戦後の米軍のすさまじい性暴力をくいとめるために賑わったという、矛盾を凝縮したような街だった。 市役所は字仲宗根に置かれ、合併後はそのまま沖縄市役所となり、のちの実施に伴う町名変更で仲宗根町となった。
13ほかコザ周辺には各社コインパーキングあり。 一九七〇年に公開されたドキュメンタリー映画『モトシンカカランヌー』の撮影スタッフは照屋に家を借りていたんです。
太鼓をたたいているのは、エイ坊という沖縄市のキャラクターです。
コザはまだまだ遠い印象がありますね。
半分ほどは取り壊されてしまい、撮影スタッフやヤクザが住んでいた棟は壊されて集合住宅になりましたが、残り半分ほどは外人ハウスを模したような家が数軒かたまっています。
そのコザというエリア、実は戦前までは『越来村』という地名であった。 無料のガイドブックやMAPは「中央パークアベニュー」にある「コザインフォメーションセンター」や各店舗などでもらうことができます。 藤井 Aサインレストランの「ニューヨークレストラン」もつぶれてしまった。
3沖縄ミュージックシーンを牽引する「音楽の街」、そして沖縄伝統の「エイサーの街」として愛される沖縄市は、1974年にコザ市と美里村が合併してできました。 仲村 おそらく、日本初のショッピングモールだよね。
普久原 先ほどの記事には「外人商社プラザハウスやロジャースなども通り会に含む話し合いを進めており……」ともあるので、間違いないですね。
2階のカフェスペースは、オリジナルのドーナツやコーヒーを味わえる居心地のよい空間です。
赤いライトに照らされた、この店のオーナーでベーシストの古堅喬さん。
かつ、若い店員さんがよく知らなかった。 , 809-814頁. アメリカンなハンバーガーでも食べようと思っていたけれど、 こちらがおいしそうに見えて・・・実際おいしかったです 笑 フィリピン人は英語も話すのでコザには多く住んでいて、 コザではフィリピン文化も多くみられる。
12なぜか「カフェー」と延ばすと女性が給仕してくれる不純な方を指しますよね(笑)。 カフェやレストランも多いので、ここでランチというのがおすすめ。
いまや昔からあるのは数軒になってしまったそうですけど。
現在はコザゲート通りがメインストリートとなっていますが、戦後間もない頃は、ココ「コザ十字路」の周辺が人々の集まる中心地だったそう。
ゲート通りで立ち寄っておきたいのが「HISTREET 沖縄市戦後文化資料展示館」です。
アメリカの雰囲気が色濃く残っていますが、入っているお店はさまざまで、ヨーロッパの洋服、アジア雑貨、沖縄の民芸品など、上質な品物を販売しています。
10『今回はコレ、次はアレを食べよう』なんて悩みながら選ぶのも幸せな時間。 沖縄の言葉で「ごちゃまぜ」を意味するチャンプルー文化とも呼ばれますが、街を歩くとその意味がよくわかります。
藤井 実は僕も行って楽しんできました。
北谷村(現在の)• 基地で栄えた街は必ず寂れるといわれますが、奇しくもその典型例をコザがつくったことになりますね。
横文字の看板が立ち並ぶゲート通りでは週末ともなると、 さまざまな肌の色をした人々が行き交い、独特の雰囲気でワクワクする。
沖縄返還前の写真は右側通行。
普久原 えっ! 具材ゴロゴロの贅沢マフィンも200円(税込)という嬉しいプライス。 そこも、やはり売春店をやっていたらしい。
こちら「Key Stone」(電話098-929-1081 営業木~日曜、20~27時)では カラオケ一曲100円で、常に洋楽曲が数珠繋ぎにエントリーされていて、 主に日本人以外のお客さんで盛り上がっている。
Aサインバーの壁には名前と日付けが書かれた1ドル札が貼られました。
普久原 そういう歴史的背景を知ると、裏通りも一味違って見えてきますね。
でも、建物を見た限りでは、元カフェーを転用していると思います。 ただし夜の街は自己責任。 コザミュージックタウン音市場から出ると、目の前に延びるのがゲート通り。
11仲村 当時の米兵になったつもりで、彼らの気分を考えながら歩いてたんだよ。
(ツアーの予約方法などは文末に記載あり。
嘉手納基地の第二ゲートにつながる大通りで、昔ながらの飲食店や衣料品店などが並びます。
普久原 ロケ地探しはワクワクしましたね。
松屋食堂 小さなお店ですが、ボリューム満点の沖縄そばやソーキそば、定食などが食べられる人気の食堂です。
特にオススメなのが牛肉100%の手作りハンバーグを使った「チーズバーガー/320円(税込)」。 して記事の信頼性向上にご協力ください。
またやなど多くの米軍基地を抱え、現在でも市の北西部の多くが基地となっている。
沖縄本島の北部には、一度は見てみたい施設が盛りだくさんです。
223番・具志川おもろまち線(琉球バス交通)• 土曜の夜はみんなで楽しもうと言わんばかりのパーティー感覚だ。
「コザ」と親しみを込めて呼ばれるこの街は 米軍基地の門前町として栄え、 今でも地域の36%を占める米軍基地が横たわる。 普久原 諸見百軒通りは、戦後に軍道が敷設される前の旧通りで一九六二年に現在の通り名を決めたようですから、影響がありそうですね。 手始めに「JAGAL」という地名が気になって調べたのですが、「謝苅」(じゃーがる)という地域のことで、旧地名だったため探すのに苦労しました。
20藤井 当時の新聞等を読むと実際にはジープなどの車で乗り付けたようです。 「胡屋」に停車する各社バス系統は、主に下記のとおりです。
そろそろ酔いもまわってきたので、音楽の街らしく、 カラオケバーで締めよう。
ガイドさんの話を聞きながら、より深くコザの歴史や文化に触れることができるのが魅力。
エイサーのまち コザは、戦後復興のシンボルとして、沖縄の伝統芸能のエイサーを盛んに行っていました。
商店街を中心に歩く「After1945~街は歴史博物館~」やナイトスポットを回る「ディープタウン・コザナイト」などさまざまなコースを用意しているので、こちらもチェックしてみてください。 そんなあなたに、三人のおっさんたちが、よりディープな観光を指南いたします。 アーケードのせいで昼なのに暗い印象を受けるからかもしれません。
しかし越来はもともと琉球の中でもかなり由緒ある場所であったのだ。
まずは王道のアメリカン・オールド・ハードロックの店「JET」へ。
下の方は土産物屋とか刺繍屋とかレストランとかショップがあって、比較的「治安」がいいと言われていたみたいです。
これは戦地に赴く米兵が「生きて帰ってこられるように」という願いを込めて貼ったものだそうです。