ところが、阪田寛夫著『どれみそら』には次のように書いてあります。 「幼稚園の頃一つ上の組に、さっちゃんという女の子がいまして、その名前の響きが好きだったから、なんとなくそのことを思い出して、まず「サッちゃん」とタイトルをつけた ・・・あとは、ただただ自分のことなんかを、ごじゃごじゃと入れて。 いわば話し言葉で作った童謡です。 それが彼の曲にのると「言葉の内側のリズム」が立ちあらわれてくる」。 【作詞の経過と歌の感想】 阪田寛夫は従兄弟に当る大中恩と、それまでに混声合唱曲は書いていました。 また、民間放送の会社に勤めて新しい童謡の番組を作っていました。 しかし、童謡を自分で書くのは初めてで、困ったあげく、好きな響きの名前を一番初めに書いてみた。 すると、響きから生まれたはずの女の子が立ち上がって、まるで私を導くように、あとの歌詞を書かせてくれたのだった。 大中に依頼された阪田は『サッちゃん』『いちばん高いは』のふたつの詩を書いて渡しました。 二週間ほどして大中が出来た曲をピアノの弾き語りで聞かせてくれたとき、阪田は「ふしぎなことに最初の一行を聴いた時から、前もって知っていたような気がした。 決して他の曲のフシに似ているのではない。 いや、世界中のどの曲にも似ていない個性の強い曲だ。 それなのに、心の中に、なつかしい昔の歌のように響いた 阪田寛夫著「新しいわらべうた『サッちゃん』」による。 【「サッちゃん」は新しいわらべうた】 『サッちゃん』には、少しだけ年上の男の子が、幼い女の子に対して抱く気持ちが歌われています。 歌が生まれた経緯や歌の心、作曲の特徴についていちばん的確な証言や指摘をしているのは阪田寛夫自身です。 「サッちゃん」を作った時の経験は、阪田寛夫著『童謡でてこい』 河出文庫 にくわしく書かれています。 「心の中に、なつかしい昔の歌のように響いた」その理由を阪田はいろいろ考えてみています。 ・「声を出して歌詞を読んだときの言葉の抑揚やリズムが、そのまま 拡大強調されて 旋律になっている」。 ・「単なる拡大強調にとどまらず、旋律が子供のお喋りの調子をうまく形どって、しかもやはり旋律としての個性の強さと美しさを備えている」。 ・「言葉がはずんでそのまま歌になる。 これが歌だとすれば、「サッちゃん」も現代の新しい意匠のわらべうたと言えるのではあるまいか」 ・「ドレミソラの五音しか出てきません・・・「近代的な和音に日本のわらべうたの音階がのっかっていた」 (阪田寛夫著『どれみそら』より)。 【「サッちゃん」は新鮮】 「サッちゃん」が愛される理由は何か。 ・・まど・みちおが重要な指摘をしています。 まどは、阪田との対談「童謡を語る」 (昭和五十七年「児童文芸」秋季臨時増刊号)で、「だけど ちっちゃいから」が、鍵だと教えてくれたといいます(以下、阪田寛夫著『どれみそら』より抜粋)。 「だけど ちっちゃいから」という語句が三連ともに入っていますね。 サッチャン 原文のまま が可哀想で、おかしくて、そして寂しい。 その理由が全部「だけど ちっちゃいから」なのです。 この「ちっちゃいから」というのは、この歌の主人公のサッチャンを愛情こめて見守った結果、 相棒の「ぼく」が発見した絶対的でどうすることもできない理由なのです。 この絶対的などうすることもできない理由、それが全編をおおっておって、その寂しさがあの作品の基調になっていると思います。 しかも一番終わりのしめくくりは「さびしいな サッちゃん」ですが、その寂しいのは、サッちゃんじゃなくて、 「ぼく」が寂しいのですね。 サッちゃん自身はちっちゃいから寂しさすらも知らないわけで、そのことがなおさら寂しい感じがするんですよ。 よく、子どもの歌というのは明るくないといけないみたいにいわれますが、明るさでさえそれがリアリティーを持つためには、寂しさとか、 何か反対色の裏づけがあるべきだと思います。 作者の「ぼく」は、小さな「サッちゃん」を愛情を込めて見守っています。 その温かさが、だれにでもひしひしと伝わってくる歌です。 同じ幼児の「ぼく」の視点から描いた点が新鮮です。 【もう一つのキーワード】 子どもは常に「ほんと? 」と言う言葉を口にします。 各連三行目の「ほんとはね」「ほんとだよ」「ほんとかな」は、歌う同じ子どもの心に共感を呼び起こします。 子どもの心をつかんだ優れた作品です。 【天才・大中恩の作曲】 『いぬのおまわりさん』でもその言葉に対する鋭い感覚を示した大中恩は、阪田が話し言葉で作った『サッちゃん』の字余り字足らずがあちこちにある歌詞を、一語一音を守らずに自由に扱って、同じメロディーで処理しています。 大中恩の才能が光っています。 「サッちゃん」の愛らしさが歌となり、みんなの心に響きます。 【愛唱される決め手はこれだ】 「おかしいな」と「サッちゃん」の間の休符は、この歌の最も重要な部分です。 休符がしっかり取れると、歌は大成功です。 この爽快な感覚は、歌わない人にはわかりません。 だから、今までだれもこの事について書く事がありませんでした。 休符をしっかり取り、続いて「サッちゃん」と歌うのです。 この締めくくりの「サッちゃん」が、この歌の決め手です。 決まれば気分が明るくさわやかになるので、子供も大人も繰り返し歌うのです。 「サッちゃんはネ」と始まり、「サッちゃん」で終わる。 「サッちゃん」が愛唱される秘密は、この休符に凝縮されているのです。 また、「サッちゃん」にはサッちゃんの描写とそのふるまいへの共感はありますが、教訓はありません。 これは阪田寛夫の感性によるもので、たとえば「どうしておなかがへるのかな、ケンカをするとへるのかな」など『おなかのへるうた』にも 、共通する特徴です。 詞が長く愛唱されるには時代遅れになりやすい教訓が含まれていてはなりません。 そしてもうひとつ、この歌にはサッちゃんと僕のほかにもうひとりの登場人物がいます。 それは僕のそばにいて、僕の話を聞いているひとです。 僕はその人、たぶん保護者に話しかけているのです。 このような話し相手としての《保護者の影》が想定される歌はあまりありません。 そのことが歌の情景を豊かにしています。 【】 詩人、小説家、児童文学作家 ・大正十四年(1925年 十月十八日、大阪市住吉区天王寺町 現・阿倍野区松崎町 で生まれました。 ・阪田家は、代々紺屋の屋号で、安芸国忠海(現在の広島県竹原市忠海)で海運業を営んでいた。 寛夫の祖父・阪田恒四郎が三十八歳の時、広島から大阪に出て興したのが阪田インキ製造所(後のサカタインクス)。 寛夫の父・素夫は同社の二代目社長であった。 六百坪の屋敷で三人兄弟の末弟として育つ。 ・帝塚山学院小学部、大阪府立住吉中学校(現・住吉高等学校)を経て、昭和十八年、高知高等学校文科入学。 戦局一段と悪化した翌、昭和十九年、全員が勤労動員で新居浜市の住友化学工場へ移され、一日十二時間、三交替制の工員生活を始める。 東京帝国大学 現在の東京大学 文学部美学科へ転籍、その後、国史科に転じる。 召集令状が来て入隊、在学中に応召して中国に渡る。 ・昭和二十一年、旧満洲より復員。 ・昭和二十五年、三浦朱門ら高知高等学校出の仲間たち数人で、第十五次の「新思潮」を発刊し、これが文学的拠点、出発点になった。 ・昭和二十六年、東京大学文学部国史科卒業、朝日放送大阪本社入社。 主にラジオ番組のプロデューサーとして制作に携わる。 ラジオ番組「ABC子どもの歌」の制作など、番組は新しい童謡を次々と生み出しました。 編成局ラジオ制作部長、東京支社勤務を経て、十年余り勤めた朝日放送を退社。 <> ・昭和五十年(1975年 、『土の器』 文藝春秋 で第七十二回 昭和四十九年下半期 芥川賞を受賞。 ・昭和五十一年、「サッちゃん」で第六回日本童謡賞。 ・昭和五十五年(1980年)、『トラジイちゃんの冒険』で第十八回野間児童文芸賞。 ・昭和五十九年(1984年)、『わが小林一三 清く正しく美しく』で第三十八回毎日出版文化賞。 ・昭和六十二年(1987年)、短編『海道東征』で第六十四回川端康成文学賞。 ・平成元年(1989年)、第四十五回日本芸術院賞と恩賜賞を受ける。 この他、詩集『わたしの動物園』や、まど・みちおに関するエッセイ『まどさん』 1985年・新潮社 などがある。 まどを先輩として尊敬し、共著を五冊出している。 ・平成二年 1990年 、日本芸術院会員 六十四歳。 小説を書き、童話や合唱曲の作詞をする他、放送劇の台本も書くという多才ぶりを示しました。 家族はキリスト教を信仰し、母親は、教会のオルガン奏者をしていた。 そのような事で、作曲家大中恩 従兄 の主催するコーラスグループ「コール・メグ」に加わり、音楽と文学の両面に関係しました。 島崎藤村の「椰子の實」の作曲者大中寅二 とらじ は叔父にあたる。 小学生時代、親族・周囲に宝塚ファンが多かったため自身も幼いころより晩年まで宝塚歌劇に親しむ。 平成十七年 2005年 四月、菊田一夫演劇賞を受賞した女優で宝塚歌劇団の元花組男役トップスター大浦みずきは次女にあたる。 作家として活躍する他、『NHKみんなのうた』の「だれかが口笛ふいた」などの作詞でも知られています。 この歌詞は、本当に美しく、すばらしい。 カワイ出版の『いぬのおまわりさん・大中恩選集』には、「サッちゃん」「おなかのへるうた」「おとなマーチ」「青い青い秋ですよ」など、コンビで作った歌が二十一曲掲載されています。 青い青い秋ですよ 阪田寛夫 ぶどうの実のなる ぶとうの木 りんごの実のなる りんごの木 ざんざら風も ふいとくれ 青い青い秋ですよ 秋ですよ くるみの実のなる くるみの木 かりんの実のなる かりんの木 ざんざか雨も ふっとくれ 青い青い秋ですよ 秋ですよ ・平成十七年 2005年 三月二十二日、肺炎のため死去。 享年七十九歳。 赤坂の日本キリスト教団霊南坂教会で阪田家が営む告別式に、親友の三浦朱門が葬儀委員長を務めた。 亡くなると各新聞が写真入りで報じた。 雑誌「文藝春秋」「新潮」「群像」「文學界」もそれぞれ追悼文を載せた。 私、池田小百合が主宰する童謡の会員は、掲載記事を手に三月の例会に集まったほどです。 四月例会では、もちろん「サッちゃん」「だれかが口笛ふいた」を歌いました。 <作家・庄野潤三の話> 「伸びやかで親しみやすい、子どものための詩や歌を書く、すばらしい天分を持っていた。 