いわゆる傷を受けた負傷者の、病室代わりだった。 そうすると、防御対策というのは、その当時の防御なんてのは、攻撃ばかりしか考えられてない。 「班長、班長、早く上がってくれ、もう総員退艦になるよ」というようなことをね。
もう上がって、そんなもの、とてもじゃないですけども、こっちから引っ張り上げる分までいきませんもの。
だからその音を聞き分けるということが、もう必死だったんですね。
4人入って、1人伝令に。
これ以降、日本放送協会は戦時色が強まる中、大臣の国会演説や戦況報告をSP盤に記録し、録音放送を行っていきます。
だからその音がね、すごい音だった。 日本ニュース 第17号(1940年10月)• 生涯、死とはどういうものか問い続け、戦争に反対してきた梅原さんの昭和20年 の証言です。 水測だと。
8日本ニュース 第24号(1940年11月)• それから1時間ほどはもう、船の速力計は部屋の中にね、何ノットで今走っているというのは、もうそれもボンときてから、そんなもの、みんな作動がストップしてますからね。 もう10分か15分も、時間にしてどのくらいのものですかな、恐らく15分はたってないと思います。
過去の番組映像はダイジェスト版だが、出演者の権利処理や映像そのものが現存しないという理由で、視聴できない番組もある。
潜水艦が特に、これがいわゆる航路であろうと、大体世界各国、海図なんかでも船の航行をするところ、深いところは別ですけどね、陸岸に接するところは、ここは入っちゃいけない、浅いとか、あるいはここにはどういうものが設置しているとか、そういうのでもう海図にはちゃんと出ているわけですね。
元兵士の戦争体験の証言をNHKの全国の放送局で収集。
「大丈夫か」もう震えてしまってな。 そこで今の防衛大学の、浦賀のね、あのずっと南寄りの。 だから、3秒かかるとその半分の距離だということがそれで計算できるようになってる。
それで、「よし、行くぞ」ということで、もう滑り台みたいなものがある。
放送年で検索すると、主な番組と共に、その年に話題になったニュース映像も見ることができる。
だからもうそこは上がったらもう、すぐ。
ああ、航空母艦だと。
それは水中走ってくるたってね、わかりますもの。 無数の人命を奪い、国土の多くを灰燼に帰したアジア・太平洋戦争 あの時代、戦場で、人々は何を思い、どう行動したのか 無数の人命を奪い国土の多くを灰燼に帰したアジア・太平洋戦争。
そうすると初め所属された一般の兵からの班長というのがね、おまえの体で水測行くと、潜水艦乗りになると。
そのうちで、今のは何かと。
(NHK 戦争証言アーカイブス より) 戦争を体験した方々の口から絞り出される、変わらない仲間への思い、生への望み、つらい記憶には、七十年以上経った今も胸を打つものがあります。
マルハチマルマルですね、は「総員配置に着け」という号令が出るんですよ。
あるいはベイスコープという潜望鏡がありますけど、それなんかにゆがみがつくとか、とにかく潜航しているものに危害を与えれば、それでいいというのが爆雷の目的なんです。 戦闘行為の停止から降伏文書調印まで半月ほどかかったというわけです。
だからようやく、そのテレトークというものを、真空管1つ付いてますからね、飛んでしまいますからね、頭を押さえるようにして、とにかく作動するようにして、1時間そこそこ悪戦苦闘して、上との連絡ついたときにね、水測士が上におって「もう本艦は走れないんだよ」という声を聞いただけで、ああ、駄目だと。
この辺に水深の40メーターぐらいのところに物体があるなというと、その付近へドカドカとドラム缶を小さくしたようなのが、これ爆雷と言いましてね、それを落としていけばいい。
各班に伍長って言いましてね、これはもう海軍では兵学校も一緒で、組の統制を取るのに号令をかけたりするのに、その伍長というのを。
台湾にしたって、フィリピンにしたって、内地とほとんど変わりませんから。
目的地を目前にして、部隊に作戦中止が命じられる。
ほんとの耳に入ってくる勘だけで「ああ、おかしい」と。
前もって、この辺を通るであろうという航路に対して、待ち伏せ式の。
NHK 戦争証言アーカイブス【 】哲学者の梅原猛さんが亡くなりました。 だからもう右往左往というかね。
だからそこはあくまで休憩ですから。
輸送船ばっかりやっちまいますね。
レシーバー2つ付いてるから。
真っ暗けだから、這っていくというわけにもいかんし。 すぐ帰してくれない。 ただ音の。
そして、小沢艦隊が米機動部隊を引き寄せることに成功した10月25日、瑞鶴は米艦載機のたび重なる攻撃を受け、午後2時過ぎに沈没した。 人間魚雷、回天。
移乗しました、「(戦艦)日向」に。
だけど海面に入って、それから走り出す音というものが、ものすごいうなりようになる。
ところが食事用意ですけどね「2食分受け取れ」ってマイクで言ったんですよ。
船に乗ってね、受信って言ってもね、もうなんだと。
上甲板はそのままずっと艦首のほうに行くと、碇甲板って言って、いちばん前のそこのところへ出るものですからね。
横須賀で。
そこからですね、もちろんそのときは、わたしがもう単身での「瑞鶴」の転勤。