診断の結果、百三の病はであることが分かり、その後も病状は悪化する一方であったため 、同年12月に一高を余儀なくされた。 でであったは、『出家とその弟子』を評して、「その名が仏教であるだけで、内容は及び弟子たちの言葉である」と記した。
7(昭和13年)、『青春の息の痕』発表。
史実の唯円は、親鸞の弟子であり、『』の作者とされている。
しかし「松の家」に帰ったかえでは女将に手ひどく叱られ折檻される。
近代文化研究室編 「倉田百三」『近代文学研究叢書』50、昭和女子大学近代文化研究所、1980年。
『倉田百三作品集』全6巻、創芸社、1951• 3月、庄原に戻り上野池畔に独居。 広島、九州、明石と転地療法していただが、この頃は健康をやや回復し、名声も上がり、収入も安定。
だがあんなふうにして殿様に見捨てられて、浪人になってこっちに渡って来てから、わしは世間の人の腹の悪さをいやになるほど知ったからな。
伊吹山徳司 - 直子の実父にして百三の義父。
退院後はで療養したが、6月には庄原に戻っている。
百三にとって一燈園でのをはじめとした労働の日々は新鮮で充実したものではあったが 、粗食と労働の生活は百三の病状を悪化させたため、心配した両親の希望もあって(大正5年)1月には一燈園を出て、近くの下宿から通うことにした。
作中で語られるのは人間の運命と人生における様々な葛藤、孤独な寂しさであり、それらをの視点から照らし出す。 (大正10年)11月 於・有楽座 刊行情報 [ ] 刊行本 [ ]• お釈迦さまは、出家される前は、 一国の皇太子だったので、国を捨て、妻子を捨てて出家されたとき、 国王が国を挙げて捜索活動を展開しました。
当時のエンタシスの柱と、栗の木で作られた書斎が残っているとのこと。
同年、へ進む。
結婚して小西姓。
昭和8年(42歳)、日本主義の団体の結成に参加し、その機関誌「新日本」の編集長となる。 わしは初めは無論幻だと思っていた。
わしはそれに打ちかたねばならない。
遠藤伸治 「」『近代文学試論』2012年 50号 47-59頁、:, 広島大学近代文学研究会。
(203p) ・親鸞=仏縁というのは不思議なものだ。
(昭和15年)、『光り合ふいのち』発表。
また、一時百三が師事し作中の親鸞のモデルとされる西田天香と一燈園の存在も、『出家とその弟子』がとなったことと 、(大正10年)に天香の講演録『懺悔の生活』が出版されたこともあって、広く社会に知られていくようになった。 12-21, , 千葉大学大学院社会文化科学研究科。
18国にいたころはあんな人ではなかったのだけれど。
(大正13年)、より倉田百三への手紙送付(2月6日付)。
・編 『日本近代文学大事典』第1巻 講談社、1977年。
今は悪く言われても平気だよ。
『出家とその弟子』 新潮社、1955年。 子が生まれた百三は経済的自立を望み、三次中学や一高時代の先輩や友人を通じて岩波茂雄に話を持ち込み、『出家とその弟子』6幕13場に新たに「序曲」を加えた形で6月に岩波書店から自費出版として刊行。
14そして、そのことも原因の一つとなって百三は病に倒れた。 大正10年(30歳)発表の『愛と認識との出発』も学生を中心によく読まれた。
なお、がこの頃起こしたに賛同し協力していたため、福岡のこの仮寓が新しい村の福岡支部とされる。
『歌はぬ人』岩波書店 1920• 気を強くする鍛錬をしなくてはいけないのだ。
大正5年半ば(25歳)から書き始めた初の本格的な作品。
殺人犯は尊敬され、コソ泥はバカにされる。 しかし、本書は、非常にキリスト教に近いこたえを親鸞が発しているので、少々とまどう人もいるだろう。
キリスト教への傾斜と一燈園 [ ] 退学後、百三は・でのを経て、(大正3年)3月にに戻った。
初版800部の出版に必要な500円は、これが最後と父に頼み込んで用立てた。
「」『千葉大学社会文化科学研究科研究プロジェクト報告書』 2005年 120巻 p. 11月から、健康のすぐれない百三は、医者のすすめにしたがって、はると温暖なで療養した。