放送局時代には、一緒に机を並べて仕事をしたが、とても温和な方だった」 読売新聞2005年3月23日。 【「サッちゃん」その後】 ・一年後、平成十八年三月二十二日の朝日新聞 大阪版 夕刊に「サッちゃんずっと遊ぼ 童謡のモデル女性判明」の記事が掲載され話題になりました。 モデルは幼稚園の時、一年上にいた菊田幸子という人だそうです。 モデルの女の子については、すでに阪田寛夫と合田道人とのFAXのやりとりが合田道人著『童謡の秘密』 祥伝社 平成十五年六月発行に書いてあります。 また、阪田自身が、阪田寛夫著『どれみそら』で次のように書いています。 「幼稚園の頃一つ上の組に、さっちゃんという女の子がいまして・・・」と。 しかし、「サッちゃん」の歌を歌う時、モデルの女の子が誰かなど必要のない事です。 ・平成十八年十月、阪田寛夫が卒業した幼稚園に「サッちゃん」の詩碑ができました。 【うたのおばさん「松田トシ」】 2011年12月7日、「うたのおばさん」として知られた歌手の松田トシさんが、老衰のため東京都世田谷区の高齢者施設で亡くなった。 96歳。 横浜市出身。 東京音楽学校(現・東京芸大)の声楽科を卒業。 歌手としてデビューし、1947年に日本語訳で歌ったインドネシアの名曲「ブンガワン・ソロ」がヒットした。 1949年から始まり、15年間続いたNHKの子供向けラジオ番組「うたのおばさん」に出演し、「サッちゃん」など数々の童謡を紹介した。 1954年にはNHK紅白歌合戦にも出場しました。 日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生! 」の審査員を務めた。 音楽教室を主宰し、歌手の岩崎宏美さん良美さん姉妹、新沼謙治さんらを指導した。 後年は松田敏江の芸名で活動した。 1987年、勲四等瑞宝章受章。 【知られざるエピソードを大中恩が語る】 大中恩は、大正十三年 1924年 7月24日、現在の東京都港区赤坂一丁目で生まれました。 三十一年間ここで暮しました。 その後麻布十番に四十五年住み、それから現在の赤坂八丁目に住んでいる。 でも母親 文子 は身体が弱くて二人目は無理だと医者にとめられちゃったそうです。 キリスト教の熱心な信者だった。 教会のそばに家があったので、教会の人が帰りに寄ったり、作曲家志望の若い人たちが父 「椰子の実」を作曲した大中寅二 の所に来たりして、だから家はいつもにぎやかで、母はとても忙しかった。 なんか悪さをすると、キリスト教の信者だから、「神様にお詫びしてお祈りしなさい」なんて言うんですよ。 「神様の心を伝える事と、それが一番善 よ いことだから、そういう良い子になりなさい」って、いつも言ってました。 教会の聖歌隊で歌ってましたし、ずっと20年間そういう環境の中で過ごしてきたから、僕もなかなかそういうものをすぐには捨てられなかったですね、染み込んでいたから。 今では「教会で育ったんですね」なんて言われると、「ああ、そうです」なんて、すましていえますけれどもね。 昔は、そう言われるのが一番嫌でしたね。 でも、やっぱりお袋は優しかった。 当時の童謡のレコードを、聴きたいなと思っていると内緒でこっそり買って来てくれたりして、後から親父に見つかって叱られたんですけどね。 母親は、恩が二十七歳の時、五十五歳で亡くなった。 父親は五十八歳で、一年もしないうちに二十歳をやっと過ぎた人と再婚した。 <父親・寅二 とらじ について> 大中恩の父親は 大中寅二。 赤坂霊南坂教会の聖歌隊指揮者兼オルガニスト 1920年〜1979年 ・作曲家。 「椰子の実」 島崎藤村・作詩 の作曲者。 家に来る人たちを楽しませるために一生懸命だった。 親子で落語の本を読んだ。 父親と一緒にピエロになったり、即席漫才をしたりした。 親父 寅二 は、音楽家になりたかったが、両親や親戚に反対された。 親の意見にしたがって普通の大学に進学、同志社大学経済学部を卒業。 その後、家を飛び出し 山田耕筰に弟子入りして作曲家になった。 だから親父は、山田耕筰だけを音楽家だと考えていたんです。 子どもの歌でも「山田耕筰と自分の歌以外の童謡は音楽じゃあない」って、僕には歌わせなかったですから、頑固な人だったですね。 童謡のレコードなんかも、見つかるとバーンと割られちゃったりしてね。 親父は中学生の時にも、通っていた教会でオルガン奏者になったらしいですし、その後は、霊南坂教会でずっと50年以上もオルガン奏者を続けていました。 親父は足踏み式のリードオルガンが本当に好きで、「パイプオルガンとは違って自分で音を作れるから好きだ」って言ってました。 大中寅二は、リードオルガンの曲を数百曲も作曲している。 東洋英和女学院で40年教えた。 親父は 1982年 昭和57年 86歳で亡くなりました。 親父が亡くなった時にNHKが、 「大中寅二氏が亡くなりました」と「椰子の実」をバックで流してくださったんですけど、もし僕が死んだ時に 「犬のおまわりさん」を流されてもやっぱり成仏できないんじゃあないかって思うんです。 そういう意味では僕も「椰子の実」のような歌を作りたいな、なんて思いますね。 <阪田寛夫について> 阪田寛夫 さかたひろお は、大中恩の従弟。 大中寅二の姉の次男。 「サッちゃん」「おなかのへるうた」の作詞者。 49歳で『土の器』で芥川賞を受賞。 50歳で『サッちゃん』 国土社 で日本童謡賞を受賞。 65歳で日本芸術院会員になった。 阪田の広い家は大阪にあった。 大実業家の息子だった。 寛夫も両親がクリスチャンだった。 教会を建てて、夫婦揃って自宅を教会の聖歌隊の練習場に提供し、阪田の母親がその伴奏をしたりしていた。 それから、阪田の家の教会には、幼稚園も作った。 その幼稚園の園長を阪田の母親がやっていた。 結局、阪田寛夫が亡くなるまで「メグちゃん」「寛夫ちゃん」と呼び合っていました。 <合唱団を作る> ・芸大を卒業してすぐ混声合唱団「PFコール」 1946年〜1955年 を作った。 「PF」とは、「ピアノ・フォルテを綺麗に歌おうよ」という意味。 九年やって辞めた。 ・「どうしても、また合唱団をやってくれ」「じゃあもう一回やるけれど、今度は僕自身の作品しかやらない、という合唱団でもいいか? 」「それでもやってください」と言うので作ったのが 「コールMeg」 1957年〜1987年。 「PFコール」のOBが集まって、 週三回練習。 午後六時から九時まで練習。 大中恩の作品だけを歌う合唱団。 どんどん作品を書いた。 30年やって終わりにした。 練習は休まず、一、二分の遅刻にも厳しく、「一、二分なら、ちょっとあそこから走ってくればいいじゃあないか」と言ったりして、僕は会社勤めをしたことがないので、 常識が無くてね。 僕は、三十分ぐらい前には行って、椅子を並べていましたよ。 もう、とにかく 「自分の葬式以外は休むなよ」と言ってずっと、やっていたんですよ。 三十周年記念演奏会をやった後すぐに、「今日で辞める」と言ったのです。 <大中恩の合唱へのこだわり> 「コーラスだってただ舞台で歌えばいいってもんじゃあなくて、この音楽と詩を伝えなきゃいけないんだ」。 「人に伝えるっていうことはどういうことか、たとえお客さんが七〜八人だとしても一生懸命伝えようとする、そういう意識をしっかり持って行動しなきゃいけない」。 ・それから十年経って、「月に一度でいい」「まあ月に一度なら、いいか」という気持ちで「メグめぐコール」 1997年〜 を結成。 もう八十歳くらいの人が数人いますよ。 月に一度、南は九州から北は仙台まで団員の皆さんが集まってくれる。 途中でちょっと休むんですが、四時間みっちりやっている。 ・「コールグレース」は、大中恩の女声合唱曲だけを歌う合唱団。 以上は、『親子で楽しむ童謡集 第3集』 にっけん教育出版社 2008年9月20日発行より、みなさんに紹介したい事柄を抜粋しました 2012年2月9日。 <> <もう一つの曲「いちばんたかいは」> 昭和三十四年 1959年 十月、大中恩が三十五歳の時の作品。 その1曲が「サッちゃん」で、あとの1曲は「いちばんたかいは」という曲。 そちらは、あまり、はやらなかった。 『親子で楽しむ童謡集 第3集』 にっけん教育出版社 による。 歌詞のタイトルは「おなかのへるうた」、二番は「食べても」「背なか」と漢字になっている。 歌詞と楽譜、大中恩のコメントが掲載されている。 <指導する人に> 「お行儀がわるい」と云ってしまえばそれまでですが、おなかがすいてたまらなくて、「たすけてー」とどなりたくなるようなことが誰にもあったはずです。 「どうしておなかがへるのかな」はじめのうちはちょっとばかり恥かしくて、自分でおなかをさすりながら考えてもみましたが、もうがまんできません。 「かあちゃん、おなかとせなかがくっつくぞ」と、まるでおこったように、訴えます。 ひとりごとのように、しゃべらせて下さい。 大中恩 <について> ・昭和三十五年(1960年)十月一日、<チャイルド・コーナー>(発行所 カワイ楽譜)創刊。 ・表紙には「母と教師のためのうたとお話 チャイルドコーナー Child Corner 10創刊号」と書いてあります。 ・表紙絵は岩崎ちひろ。 中央に男の子と女の子が肩を組んでいて、空にはトンボが七匹描かれています。 童謡 (作詞者 作曲者) まきばのうしに(葛葉国子 大中寅二) カンガルーの坊や(サトウハチロー 平井康三郎) まねっこ坊や(若谷和子 石桁真礼生) ちょっとちょっとたんま(川上和子 山田夏精) おなかのへるうた(阪田寛夫 大中恩) カンガルーがピョン(若谷和子 畑中良輔) お山の上から(サトウハチロー 清水脩) アイスクリームの歌(さとうよしみ 高木東六) らくだ(都築益世 湯山昭) いたちょこぷっちん(関根栄一 中田喜直) ・国立国会図書館所蔵。 館内ディスプレイにより閲覧可能です。 創刊号には11月号予告が掲載されている。 『チャイルドコーナー』について、府中市の方から情報をいただきました。 ありがとうございました 2013年9月28日。 昭和三十五年十一月号、十二月号、昭和三十六年一月号、二月号の記録があります。 十一月号は昭和三十五年十一月二十四日発行、十二月号は昭和三十五年十二月一日発行、一月号は昭和三十六年一月一日発行、二月号は昭和三十六年二月一日発行(鳥取市わらべ館による平成26年度収蔵資料にあり)。 【収録】 童謡曲集『すてきな66のうた』 カワイ楽譜 昭和四十年発行に収録。 子供の詩を書く6人、おうちやすゆき・こわせたまみ・阪田寛夫・荘司武・関根榮一・鶴見正夫、が新しい童謡の創作運動をめざして「6の会」を結成したが、(1974年解散)この童謡曲集はそうした中で作られた作品と最近の作品も含めた66曲を収録。 「おなかのへるうた」は21番目に掲載されています。 【掲載】 日本放送協会編『NHKこどものうた楽譜集 第5集』 日本放送出版協会 昭和四十三年発行に掲載。 【歌詞と曲について】 「お腹が減って減ってたまらない」という食欲旺盛な子どもの歌です。 子どもの素朴な訴えを率直に表現したところに新しさがあります。 だから愉快です。 繰り返される「かあちゃん」も、子どもの生活の中のバイタリティが溢れています。 作品全体がおおらかなので、「かあちゃん」という言葉が下品という批判は、すぐに払拭されました。 過去の童謡に「かかさん」「おかあさま」「かあさん」は、ありましたが、「かあちゃん」は、ありませんでした。 大中恩によると次のようでした。 かえって粋 いき だな、なんて思ったりしますが』 『親子で楽しむ童謡集 第3集』による。 それがそのまま詩になったわけです。 『NHKみんなのうた』で放送されると、日常会話に「かあちゃん」「とうちゃん」を使っている子どもたちには、すんなりと受け入れられ、人気の曲になりました。 当時は、「かあちゃん」「とうちゃん」と呼ぶのが一般的でした。 歌詞の「どうして」は、質問期の幼児にピッタリです。 「おなかと せなかが くっつくぞ」に子どもたちは「そんなことあるのかな? 」と、びっくりします。 「くっつくぞ」のメロディーが面白い。 【二人で作った歌】 作詞の阪田寛夫 さかたひろお と、作曲の大中恩は従兄。 大中恩は「椰子の実」を作曲した大中寅二の一人息子で、阪田寛夫は大中寅二の姉の次男。 「サッちゃん」「おなかのへるうた」の他にも二人で作った歌は沢山あります。 以下は『現代こどもの歌秀作選 いぬのおまわりさん大中恩選集』 カワイ出版 に掲載されている歌です。 「おなかのへるうた」「おとなマーチ」「いちまんえんさつ」「海」「しょっぱいうみ」「かぜのなかのおかあさん」「つきはすき」「パパのワルツ」「すっからかんのかん」「ぽんこつマーチ」「つきよのおばけ」「青い青い秋ですよ」「ちいさいはなびら」「お正月どん」「つきとさるのこ」「さむいうた」「パンダのごはん」「はのは」「よーいやさ」「せっせっせ」。 【子どもの好きな歌】 「おなかのへるうた」子どもが大好きな歌です。 文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』 東京書籍 には選ばれていません。 子どもの歌の定番として定着しているのに残念です。 「まっかな なみだ」「きいろい なみだ」「すっぱい なみだ」「あまい なみだ」「ぽろん ぽろん」「ちゅるん ちゅるん」など。 ある小学校の先生方の研究会で、「こんな言葉は今まで詩に使われたことがないから違和感を感じてダメだ」と非難された。 すると、まどさんは「今まで使われた言葉の他にどんな言葉があるか、いつも考えている。 誰も考えた事のないものを表現したい」と言ったそうです 『親子で楽しむ童謡集』第3集<「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」の作曲者 大中恩 特集> にっけん教育出版社 による。 【楽しいリズム】 色彩感覚の豊かな、まど・みちおの詩に、大中恩が楽しいリズムの曲を付け、見事なファンタジーの世界ができあがりました。 【放送】 ・昭和三十七年 1962年 、NHKラジオ『幼児の時間』のために作られ歌われました 日本児童文学別冊『少年詩・童謡への招待』 偕成社 掲載の「ドロップスの うた」の詩の後に 大中恩作曲「NHK幼児の時間」1962 と書いてある。 まど・みちお五十歳の時の作品。 ・『NHKみんなのうた』昭和三十八年 1963年 十・十一月の水曜日の歌として弘田三枝子の歌で放送されました。 これにより、大ヒット曲になりました。 子どもたちは大喜びして一緒に歌いました。 「うた」は平仮名。 ・『いぬのおまわりさん』大中恩選集 カワイ出版 に掲載されている詩のタイトルも「 ドロップスのうた」です。 ・NHKみんなのうたで放送された時のタイトルは「 ドロップスの歌」です。 「ドロップスの うた」は、文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』 東京書籍 には掲載されていません。 私、池田小百合は「ドロップスの うた」が好きで、主宰する童謡の会で使っている『読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞』に掲載しています。 『NHKみんなのうた』昭和三十七年 1962年 六-七月の歌として放送された「アイスクリームのうた」 さとうよしみ作詞、服部公一作曲 は大ヒットしました。 昭和六十年七月十日発行の季刊『どうよう』日本童謡協会編 チャイルド本社 第二号の「今、童謡は何がうたわれ何が求められているか 幼稚園・保育園の現状」のアンケートによると、「アイスクリームのうた」を、親や保育園・幼稚園の先生が好きで、子どもに歌わせたい歌にあげていました。 しかし、実際、園でどれくらい歌われたか疑問です。 今、園でよく歌われている歌のアンケートには入っていないからです。 テレビで放送されなくなると、次第に忘れられ、平成二十五年現在では誰も「アイスクリームのうた」を歌いません。 歌詞が長くて子どもたちは覚えきれない、伴奏が難しくて先生が簡単に弾けない 「チューリップ」「むすんでひらいて」「ぞうさん」は簡単に弾けますが などの理由もありそうです。 「ドロップスの うた」は、どうでしょうか。 同じ運命をたどらないようにと願っています。 ちょうど、戦後の日本の童謡が、詩・曲ともに戦前の童謡から大きくすがたを変え、より自由に、すぐれた歌を生みだしはじめておよそ十年ほどを経たころでした。 <解散> リサイタルの開催、曲集やレコードの発行、子どもミュージカルの作成等を通して、十一年間運動をつづけ、 昭和四十九年(1974年)五月五日に解散した。 6人は、たがいに個性を尊重しあいながら、 詩のコトバが「音」 歌 としてうたわれることを実践の第一義として、《6の会》を出発させました 童謡曲集『すてきな66のうた』66の会編 カワイ出版・1992年8月1日第1刷発行 による。 この童謡曲集では関根榮一と書いてある。 6人は、歌われる童謡をめざし、音楽性を重んじた詩を書く事に心を傾けようとした。 【荘司武《6の会》回想】 <由来> 昭和三十六年から、同三十八年にかけて『骨の会』 ほねのかい という名前の会に入っていた。 童画家と童謡詩人が合流して作った会で、『まんもす』という機関誌を出していた。 絵あり、歌あり、童話あり、さらに 当時としては珍しく楽譜まで載せていた。 しかし、あまり派手にやりすぎたせいか三号で解散ということになった。 そのとき誰かが「童謡を書く若い詩人だけで会をつくろう」と言った。 その結果、六人だけあつまった。 「若い詩人」といったが、私はそのときすでに三十八歳。 あつまったのは六人なのだから『六人の会』とでもなりそうなものなのになぜか『6の会』 ろくのかい となった。 これは『ほねのかい』という五音のリズムを、無意識に受け継いだのかもしれない。 組曲「トンペイの日曜日」に使う「ゴーカートのうた」を作るため、はるばる東京・江戸川から豊島園まで出かけた。 しかし、いくらゴーカートが走るのを見ていても詩はできなかった。 あきらめて電車に乗って帰る途中、「ゴーゴー」という電車の音で、「ゴ ゴ ゴーカト ぼくがうんてんしたら・・・」という頭の部分がでてきた。 最初に、おたがいに姿勢、資質を尊重し合うということ、たがいの個性を尊重し合うということ、それから、詩が歌として歌われることを実践の第一義としようってなことだったね。 いわゆる童心に寄りかからないで、直接に詩を作るっていうことを念願としようともしたね。 もう一つ、広い視野を持ちたいというようなことでやったんで、十一年の間に、 作品発表のリサイタルを、イイノホールで六回やった。 また、 二枚のLPレコードを出したよね。 「すてきな66のうた」って曲集をだしたのは初めの頃だった。 子どものミュージカルを共同で創作して発表したし、『実用こどもの歌』って本を編纂した。 その他雑誌の編集者、放送のプロデューサー、ディレクター、それから児童文学の評論家、先輩の詩人とか、そういう人を時々呼んで研究会を開いたね。 話しているのは鶴見。 この本では関根栄一と書いてある。 詩集の刊行を否定し、作曲家と手を組んで、 三冊の楽譜集を出版した。 『すてきな66のうた』、『実用こどもの歌1』、『実用こどもの歌2』。 第一回リサイタル1965年 昭和40 年1月、第二回1966年4月、・・・第六回1971年12月。 第二回リサイタルでは、磯部俶作品は、おうちやすゆき作詞「山のぼり体操」と、阪田寛夫作詞「チャンバラ時代」が演奏された。 絶版)は、 6の会の第一作品集。 新作童謡66曲を収録。 註 大阪府立中央図書館・国際児童文学館所蔵。 2014年4月24日複写郵送。 鶴見正夫作詞、磯部俶作曲<おほしさん>は「ひとりでうたいましょう」のグループに入っている。 <おほしさん>の初出は、昭和39年『キンダーブック』7月号(19集4編)5-6歳用(フレーベル館)。 こわせ・たまみ作品 <やぎのここやぎ>など九作品。 阪田寛夫作品 <サッちゃん>など十五作品。 荘司武作品 <トマト>など八作品。 関根栄一作品 <こんぺいとう>など十五作品。 この曲集では関根栄一と書いてある。 鶴見正夫作品 <あめふりくまのこ>など十五作品。 作曲者は湯山昭作曲 十六曲 、中田喜直作曲 七曲 、大中恩作曲 七曲 、萩原英彦作曲 七曲 、佐藤眞作曲 六曲 、服部公一作曲 五曲 、富田勲作曲 三曲 、有島重武作曲 二曲 、小林秀雄作曲 二曲 、木原靖作曲 二曲 、團伊玖磨作曲、芥川也寸志作曲、越部信義作曲、ほそやみそぎ作曲、磯部俶作曲、平岡照章作曲、山田耕筰作曲、岩河三郎作曲、宇野誠一郎作曲 各一曲 がある。 この曲集では富田勲と書いてある。 昭和50年7月5日第3刷発行。 絶版 を出版。 註 埼玉県立久喜図書館所蔵。 カラーコピー可。 2014年4月30日複写郵送。 文部省初等中等教育課教科調査官 真篠将の推薦の言葉がある。 荘司武は6の会のメンバー。 「年中行事のうた」、 七夕 には <おほしさま>都築益世作詞、團伊玖磨作曲が掲載されている。 この歌は、今も保育園や幼稚園で歌われている人気の歌です。 <おほしさん>鶴見正夫作詞、磯部俶作曲は掲載されていない。 絶版 を出版。 註 埼玉県立久喜図書館所蔵。 2014年4月30日複写郵送。 6人各11作品。 磯部俶の曲はない。 荘司武作詞「ゴーカートのうた」は掲載されていない。 もくじ は、Aちいさい子のうた、Bちょっと大きい子のうた、Cみんなのうた、に分けられている。 各22曲。 A ちいさい子のうた 「サッちゃん」「おつかいありさん」「あめふりくまのこ」「トマト」「こおろぎ」「こんぺいとう」「おなかのへるうた」など。 B ちょっと大きい子のうた 「あかいかさ」「あさいちばんはやいのは」「ねこふんじゃった」など。 C みんなのうた 「マーチング・マーチ」「かぜのなかのおかあさん」「うたえバンバン」「夕日が背中を押してくる」「おとなマーチ」など。 早稲田大学文学部卒業。 同人誌『ピアノとペン』『まんもす』に童謡を発表し、NHKの幼児向け番組の構成・作詩を担当した。 作曲家としても多くの作品を残している。 童謡集『こら!しんぞう』 小峰書店 一九九六年 で第二七回日本童謡賞を受賞。 早稲田大学商学部卒業。 早稲田大学童謡研究会に入会し、童謡を書き始めた。 コピーライターを経て文筆生活に入り、一九六〇年に同人誌『ピアノとペン』を創刊した。 さらに『まんもす』『むぎばたけ』などの同人誌に加わるとともに、NHKラジオ・テレビの幼児番組の構成にも関わりながら童謡を書き続けた。 愛とやさしさのある歌をめざして、特に小さな生き物の命のまたたきを歌った作品にすぐれたものが多かった。 代表的な作品として「やぎのこ こやぎ」「かいがら からから」などがある。 童謡集『だけどぽかぽか』 チャイルド本社 一九六四年 、子どもの歌曲集『ちいさなこもりうた』 チャイルド本社 一九七四年 、詩の絵本『しずかにしてね』 白泉社 一九八四年 のほか、合唱組曲集や絵本などの著作もある。 一九八九年、合唱組曲「いるま野の花と子どもと」により第一九回日本童謡賞を受賞した。 日本童謡協会の事務局長や機関誌編集長を務め、一九九四年第六回サトウハチロー賞を受けた。 三越 みつこし 左千夫主宰の『きつつき』同人を経て6の会に入会した。 繊細な感性で対象をとらえた、やさしさのある詩が多い。 代表作に「トマト」がある。 詩集『トマトとガラス』 かど創房 一九八四年 で第一五回日本童謡賞を受賞した。 代表作の「トマト」は、今も幼稚園や保育園で人気の曲です。 一回で覚えられ、歌い継がれている。 短いのが好い。 初出『新しいこどものうた』 音楽之友社 昭和三十一年 1956年 十二月発行掲載。 NHKラジオの「うたのおばさん」で放送された「おつかいありさん」をはじめとして童謡の創作に意欲的に取り組み、6の会に加わって作品に磨きがかかった。 童謡集『にじとあっちゃん』 小峰書店 一九八六年 で第一七回日本童謡賞を受賞。 ほかに童謡集『おつかいありさん』 国土社 一九七五年 、『葡萄の歌』 小峰書店 一九八九年 、『はしるふじさん』 小峰書店 一九九八年、第二九回日本童謡賞受賞 がある。 ここでは関根栄一と書いてある。 早稲田大学在学中に早大童謡研究会に入会して、童謡を書きはじめた。 学徒出陣で海軍航空隊に入隊、大戦後、大学に復学して政経学部を卒業した。 一九五一年、童謡コンクールで文部大臣奨励賞を受け、以後雑誌や放送に童謡を発表した。 「あめふりくまのこ」に代表されるバラード 物語詩 を数多く書き、子どもたちを楽しい想像の世界へと導いた。 一九九一年、第三回サトウハチロー賞を受賞。 そのほか、童話や絵本などの著作も多い。 「あかいかさ」の初出は『キンダーブック』 フレーベル館 昭和四十七年 1972年 六月発行掲載。 あかいかさ 鶴見正夫 作詞 中田喜直 作曲 あかいかさ さして まえをいく あのこ かさに かくれて あししか みえないよ あかいかさ いいな ふりむかないかな あかいかさ さして まえをいく あのこ かさを まわして ひとりで うれしそう あかいかさ いいな よびかけようかな あかいかさ さして まえをいく あのこ あめが やんだら ならんで いきたいな あかいかさ いいな おいついちゃおかな 私、池田小百合は、主宰する童謡の会で歌おうと思い楽譜をさがしましたがありませんでした。 日本童謡協会編『日本の童謡二〇〇選』 音楽之友社 には掲載されていません。 中田喜直先生に問い合わせると『最新こどものうた名曲選』 音楽之友社 を紹介してくださいました。 「あかいかさ」は一曲目に掲載されている。 その後、「今度、あなたが気に入ったという「あかいかさ」を、『日本童謡唱歌大系』 東京書籍 に掲載しました。 よろしく・・・」という手紙もいただきました。 楽譜を手にしたのに、残念ですが「あかいかさ」は私が主宰する童謡の会では歌っていません。 ・磯部俶作曲は「何を折りましょう」 渡部千津子作詞 、「はるかな友に」 磯部俶作詞 、「りすの帽子屋さん」 大平よし子作詞 の三曲が掲載されている。 「何を祈りましょう」の作詞者は目次や楽譜では渡辺千津子とある。 歌詞には渡部千津子とある。 渡辺は間違いで、渡部が正しい。 関根栄一は子どもたちを躍動させるリズミカルな詩で、 こわせ・たまみは小さく、かわいい世界を描くことで、それぞれ「歌」としての童謡を書き続けた。 また 鶴見正夫は語りかける歌としてのバラードを数多く発表した。 一方、子どもの本音を歌う童謡は、 阪田寛夫によってみごとに実現されているが、ほかに、 おうちやすゆきの作品にもそうした傾向が見受けられる。 したがって6の会の主張は、会員すべての足並みがそろったかたちではなかったが、的確に具体化されていたのである。 しかもこの六人はその後それぞれの詩的世界を拡充して、童謡詩人として活躍したのであり、彼らにとって6の会は貴重なスプリングボードだったと言えよう。 五人の詩の評価はあるが、 荘司武の詩については書かれていない。 に戻る (+を@に変えて) に戻る.

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6月に生まれた音楽関係者/誕生日データベース

渡辺リサ とらじ 関係

450名 H25. 7現在 名 前 読 み 方 良 寛 様 と の 関 係 あ行 相田みつを あいだみつを 詩人。 詩の代表作「憂い」で「君看雙眼色 不語似無憂」を詠み込む。 良寛様の好んだ詩文である。 会津八一 あいづやいち 美術史家。 早稲田大学教授。 正岡子規に良寛様の歌や書を紹介する。 青木八郎右衛門 あおきはちろうえもん 旧分水町横田の庄屋。 良寛様が「熊の森」で泥棒と間違われて浮き埋めにされそうになったのを助けてくれる。 青柳清作 あおやぎせいさく 良寛様が仮住まいしていた郷本空庵が旧寺泊町の多次右衛門の物置小屋であることを見つけ出す。 安達一久 あだちかずひさ 旧寺泊町山田の人。 良寛様に衣桁 いこう を貸す。 阿部千勢 あべちせ 定珍の母。 良寛様より六歳年少。 阿部定緝 あべていしゅう 旧分水町渡部の庄屋。 阿部家第九代。 父定珍と四国巡礼について行き、父の死を看取る。 乙子神社の詩碑を小川霞山と共に建立する。 阿部家第七代。 外護者。 よく歌を詠み交わす。 良寛様の生活を支え、最も手紙をもらっている 四十八通。 四国巡礼の途中で亡くなる。 ワカとの間に16人の子をもうける。 良寛様が亡くなった時は、江戸にいた。 阿部とい あべとい 阿部定珍の15番目の子。 良寛様が阿部家を訪れた時に目隠し鬼やおはじきをして遊ぶ。 阿部ます あべます 定珍の娘。 久保田氏に嫁ぐが、二十歳で病死する。 阿部ワカ あべわか 定珍の妻。 良寛様から手紙をもらう。 店の看板を五枚、懇願し書いてもらう。 新潟に行くとよく泊まる。 良寛禅師奇話第四十四話に記載あり。 新井満 あらいまん 小説家。 新潟市出身。 「自由訳 良寛」「自由訳 良寛と貞心尼の恋歌」を著す。 新木小自在 あらきしょうじざい 良寛様のいとこ。 周富ともいう。 新木家十二代。 白雉の孫。 良寛様だけでなく、亀田鵬齋や虎斑和尚などとも交わる。 新木与五右衛門勝富 あらきよごえもんかつとみ 旧与板町の庄屋。 第十代。 橘屋以南の兄。 第九代。 白雉ともいう。 以南の父親。 良寛様の祖父。 与五右衛門の名は、代々継承される。 俳諧を好む。 新木与五右衛門富春 あらきよごえもんとみはる 旧与板町の庄屋。 第八代。 詳細不明。 安藤英男 あんどうひでお 文学博士。 時代小説家。 「逸話でつづる生涯 良寛」を著す。 飯塚久利 いいづかひさとし 上野 こうづけ の歌人。 解良家で、「橘物語」を書く。 良寛の逸話五遍を載せる。 井伊直経 いいなおつね 与板藩第八代藩主。 三条大地震の無縁供養を行い、良寛様はそれに感動し長詩を詠む。 五十嵐華亭 いからしかてい 三条の人。 良寛様の肖像画を描く。 五十嵐多仲 いがらしたちゅう 寺泊町の大庄屋、文化10年江戸の武蔵野で亡くなる。 良寛様からの追悼歌一首あり。 五十嵐亮伯 いからしりょうはく 良寛様の母親ひでの佐渡の実の祖父。 俗名は「おきし」。 良寛様との唱和の詩がある。 良寛様からの手紙が五通残る。 池田兵左衛門 いけだひょうざえもん 長岡藩重役。 牧野忠精の訪問前に、良寛様の長岡移住についての交渉を行うが、不調に終わる。 池田光知 いけだみつとも 元長岡工業高等専門学校教授。 長岡良寛の会会長。 「良寛のきらめき」を著す。 良寛様に関する家系図が詳しく示されている。 石田吉貞 いしだよしさだ 国文学者。 大学教授。 「良寛 その全貌と原像」を著す。 石橋門阿 いしばしもんあ 国上寺の僧。 現在の五合庵を大正三年に再建する。 石原半助 いしはらはんすけ 旧寺泊の廻船問屋。 姪「しか」の夫。 良寛様から詩歌をもらう。 屋号は米屋。 伊丹末雄 いたみすえお 元新潟大学教育学部附属中学校教師。 市島長民 いちじまちょうみん 旧豊栄市横井の人。 通称彦右衛門。 越後最大の地主の天王の市島家の分家。 良寛様は立ち寄り、詩をつくる。 伊藤喜一郎 いとうきいちろう 「呆庵 ほうあん 」ともいう。 三条の人。 良寛遺墨収集家。 五十嵐川の堤防近くに「良寛堂」を建てる。 伊藤五兵衛 いとうごへい 新潟の上五十嵐の庄屋。 母は良寛の妹の「むら」。 寺泊の外山家から養子に入る。 新潟に行くとよく訪れる。 伊藤左千夫 いとうさちお アララギ派の歌人。 「良寛禅師はその人すなわち総て詩なり。 その心すなわち詩なり。 その詞、すなわち詩なり。 されば目に見たる物におのずから動ける心を、ロに出でくるままの詞にて、直ちに歌をなせり。 詩の心動いて、詩のしらべ影の物に従ふ如く出で来れるもの、即ち禅師の歌なり」と評する。 磯部欣三 いそべきんぞう 本名・本間寅雄。 佐渡史研究家。 前佐渡博物館長。 良寛様の母の名は「おのぶ」との説を提唱。 板橋興宗 いたばしきょうしゅう 曹洞宗大本山・総持寺貫首、曹洞宗管長となる。 現在は御誕生寺住職。 「良寛さんと道元禅師」を出版。 市川関右衛門 いちかわせきえもん 三条市の八幡神社の最古の良寛碑の建立者の一人。 大火で碑は壊れる。 井上円了 いのうええんりょう 哲学者。 教育者。 妖怪を研究し『妖怪学講義』を書く。 「良寛是れ仏 誤って人間に落つ 人間識らず 寒山を以て比す」の詩を書く。 三条の庄屋。 その功績が認められて次に新発田の庄屋となる。 良寛様を尊敬し、五合庵を何度か訪れる。 良寛禅師奇話第二十一話に名前が記載されている。 伊能忠敬 いのうただたか 享和四十五年、全国測量のために、橘家に宿を借りる。 今町屋のばあさん いままちやのばあさん 名前不詳。 三条市本町五の町に家があった。 跡地に看板あり。 三条に遊びに来た時などに、浴衣や褌などを洗ってもらう。 井本農一 いもとのういち 国文学者。 大学教授を歴任。 「良寛上・下巻」を著す。 芭蕉研究の権威。 いよ いよ 第十一代木村元右衛門 利蔵 の妻。 実家は大矢家。 大矢家の良寛様の遺墨は、良寛の里美術館に寄託される。 入矢義高 いりやよしたか 名古屋大学・京都大学名誉教授。 中国文学専門。 「良寛詩集」を著す。 巌田洲尾 いわたしゅうび 新潟の儒学者。 二人合作の幅があり、洲尾22歳、良寛様五十六歳の作。 上杉篤興 うえすぎあつおき 燕市小関の名主。 六郎ともいう。 国文学者。 上杉家の一族。 良寛様や由之と親しく、「良寛歌集 木端集 」を書く。 上田三四二 うえだみよじ 歌人。 文芸評論家。 小説家。 「良寛の歌ごころ」を書く。 植村脩 うえむらおさむ 彫刻家。 旧白根市の円通庵に「有願さんと良寛さん蔵」の像を制作する。 書の達人。 白根市茨曽根の円通庵に隠居する。 良寛様より20歳年上。 内山知也 うちやまちなり 元大学教授。 文学博士。 「良寛詩 草堂集貫華」「定本 良寛全集」などを著す。 うめ うめ 山田杜皐の末娘。 良寛様から手習いを教えてもらう。 宇又 うゆう 良寛様からの食べ物と薬の礼状が一通残る。 詳細不明。 円海和尚 えんかいおしょう 燕市旧法華堂村にある願成寺の住職。 良寛様は願成寺のことを漢詩に詠む。 屋号は三浦屋。 三条に行くとよく立ち寄った。 「もの言はぬ花にもの言ふ墓の前」良寛様の墓前で詠んだ句。 「月の兎」の長詩を書いてもらう。 遠藤元助 えんどうもとすけ 遠藤幸助の子。 良寛様の敬慕者。 王羲之 おうぎし 中国東晋の政治家・書聖。 良寛様は初期、王羲之の書を学ぶ。 扇屋重兵衛 おうぎやじゅうべい 旧和島村島崎の表具師。 「書いてくれるという約束を仏にお仕えする身なら守ってほしい」といって、七言絶句を書いてもらう。 大越門平 おおごしもんぺい 寺泊町の酒造家。 立ち寄ってよく酒をいただく。 太田錦城 おおたきんじょう 加賀藩の儒学者。 亀田鵬齋と同じ折衷学派。 五合庵を訪ねて対話する。 大里伝兵衛 おおさとでんべい 上州屋 醤油屋 の主人。 良寛、亀田鵬齋、巻菱湖、富川大塊の四大書家の看板字を書いてもらう。 大島花束 おおしまかそく 教師。 良寛研究者。 多数の本を書く。 「良寛全集」は「大島本」として有名。 由之や文台などとも交流がある。 「良寛伝」を書く。 晩年盲人となり、曲の盲人といわれる。 太田芝山 おおたしざん 加賀大聖寺の人。 折衷学の儒学者。 越後に来て、五合庵で良寛様と一夜を語り合う。 鈴木文台は芝山の講義を手伝う。 大宮季貞 おおみやきてい キリスト教徒。 明治四十一年「沙門良寛和歌集」、大正七年「沙門良寛詩集」を著す。 幼名、彦太郎。 国学者。 著作「越後の紀行」に良寛様のことが書かれている。 北越四大儒学者の一人。 良寛様は十三才から十八才まで子陽の狭川塾で学ぶ。 大森求古 おおもりきゅうこ 子陽の子。 晩年は不遇をきわめた。 良寛様は「求古を悲しむ歌」を残している。 大谷地五右衛門 おおやちごえもん 旧和島村島崎の庄屋。 木村家の隣。 良寛様の葬式の時、大谷地家が接待所となる。 大矢六郎左衛門 おおやろくろうざえもん 旧島崎村北中の庄屋。 二代目。 働き者であり、良寛様から詩をもらう。 大矢良左衛門 おおやりょうざえもん 旧島崎村北中の庄屋。 木村利蔵の妻の実家。 利蔵の子周蔵が勘当されて、大矢家に転がりこむ。 岡鹿門 おかかもん 東京図書館長。 明治二十一年に新潟に来て、「北越遊乗」を著す。 その中で良寛のことを書く。 おかの おかの 木村利蔵の娘。 良寛様は「おかのどの戒語」を残している。 岡本勝美 おかもとかつみ 良寛研究者。 「良寛争香」を著す。 昭和五十一年、大阪府の高代寺に歌碑を建立する。 良寛様を慕い、乙子神社の境内に庵をつくり住む。 乙子神社の詩碑を阿部定緝と共に建立する。 お吉 おきち 良寛様の母のぶの佐渡の母。 奥村五兵衛 おくむらごへい 貞心尼 マス の父。 長岡藩士。 鉄砲鍛冶師。 小黒宇兵衛 おぐろうへい 出雲崎町尼瀬の人。 入道速円。 長男が大忍魯仙和尚であり、大忍は良寛様と交わりが深い。 小黒小兵衛 おぐろこへい 旧和島村上桐の組頭。 当家の割木小屋に勝手に泊まり、泥棒と間違えられた。 酒を酌み交わしたり、歌を詠んだりしている。 素行に問題があり、所払いとなる。 良寛様に歌で諭される。 小田島允武 おだじまのぶたけ 彦次郎ともいう。 「越後野志」を著す。 その中に良寛道人伝がある。 良寛様に関係する地名も多く出ている。 おとき おとき 三条市の八幡小路の一文菓子屋のばあさん。 よく洗濯物を洗ってくれた。 乙助 おとすけ 元士族の溝口乙助と伝わる。 良寛様の書簡に出てくる。 問題を起こし、溝口藩の役人に追われるが、良寛様の取りなしにより命を救われる。 小野道風 おののみちかぜ 平安時代前期に活動した書道家。 中国的な書風から脱皮しての和様書道の基礎を築いた人物と評される。 後に藤原佐理と藤原行成とあわせ、「三蹟」と称される。 秋萩帖の作者である。 良寛様は秋萩帖で書を学ぶ。 良寛禅師奇話第十四話に記載あり。 おむろ おむろ 九代、中村権右衛門 好哉・よしちか の妻。 おむろ宛の金銭の受け取り証が残っている。 おゆう おゆう 山本馬之助の妻。 「遊子」ともいう。 山田権左衛門修富の娘。 馬之助の妾の子の面倒もみる。 三十五歳で亡くなる。 およい およい 山本由之の長女。 茨曽根・関根家敬助に嫁ぎ、佐知 さち と改名する。 良寛様とはとても親しく、よく酒や食べ物などを与えている。 良寛様に「ほたる」というあだ名を付ける。 書の達人。 良寛様は懐素の「自敍帖」より書を学び、大きな影響を受ける。 海津間兵衛 かいづまひょうえ 旧分水町竹ヶ花の村上藩の武士。 よく訪れ、飯を食べさせてもらう。 「海津氏宅即事」という詩がある。 覚賢和尚 かくけんおしょう 妹「みか」が嫁に行った浄玄寺の曽根智現和尚の父。 親しい間柄で、「秋日与天華上人遊雲崎」の詩あり。 景山和尚 かげやまおしょう 旧吉田町法花堂にある願生寺の住職。 良寛様と親しく、願生寺を詠んだ詩があり、この詩碑が境内に建てられている。 粕川家 かすかわけ 旧分水町渡部にある菅原神社の神官の家。 時々泊まり、子どもらと遊ぶ。 菓子屋三十郎 かしやさんじゅうろう 出雲崎町の菓子屋。 白雪羔を製造する。 良寛様からその菓子を無心する手紙をもらう。 桂誉章 かつらたかあき 新津市の庄屋。 桂家四代目。 新次郎ともいい、山本家の秀子 おのぶ の養子となるが、離婚する。 以南はその後、秀子と結婚し、良寛様を生む。 六代目誉正 たかまさ ともいう。 良寛様や由之とも親交がある。 桂東起子 かつらときこ 東吾の妻。 良寛様に好物の石榴を贈る。 良寛様の弟の由之が歌の師。 新潟大学名誉教授。 書の達人。 著書多数。 加藤千蔭 かとうちかげ 「万葉集略解」を著す。 良寛様はこれを友人に借りて万葉集のことを学ぶ。 金子紀一郎 かねこきいちろう 大忍国仙が北魚沼郡千田村千谷の新保家の庄之助であることをつきとめる。 以前は埼玉県岡部村出身といわれていた。 親しく交流する。 出雲崎に三回訪れ、鳥井家に滞在する。 多くの逸話を残す。 蒲生重章 がもうしげあき 幕末明治の儒学者。 「良寛伝」を著す。 唐木順三 からきじゅんぞう 評論家。 哲学者。 「最も日本人らしい日本人。 日本的な詩人」と評する。 柄沢栄清 からさわよしきよ 解良叔門の弟。 柄沢家に養子に入る。 旧和島村上桐に住む。 良寛様はここで二首歌を詠む。 良寛様追悼の歌を残す。 川端康成 かわばたやすなり ノーベル賞授賞式の記念講演で、良寛様の歌を紹介する。 勧励和尚 かんれいおしょう 刈羽郡椎谷の浄土真宗祐光寺の住職。 中国から流れ着いた「蛾眉山下橋の流木」の詩歌を広く募集する。 これに応じて、良寛様は「七言四行詩」を作成する。 河井秋紀 かわいあきのり 長岡藩の家臣・河井継之助の父。 良寛様は河井家に行き、書籍を借りる。 川村芳夫 かわむらよしお 良寛様の詩の「玉川駅に宿る」の玉川は、従来の山形県の羽黒町の玉川ではなく、新潟県境に近い小国町の玉川であるとの新説を出す。 観国和尚 かんこくおしょう 燕市の溝古新の清伝寺の第八代目住職。 良寛様は詩集を借りる。 良寛禅師奇話第十七話にも名前が記載されている。 天台山に寒山と拾得(じっとく)という禅僧が住んでいて、詩や画を書いた。 その人物たちの詩を「寒山詩」という。 良寛様はこの詩を愛読する。 観励和尚 かんれいおしょう 旧西山町田沢の浄土真宗祐光寺住職。 「峨眉山下橋の詩」を募る。 良寛様はこれを受けて、七言絶句をつくる。 きく きく 三浦屋・遠藤幸助の妻。 三条に来た際には、夫婦で良寛様をお世話する。 喜撰法師 きせんほうし 平安朝の歌人。 六歌仙の一人。 出家してその後仙人となり、雲に乗り飛び去ったと伝えられる。 亀田鵬斎は良寛様を喜撰法師のようだと評する。 北大路魯山人 きたおおじろさんじん 陶芸家。 書道家。 美食家。 良寛様の書を、容易にあり得ない素晴らしい良能の美書であると絶賛する。 北川省一 きたがわせいいち 良寛研究家。 「漂泊の人良寛」「大愚良寛の生涯」など著作多数。 義諦 ぎてい 長岡市福島の浄土真宗西誓寺如実庵主。 良寛様と歌で阿弥陀の誓いについての問答をする。 良寛様は兄弟子。 良寛様に和歌の影響を与える。 利蔵の子。 放蕩にふけったため、十一代目に勘当される。 しかし、良寛様の取りなしで勘当がとける。 良寛様からの訓戒の手紙が一通残る。 第十一代元右衛門。 外護者。 良寛様を迎え入れる。 木村家の庵で良寛様は示寂する。 木村元右衛門 きむらもとえもん 第十代元右衛門。 九二 きゅうじ 「くに」ともいう。 「島崎草庵の図」を描く。 現在は糸魚川市歴史民俗資料館にある。 九之助 きゅうのすけ 旧和島村島崎の豆腐屋。 良寛様に「天満大自在在天神」と書いてもらう。 「在」が一つ多いと指摘されるが、「いつもおからをまけてもらうので、一字まけてやった」と答える。 金七 きんしち 良寛様も信仰した与市地蔵を島崎川より救い出したと伝えられる。 地蔵は木村家の近くに安置される。 久住小兵衛 くすみひょうえい 旧和島村中沢の曲田の庄屋。 よく立ち寄り、書をかく。 しかし、直ぐに丸めてしまうので、丸める前に「乾かす」という名目でいただき、たくさん書を集める。 久須美七左衞門 くすみしちざえもん 旧和島村小島谷の代官。 暘谷館 ようこくかん という学問所を建てる。 良寛様も立ち寄ることがあり、白木の板に「暘谷館」と書き込んで、逃げ去ったとのこと。 工藤美代子 くどうみよこ ノンフィクション作家。 講談社ノンフィクション賞受賞。 「良寛の恋-炎の女貞心尼」を著す。 久末 くま 良寛様の妹の「たか」の子。 旧分水町の熊の森の勝誓寺に嫁ぐ。 良寛様は、時折、寺を訪れる。 黒田玄鶴 くろだげんかく 塩沢町の人・江戸の昌平黌 しょうへいこう で儒学を、京都で医学を学ぶ。 耐火性のあるの布・火浣布 かかんぷ をつくる。 良寛様の庵を訪れ、漢詩を作る。 桑原謙一 くわばらけんいち 三条市田島興野の医師。 良寛様の書のコレクターとして知られる。 桑原仁雷 くわばらじんらい 旧和島村の良寛研究家。 桑原祐雪の孫。 良寛様の「和島時代」を丹念に調べる。 河童医者といわれ、良寛様はそのいわれを「水神相伝」にまとめる。 桑原祐順 くわばらゆうじゅん 桑原祐雪の子。 親子二代にわたって良寛様と親しく交流する。 良寛様からの手紙が一通残る。 解良喜右衛門 けらきえもん 旧分水町佐善の人。 良寛様をもてなしてくれたお礼に「糸ひば」の木を贈られる。 直接良寛様が庭に植えたという。 解良義平太 けらぎへいた 解良一族の一員。 詳細不明。 良寛様から手紙を一通もらう。 解良熊之助 けらくまのすけ 解良家第十二代。 叔問の三男。 名は、「栄」。 熊之助の結婚式の時、良寛様は扇子箱を祝いに持って祝辞を述べる。 五十三歳で亡くなる。 解良家第十代。 外護者。 解良家の中でも特に親しかった。 村民から慕われていた。 解良新八郎 けらしんぱちろう 叔問の父。 解良家第九代。 名は「栄明」。 良寛様から「酒を飲み過ぎないように」との手紙をもらう。 解良兵右衛門 けらひょうえもん 叔問の弟。 名は「栄清」。 後に上桐の柄澤家の養子となる。 叔問を助けて、解良家をささえる。 解良孫右衛門 けらまごえもん 解良家第十一代。 名は「栄忠」。 叔問の次男。 一時期身をもちくずしていたが、良寛様から手紙をもらい立ち直る。 三十一歳で亡くなる。 解良雄四郎 けらゆうしろう 叔問の四男。 片貝村で酒造業を営む佐藤家の婿養子となる。 解良家第十三代。 叔問の五男。 幼名・正八 正月八日に生まれたからといわれている。 号・牧羊子。 「良寛禅師奇話」を書く。 貴重な資料となる。 国忍の三番目の弟子。 良寛様剃髪時の師。 賢深和尚 けんしんおしょう 真言宗妙徳寺の住職。 良寛様の法弟・遍澄は最初、賢深和尚に預けられ、読み書きを学ぶ。 玄透即中 げんとうそくちゅう 大忍国仙の後を受けて円通寺第十一代住職となる。 国仙とは禅の方針に相違があり、良寛様が円通寺を出ることになった原因との説あり。 孝順尼 こうじゅんに 貞心尼の弟子。 六歳で入門する。 良寛は国仙の二十九番目の弟子。 大忍国仙ともいう。 円通寺第十代住職。 小島寅雄 こじまとらお 元全国良寛会会長。 元鎌倉市長。 「ふりむけば良寛」「良寛と七十年」など著書多数。 小島正芳 こじままさよし 良寛研究の第一人者、大学の学生の頃より良寛研究に取り組む。 「八一と良寛」等書物、研究論文多数。 元三条高校校長 小玉理兵衛 こだまりへい 出雲崎町稲荷町の廻船問屋の主人。 良寛様は頼み事の手紙を送っている。 五滴 ごてき 母と共に出雲崎に来る。 京都の画家。 詩、書、画、琴、篆刻の五つに優れていたので、五滴と称する。 五良寛様が「籠屋」と書いた扁額に書き込みを入れ、合作を残す。 弘智法印 こうちほういん 西生寺において即身仏となる。 良寛様の詩で、「弘智法印の像に題す」がある。 こしの千涯 こしのせんがい 画家。 本名・斉藤作一。 相馬御風から「良寛に生きなさい」といわれ、良寛の絵を描き続ける。 小林一茶 こばやしいっさ 江戸後期の俳人。 通称弥太郎。 良寛様と同世代。 「焚くほどは風がくれたる落葉かな」の句あり。 小林卯兵衛 こばやしうへい 三条市の八幡神社の最古の良寛碑の建立者の一人。 大火で碑は壊れる。 小林群鳳 こばやしぐんぽう 石工。 木村家門前の「良寛禅師遷化之地」の碑を刻す。 小林粲桜 こばやしさんろう 新潟新聞主筆。 郷土研究史「高志路」創刊。 「弥彦神社附国上と良寛」を著す。 良寛研究家。 明治十二年に村山半牧遍「僧良寛歌集全」を出版し、また明治二十六年「僧良寛上人詩集全」、明治三十五年「僧良寛上人歌集全」を出版する。 明治期に多くの成果を上げる。 小林新一 こばやししんいち 新潟県写真家協会顧問。 良寛様と会津八一をテーマに写真を撮り続ける。 「良寛巡礼」「良寛の風景」などを出版する。 小林正左衞門 こばやししょうざえもん 和島村の庄屋。 良寛様の姪の「外山津多」が嫁ぐ。 手鞠、菓子、にまめなどを贈り、良寛様から礼状をもらう。 小林秀雄 こばやしひでお 日本の近代批評の確立者。 良寛様の書「地震の作」を吉野秀雄に示し、贋作と間接的に指摘され、その場で破り捨てる。 小林与三兵衛 こばやしよそべえ 旧寺泊町の引岡の人。 一枝 かずえ ともいう。 良寛様と歌を詠み交わした遺墨が伝わる。 維馨 経 尼の師。 大蔵経を購入する。 維馨 経 尼も購入に尽力する。 小師壮吉 こもろそうきち 三条市の新聞店の主人。 佐渡の和歌3首を所有しており、良寛堂と相川歌碑に使用される。 近山五右衛門 こんざんごえもん 弥彦村の庄屋。 餅、砂糖、金山寺味噌などを贈る。 権三 ごんぞう 旧分水町地蔵堂の船頭。 良寛様を西川の途中で舟を揺らし、川に落としたとされる。 結局は救い出し、良寛様に詫びたという。 権田雷斧 ごんだらいふ 旧西越村出身。 大正大学学長。 出雲崎町に良寛寺 良寛堂となる 建立を計画立案する。 通称又兵衛。 良寛様と土佐で出会ったことを「寝覚の友」に著す。 良寛禅師奇話第五十六話に記載あり。 さ行 西海土庄左衛門 さいかちしょうざえもん 旧分水町笈ヶ島の人。 蔵書家。 時折立ち寄り、本を読ませてもらう。 俗名・佐藤義清。 武士であったが、二十三歳で出家し、諸国をめぐる。 良寛様は、西行にあこがれて京都や吉野山。 高野山などを訪れる。 斎藤源右衛門 さいとうげんえもん 旧分水町中島の庄屋。 廻船問屋。 伊右衛門ともいう。 良寛様にりんご、百合根、金平糖、てんぷら、恵胡などのめずらしいものを贈る。 齋藤達也 さいとうたつや 小説家。 小説「酒虫」で第六回新潟出版文化賞受賞。 「良寛さんの会話術」やガイドブック「良寛との旅」などを著作する。 斎藤忠蔵 さいとうちゅうぞう 新発田市米倉の大庄屋。 詩経や書経などを借りる。 斎藤清内 さいとうせいない 旧和島村島崎の人。 木村家の近くにあり、その庭で近くの子どもたちと遊ぶ。 良寛様は孫の手本や祖先の位牌を書いてやる。 斎藤茂吉 さいとうもきち 歌人。 「良寛和歌集私鈔」を書き、良寛様の歌を高く評価する。 酒井角左衛門 さかいかくざえもん 旧分水町横田の医師。 よく立ち寄る。 良寛様の叔母が嫁ぐ。 坂口文仲 さかぐちぶんちゅう 医師。 文学者。 良寛様を「ニセ道人」と酷評した。 五合庵で歌を詠み交わす。 子孫に坂口安吾が出ている。 定清 さだきよ 旧島崎村の藤井平左衛門らしい。 良寛様からの手紙が一通残る。 詳細不明。 さち さち 山本馬之助の妹。 旧白根市茨曽根の関根丹治の妻となる。 里う さとう 山本由之の血を継ぐ、茨曽根・関根家の娘。 山本家橘屋の養女となり、山本家の血脈を守る。 佐藤吉太郎 さとうきちたろう 郷土史家。 良寛研究家。 良寛記念館の完成に尽力した。 「耐雪」ともいう。 佐藤吉郎右衛門 さとうきちろうえもん 出雲崎町中山の庄屋。 近くに良寛様が仮住まいした西照庵がある。 良寛様に酒などを贈る。 寒山詩集を屏風の下張りに書き込み、逃げ去る。 その遺墨あり。 佐藤佐平次 さとうさへいじ 小千谷市片貝の醸造家。 あわもりをおくった礼状を良寛様よりもらう。 佐藤三郎右衛門 さとうさぶろうえもん 旧中之島町の庄屋。 同家に鉢の子を忘れる。 戻ると鉢の子があったので、喜び長歌を詠む。 佐藤岱博 さとうたかひろ 石工。 五合庵の句碑「たくほどは・・・」の刻者。 詳細不明。 佐藤寅次 さとうとらじ 旧分水町渡部の人。 書の約束を得たが、なかなか書いてもらえなかったので、部屋に閉じこめて書いてもらう。 佐藤仁左衛門 さとうにざえもん 良寛様より餅、砂糖を贈った礼状を一通貰う。 出雲崎町の中山か寺泊町の夏戸の人らしい。 詳細不明。 左之助 さのすけ 旧寺泊町野積の荒谷の人。 同家に観音堂があり、よくお参りをする。 その理由を聞くと「観音様が母親によく似ている」と答える。 しか しか 妹「たか」の子。 寺泊の石原半助の妻となる。 茂木弘次 しげきひろつぐ 出雲崎町出身。 彫刻家。 良寛様の銅像を多数つくる。 七星 しちせい 出雲崎町の俳人。 幼い頃、一緒に遊んだ友人。 山本以南とも俳諧で交流する。 実善和尚 じつぜんおしょう 旧分水町の熊の森の勝誓寺第十代住職。 良寛様の妹たかの子、久未の夫。 渋谷酒左衛門 しぶやしゅざえもん 見付市三貫野の大庄屋。 橘屋山本家の遠縁。 時折訪れる。 提灯の代わりに行灯を借りて立ち去る。 若水 じゃくすい 坡丈の弟子。 詳細不明。 良寛禅師奇話第五十四話に記載あり。 祥二 しょうじ 国上村の人と伝わる。 良寛様からの手紙が一通残る。 詳細不明。 証聴 しょうちょう 旧寺泊町蛇塚の僧。 詩歌に優れ、貞心尼とも親交がある。 良寛様からの手紙が二通残る。 真教和尚 しんきょうおしょう 与板町の蓮正寺の住職。 山本以南の妹「スヨ」が嫁ぐ。 蓮正寺には、良寛様の書いた「自然の碑」「法尓の碑」がある。 神保杏村 じんぼきょうそん 燕市の富豪。 文墨を好む。 亀田鵬齋や巌田洲尾、良寛様らと交流する。 良寛様と同じ年に亡くなる。 心竜尼 しんりゅうに 貞心尼の師。 姉に眠竜尼がいる。 「国上山の手鞠上人良寛」を書く。 杉本春良 すぎもとしゅんりょう 医者。 煙草入れに紐がついている「良寛座像」を描く。 よく煙草入れを忘れたという。 杉安嘉正 すぎやすよしまさ 大分県杵筑市文化財団調査委員。 良寛研究家。 「良寛さんを辿る」を著す。 良寛様を学習する上でよくまとめられた書物である。 鈴木見義 すずきけんぎ 粟生津の医師。 鈴木文台の父。 文台の兄。 隆造ともいう。 良寛様が昼寝をしている時に、頭蛇袋から防備メモを失敬し、貴重な資料となる。 良寛様からの手紙が五通残る。 鈴木順亭 すずきじゅんてい 鈴木桐軒の長子。 若い頃、文台に学び、医者をめざしたが、病気で二十四歳で亡くなる。 良寛様の「草堂集」の校訂をする。 良寛様は「この子は将来、大成するであろう。 」と賞賛した。 良寛様に関する多くの評論を残す。 長善館をつくり多くの人材を育成する。 明治三年、七五歳で亡くなるまで、四三五人の門人に教えた。 鈴木牧之 すずきぼくし 「北越雪譜」の作者。 塩沢の人。 良寛様に、自筆の山水図に詩を書いてもらう。 スヨ すよ 山本以南の妹。 良寛様の叔母。 与板町の蓮正寺の住職・真教の妻。 蓮正寺には、良寛様の書いた「自然の碑」「法尓の碑」がある。 関川万輔 助 せきかわまんすけ 出雲崎町の歌人。 賭け碁をして三回勝ち、「柿もぎの金玉寒し秋の風」の句を三回書いてもらう。 関長温 せきちょうおん 医師。 貞心尼の元夫。 子供がなくて別れる。 関根小左衛門 せきねしょうざえもん 旧白根市茨曽根の組頭。 その娘が良寛様と結婚をしたが、生活力がないということで離婚したと伝えられる。 しかし、確定した話ではない。 瀬戸内寂聴 せとうちじゃくちょう 小説家。 小説「手鞠」を著作する。 良寛様の法兄であり、「仙桂和尚は真の道者」と評する。 宗庵 そうあん 旧寺泊町の医師と伝わる。 良寛様からの手紙が一通残る。 詳細不明。 蔵雲和尚 ぞううんおしょう 前橋の龍海院住職。 「良寛道人遺稿」を慶応三年に出版する。 貞心尼と親交がある。 良寛様に僧のあり方に大きな影響を与えた禅師。 旧紫雲寺町の観音院の住職をしている時に、良寛様は訪れている。 生涯に三度会っているといわれる。 評論家。 良寛研究に多大な業績を残す。 曽根智現 そねちげん 出雲崎町の浄玄寺の住職。 妹「みか」の夫。 杣木勘助 そまぎかんすけ 旧分水町国上の人。 多くの書を書いてもらう。 書き損じの紙は障子紙に使用する。 尊円法親王 そんえんほうしんのう 伏見天皇の第6皇子。 尊円流と称される書法を作り出す。 良寛様は、親王の「梁園客法帖」を学ぶ。 良寛様の葬儀の導師を務める。 大宣 だいせん 僧侶。 良寛様を訪れた時、留守であったが、後で良寛様は歌を贈る。 内藤久武の友人。 泰禅和尚 たいぜんおしょう 柏崎市の洞雲寺の住職。 貞心尼に得度をあたえる。 大舟和尚 だいしゅうおしょう 旧白根市茨曽根の永安寺住職。 有願和尚や大森子陽などが学ぶ。 泰澄法師 たいちょうほうし 国上寺 真言宗 を開基する。 創建は和銅二年 七〇九年。 越後で最も古い寺とされている。 出雲崎町尼瀬出身。 「無礙集」を出版。 この中に「良寛道人の偈を読む」「良寛道人を懐う」がある。 よき理解者である。 以南の次女。 高島伊八郎に嫁ぐ。 四男十女の子供を養育する。 高島伊右衛門 たかしまいえもん 妹「たか」の子。 伊八郎の跡を継ぐ。 高島伊八郎 たかしまいはちろう 出雲崎町の町年寄。 妹「たか」の主人。 高嶋常右衛門 たかしまつねえもん 名は正貞。 良寛様と托鉢の途中、酒を飲みかわしたと伝えられる。 旧岩室村の高島屋旅館の祖先。 高橋郁丸 たかはしふみまる 漫画家。 イラストレーター。 「良寛ものがたり」「貞心尼ものがたり」を漫画で描く。 高山彦九郎 たかやまひこくろう 勤王の士。 父以南の盟友。 倒幕計画にも関係する。 以南も影響を受ける。 滝川昆堂 たきがわびどう 新潟県直江津出身の彫刻家。 本名は滝川美一。 良寛様のお墓のある隆泉寺の良寛像の制作者。 竹内源右衛門 たけうちげんえもん 旧寺泊町の人。 新しい庵を造り、国上山から下りてくるよう勧める。 武田鏡村 たけだきょうそん 新潟県生まれ。 日本歴史宗教研究所所長。 「良寛 悟りの道」を著す。 多治右衛門 たじえもん 良寛様が仮住まいした寺泊の郷本空庵の持ち主。 田代亮介 たしろりょうすけ 柏崎市の医師。 岡山県の円通寺に良寛様の遺墨十二点を寄贈し、岡山県の文化財に指定される。 田瀬甚左衛門 たせかんざえもん 旧分水町興野の人。 万元上人が三年間、滞在したといわれ、その因縁で時々立ち寄る。 橘馨 たちばなかおる 旧白根市根岸の林正寺の住職。 良寛地蔵を建立する。 以南の四男。 泰信ともいう。 勤学館学頭 塾長 となる。 博学多才の秀才。 橘崑崙の兄。 寺泊の郷本の庵に良寛様がいるかどうかを確かめに行く。 「北越奇談」六巻の著者。 良寛様の記述が見られる。 大森子陽の親戚。 橘千蔭 たちばなちかげ 加藤千蔭ともいう。 国学者。 賀茂真淵に学ぶ。 「万葉集略解」を著す。 良寛様はこの書から万葉集を学ぶ。 立松和平 たてまつわへい 小説家。 「良寛」「良寛のことば」を書く。 田中圭一 たなかけいいち 良寛の父は以南ではなく、新津の桂家の新次郎 四代目桂誉章 であるとの新説を出す。 離婚した後、以南が養子に入っている。 しかし離婚・結婚の時期からして、無理があると指摘されている。 谷口吉郎 たにぐちよしろう 建築家。 文化勲章受章。 良寛記念館の設計者。 良寛研究家。 著書多数。 「良寛全歌集」「底本 良寛全集」など。 種田山頭火 たねださんとうか 自由律俳人。 五合庵を訪れ、「青葉分け行く良寛さまも行かしたろ」の句を残す。 本覚院にその句碑が建つ。 玉木勝良 たまきかつら 良寛様に書を貸したら「おれがの」と書き込みをされたので、注意したという逸話あり。 玉木礼吉 たまきれいきち 長善館卒業生。 小学校教員。 良寛研究者。 「良寛全集」を書く。 五合庵前に良寛句碑を建立する。 たみ たみ 解良叔問の妻。 五男八女を生む。 団子茶屋利右衛門 だんごぢゃやりえもん 三条市一ノ木戸の神明神社近くの茶屋の主人。 良寛様の崇拝者。 立ち寄ると面倒をみる。 智海 ちかい 狂僧といわれる。 解良家において、敬慕されている良寛様に嫉妬し、殴りかかったとされる。 良寛禅師奇話第十一話に記載されている。 近山五左衛門 ちかやまござえもん 弥彦村山麓の名主。 良寛様から一通の礼状を貰う。 ちりきや由右衛門 ちきりやよしえもん 出雲崎町の妓楼「睡龍館」の主人。 俳諧を好み、父以南とも親交がある。 手毬を贈る。 良寛様より二通の手紙が残る。 知空童子 ちくうどうし 良寛様の兄といわれる。 夭折する。 名前は「ともたか」といわれる。 智光童子 ちこうどうじ 良寛様の弟・香と妹・みかの間にいたとされる妹。 六歳で夭折する。 本当の名前は不詳。 山本家菩提樹の円明院過去帳に記載されている。 智譲尼 ちじょうに 貞心尼の弟子。 貞心尼が亡くなるまで仕える。 智定尼 ちじょうに 旧和島村小島谷 おじまや の尼。 良寛様の香典帖に「小島谷庵主」の記載あり。 この庵に泊まったりしたこともあるらしい。 良寛様を雑炊宗 ぞうすいしゅう といってからかう。 長六 ちょうろく 島崎の桶屋。 酒飲みで、なかなか仕事をしないので、良寛様は催促をする。 津田青楓 つだせいふう 洋画家。 水墨画家。 夏目漱石に絵を教える。 「良寛随筆」「良寛父子伝」を著す。 良寛様の遺跡を訪ね歩き、多くの随筆を書く。 敦井栄吉 つるいえいきち 敦井産業創始者。 良寛様の書のコレクター。 新潟市の敦井美術館に展示されている。 貞室尼 ていしつに 九代三輪権平長凭の母。 良寛様だけでなく由之とも親しく、由之より歌を習う。 最も愛した女性。 良寛歌集「蓮の露」をまとめる。 俗名を「奥村マス」という。 てふ てふ 山本馬之助の子・泰世の妻。 藤江 とうえ 旧分水町牧ヶ花の医師。 解良家に遊びに行った時、良寛様と碁を打つ。 陶淵明 とうえんめい 中国東晋の詩人。 田園生活を賛美する詩を多く作る。 詩集「陶淵明集」を著す。 良寛様に大きな影響を与える。 道元の著書「正法眼蔵」に強く影響を受ける。 東郷豊治 とうごうとよはる 心理学者。 良寛研究者。 元大学教授。 著作「良寛」は読売文学賞受賞。 著書多数。 富川伊右衛門 とみかわいえもん 旧栃尾市の人。 長岡藩の検断職。 玄獄ともいう。 詩や書に優れる。 山本家橘屋と親戚。 甥の大塊を養子にする。 良寛様は時折立ち寄りご馳走になる。 富川大塊 とみかわたいかい 書家。 上州屋の四看板 良寛、亀田、巻、富川 の一つを書く。 冨澤信明 とみざわのぶあき 新潟大学名誉教授。 良寛及び由之研究家。 東北民藝館館長。 富取庫之丞 とみとりくらのじょう 富取正誠の子。 幼名倉太。 富取家九代。 富取北川の弟。 良寛様と親交あり。 富取長太夫 とみとりちょうたゆう 富取家七代。 囲碁を好み、良寛様とよく打つ。 良寛禅師奇話第十七話に記載あり。 富取芳齋 とみとりほうさい 画家。 「手紙の字だけは子供が読んでも分かるように書くべき」と良寛様に言ったと伝えられる。 富取北川 とみとりほくせん 富取正誠の子。 地蔵堂の医師。 良寛様と親交あり。 「いんきんたむし」の薬を贈る。 富取北川の妻 とみとりほくせんのつま 名前不詳。 良寛禅師奇話十六段に、良寛様に結婚式の祝いの詞を教えたとの記載あり。 富取正誠 とみとりまさのり 旧分水町地蔵堂の大庄屋・富取家第八代目武左衛門 たけざえもん。 幼名小弥太。 直接の交流があり、詩歌をたしなみ、良寛様から妻を失った時の弔慰の歌をもらう。 儒学者。 三春藩の藩儒となる。 鳥井長兵衛、富取長太夫正則とは兄弟。 富取翼夫 とみとりよくふ 子陽塾時代の友人。 富取支族武七家二代目。 幼名良助。 良寛様の彼に関する詩がある。 鳥井長兵衛 とりいちょうべえ 敦賀屋の主人。 大庄屋富取家 長太夫正則の弟 から養子に入る。 橘屋とはライバル関係。 長兵衛の子。 ただし富取家からの養子。 富取正誠の弟。 出雲崎の町年寄。 後に名主となる。 良寛様からの手紙が二通残る。 外山乙五郎 とやまおとごろう 良寛様の妹「むら」の子。 滝谷寺の住職となる。 日養上人。 本寿ともいう。 良寛様からの手紙が一通残る。 外山茂右衛門 とやましげえもん 旧寺泊町の町年寄。 寺泊に良い庵があるということで、良寛様を誘う。 しかし、木村家に行くことになった。 外山津多 とやまつた 良寛様の外山家に嫁いだ妹「むら」の娘。 旧和島村籠田の庄屋、小林正左衛門に嫁ぐ。 外山文左衛門 とやまぶんざえもん 妹「むら」の子。 弥惣右衛門の跡を継ぐ。 外山弥惣右衛門 とやまやそうえもん 良寛様の妹の「むら」が嫁ぐ。 旧寺泊町の庄屋。 廻船問屋で酒造業を営む。 な行 内藤鐘山 ないとうしょうざん 出雲崎の儒者。 亀田鵬齋の弟子。 鵬齋に良寛様を紹介する。 「訪五合庵禅師」の詩を残す。 内藤信敦 ないとうのぶあつ 村上藩主。 国上山は村上藩の所領であり、信敦が稲刈り時の忙しい時に狩り刈りに国上山に来るというので、良寛様は来ないように和歌を詠み、立て札に書いたという。 内藤方廬 ないとうほうろ 出雲崎の儒者。 良寛様に頼まれ、乙子神社の宮額に「乙子大明神」と書く。 内藤久武 ないとうひさたけ 久敬か。 旧西山町石地の肝煎。 良寛様の書が欲しくて、屏風と墨をわざと玄関に置き、書いてもらう。 五合庵を訪れ、歌を唱和する。 中江杜澂 なかえとちょう 京都の画家。 良寛様の書に「良寛禅師奇跡」と評する。 長岡関左衛門 ながおかせきざえもん 旧分水町熊の森の資産家。 栄五郎ともいう。 時々立ち寄る。 墓碑銘の文字を書いてもらう。 漢詩にも詠まれる。 中川都良 なかがわとら 旧与板町の人。 良寛様の父方の親戚。 都良が亡くなった時、庭に咲いていた朝顔の和歌を一首詠む。 中川弥五兵衛 なかがわよごべい 旧与板町の人。 良寛様の弟の由之が弥五兵衛の屋敷の一角に「松下庵」を結ぶ。 庭に無花果がたくさん採れたという。 中川蘭甫 なかがわらんぽ 旧与板町の俳人。 名は長太夫。 良寛様の従兄弟。 良寛様から贈られた和歌が一首残る。 中川立生 なかがわりゅうしょう 医師。 良寛様から多くの詩歌を添削してもらう。 良寛様の葬式にも出席する。 中野孝次 なかのこうじ 小説家。 ドイツ文学者。 評論家。 「良寛に会う旅」「良寛の呼ぶ聲」を著す。 中林梧竹 なかばやしごちく 明治の書聖といわれる。 五合庵木額を書く。 中原元譲 なかはらげんじょう 新潟市赤塚の医師。 書や漢詩も書く。 元譲宛の書簡に懐素の自叙帖のことが書かれてある。 中村家九代目。 名は好哉 よしちか。 酒造業を営む。 庇護者。 良寛様の父親の親戚筋にあたる。 妻は「むろ」。 中村権右衛門 なかむらごんえもん 中村家十代目。 名は好雄。 または雄平。 良寛様から一通の手紙を貰う。 中村旧左衛門 なかむらきゅうざ えもん 号は以水。 分水町地蔵堂の町年寄。 中村家八代目。 酒造業を営む。 良寛様が狭川塾に通う時、下宿する。 妻は「リサ」。 夏目漱石 なつめそうせき 良寛様の書と詩歌を高く評価する。 書を大変欲しがる。 成田伝吉 なりたでんきち 三条市の人。 小林卯兵衛ともいう。 三条八幡神社に良寛詩碑を建立した有志の一人。 残っていれば最古の石碑。 破片のみあり。 南波茂左衛門 なんばしげざえもん 出雲崎町中山の人。 良寛様が西照庵にいた時、味噌や下帯などをもらう。 庵を去る時、「法華転」を南波家に置いていく。 新美南吉 にいみなんきち 童話作家。 代表作は、「ごんぎつね」。 良寛様関係では、「良寛物語 手毬と鉢の子」を著す。 西郡久吾 にしごおりきゅうご 旧制中学の教師。 良寛研究家。 「北越偉人妙門良寛全伝」を書く。 如来 にょらい 旧寺泊町の石工。 乙子神社境内の詩碑を彫る。 丹羽思亭 にわしてい 新発田藩の儒者。 足軽の出であるが、藩主健齋公に認められ、江戸に学ぶ。 詩、歌、書、画、琴に優れる。 晩年「良寛伝」を書く。 野口七左衛門 のぐちしちざえもん 京屋の主人。 尼瀬の名主。 橘屋とはライバル関係。 は行 羽賀康夫 はがやすお 日本写真家協会会員。 良寛様をテーマに写真を撮り続ける。 「良寛街道」「良寛に出逢う旅」など。 白隠 はくいん 慧鶴 えかく ともいう。 衰退した臨済宗を江戸時代に再興した禅僧。 良寛様の好んだ詩文「君看雙眼色 不語似無憂」は、白隠の書『槐安国語』の中にある。 馬喰家のばあさん ばくろうけのばあさん 旧分水町の国上に住むおばあさん。 良寛様の衣などを縫ってくれた。 何枚か書をかいてもらう。 坡丈和尚 はじょうおしょう 旧分水町、専念寺の和尚。 俳諧をたしなむ。 字が下手だったので、良寛様より「美醜に心を労してはいけない。 無心になって書けば、自ずから風格がそなわる」と教えてもらう。 良寛禅師奇話第五十四話に記載あり。 長谷川洋三 はせがわようぞう 早稲田大学名誉教授。 ジャーナリスト。 経済評論家。 良寛研究家。 「良寛禅師の真実相」「良寛禅師の悟境と風光」を著す。 長谷川義明 はせがわよしあき 現全国良寛会会長。 元新潟市市長。 「天上のはるかかなたのみそらより慈悲の大風かぎりなくふく」の歌を詠む。 馬場又吉 ばばまたきち 旧分水町熊の森の人。 馬場家の亡くなった子供の位牌に良寛様は勝手に法名を書き込んだという。 狭川塾の親しい学友。 良寛様より五歳年下。 歌をよく唱和する。 父と同じく良寛様と親しかった。 十七歳の時、山本馬之助と義兄弟の契りを結び、歌をよく唱和する。 良寛様からの手紙が九通残る。 原田勘平 はらだかんぺい 良寛研究家。 記憶力抜群で良寛辞典とも称される。 小学校長を歴任。 原田家の養子に入る。 原田仁左衞門 はらだじんざえもん 原田鵲齋の父。 旧国上村真木 まぎ 山の庄屋。 原田政吉 はらだまさきち 旧国上村真木山の人。 原田家の近くで村の子供たちとよく遊ぶ。 大きな榊にぶら下がり、子供たちを喜ばせたという。 原坦山 はらたんざん 明治の仏教哲学者。 良寛様を評して「仏教学の奥義を深めしものは空海以後良寛あるのみ」あるいは「道元禅師以来の巨匠なり」と絶賛する。 早川甚五衛門 はやかわかんごえもん 旧和島村島崎の鍛冶職人。 法弟の遍澄の父。 早川樵巴 はやかわしょうは 文人。 九二と共に晩年の良寛様を訪れる。 九二がその時の絵を描き、樵巴も描かれる。 早川平三郎 はやかわへいざぶろう 旧和島村島崎の人。 木村家の娘「おかの」が嫁いだ相手。 「おかのどの戒語」が知られている。 林甕雄 はやしみかお 群馬県出身。 国学者。 良寛様が亡くなった後、越後に来て良寛様の歌に感激する。 新津の桂家に留まる。 「良寛禅師歌集」を著す。 「林甕雄」本と呼ばれる。 国上寺の再興に尽力する。 半僧 はんぞう 良寛様へ「海松 みる 」という海藻を贈る。 その礼状が一通残る。 詳細不明。 半兵衛 はんべえ 酔狂して良寛様に危害を与えたとされる人物。 この名を聞くだけで逃げることにしていたという。 良寛禅師奇話第十話に記載されている。 日置黙仙 ひおきもくせん 曹洞宗の僧。 永平寺貫首。 良寛堂の「良寛和尚生誕之地」の碑を書く。 建碑は大正15年9月。 比丘戒全 びくかいぜん 岡山・円通寺第二十五世の僧。 昭和六年、境内に良寛詩碑を建てる。 以来円通寺が良寛様修行の地として知られるようになる。 「おのぶ」ではないかともいわれている。 鄙一 ひないち 寺泊町の盲目の文人。 この家を訪れ、歌を詠む。 日野資朝 ひのすけとも 資朝が佐渡に流される時、山本家に泊まり、「忘るなよ程は波路を隔つとも変らず匂へ宿の橘」を詠む。 山本家の屋号「橘屋」はこの歌から付けられたといわれている。 平右衛門 ひらえもん 旧和島村小島谷の農夫。 雨も降っていないのに、駆けてくる良寛様にその訳を聞くと、「今度夕立にあうと、逃げ場がないからね」といい、家に上がり、「避雨」という詩を書いて見せる。 平沢彦兵衛 ひらさわひこべい 水原代官所代官。 文化七年十一月。 町民の訴えを受けて、由之に家財取り上げ、所払いの刑罰を出す。 平田郷陽 ひらたごうよう 人間国宝。 岡山県倉敷市にある円通寺公園の「童と良寛」の巨大な石碑 高さ2. 6M の原作者。 平田弥兵衛 ひらたやへい 出雲崎の人。 良寛様と唱和する。 歌も残されている。 平原治郎兵衛 ひらはらじろべい 旧分水町笈ヶ島の豪農。 良寛様が花を取る所を見つけ、それをとがめ、絵に五言十二句の詩を書かせた。 比留間助左衛門 ひるますけざえもん 出雲崎代官。 名は「正興」。 山本由之が敦賀屋を中心とする町民に訴えられたのを擁護したため、町民が水原の奉行所に駆け込み訴訟を行い、それが認められ、比留間は罷免され、由之は所払いとなった。

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