リスト ハンガリー狂詩曲。 ハンガリー狂詩曲

Hungarian Rhapsody No.2, S.244/2 (Liszt, Franz)

リスト ハンガリー狂詩曲

リストの「ハンガリー狂詩曲」は、ピアニストのレパートリーに欠かせない重要なコンサート・ピースです。 第2番嬰ハ短調、第6番変ニ長調、第12番嬰ハ短調は、特に人気が高く演奏機会の多い作品です。 今回ご紹介する第6番は、最も短く明るい曲想なのでとりわけステージに出しやすい作品だと思います。 リストはハンガリー出身の芸術家として知られていますが、彼が人生の大半を過ごしたのはフランスとドイツでした。 フランス語を巧みに操っていたと言われ、反対にハンガリー語は全く喋れなかったといわれています。 しかし、ある程度直感的に捉え、厳密には本物と異なっている可能性を残していることが、かえって曲のわかりやすさにつながり、多くの人に愛されている理由なのかもしれません。 事実、民謡の研究を本格的に行ったB. バルトークの作品も素晴らしく、よりハンガリー的ですが、リストほどの人気があるとは言えません。 全音の難易度表では、ハンガリー狂詩曲の第2番がF(上級上)となっていますので、この第6番もFと考えて良いと思います。 ですが、弾き方によってFよりもさらに高難度になり得る作品です。 弾き方のコツ このように比較的単純な音楽的構造を持った作品の場合、アーティキュレーションと音量、テンポの対比を明確に表現することで演奏効果が高まります。 アルペジオは、すべての音がマルカートに聴こえるように強いタッチで弾きましょう。 この箇所のクレッシェンドからピアノになる対比も重要ですね。 ピアノになった箇所のアルペジオは、シャボン玉が弾けたような軽いイメージを持ちましょう。 クレッシェンド部分の三度はそれほど困難ではありませんが、ポジションの移動を細かくしなければ少しずつ力が入ってしまいやすい部分です。 このような細かいパッセージはつい走ってしまいがちで難しい部分です。 (個人的にはとても苦手です) ほとんどすべての音が黒鍵になりますね。 例えば4つで1つや、8つで1つなどとグループ化して弾けば楽にはなるのですが、より音を鮮明に弾くためにすべての音を輝かせて弾きましょう。 テンポはもちろん速いですが、指一本一本の速度も高めて、鋭い音で弾き進めていきましょう。 練習は、遅いテンポでポジションのチェックと、鍵盤と指のコンタクトをよく感じ取ることに集中しましょう。 とても活力に満ちた部分です。 senza Ped. と書かれているのは、どの音もぼやけて欲しくないからです。 和声を聴くというよりは、連続した和音が生み出す質感を感じ取るようにすると良いと思います。 とても打楽器的な音色だと思うのです。 フォルテの部分はペダルの指示がありますが、ペダルをあげる箇所も指定されています。 ここであげていなければ、次のスービト・ピアノが不可能になってしまうので注意しましょう。 10度が完璧に弾けない場合は必ずOssiaを選択しましょう。 この部分は響きが大切なので、10度を弾くことそのものが目的になってはいけません。 このような典型的なヴィルトゥオーゾ・ピースの場合、技術的に難しくない箇所がいい加減な扱いになるケースが多いように思います。Andante quasi improvisato と書かれているのが曲者です。 さらにフェルマータも散見されます。 いくらか自由が許されているとはいえ、練習の初期段階ではメトロノームに正確に合わせて練習しましょう。 リストが頻繁に用いる形の一つです。 高い音は右手、低い音は左手で弾いてしまえばとても簡単です。 簡単ですが、耳が追いつく限界の速度を超えないように耳を澄まして練習しましょう。 単純な伴奏と、軽快なメロディーによる曲を締めくくる部分です。 左手は軽快さを演出すること。 右手は相当な余裕を持って弾けるよう練習することと、アーティキュレーションを確実に再現することが大切です。 でなければ同じことの繰り返しばかりでとても聴いていられません。 最後のPresto部分で最高の速度と音量を出せるように、ここに至るまでは余力を残しておきましょう。 ラン・ランやM. アルゲリッチは冒頭部分から、普通の人の全力に近いテンポで弾き、Prestoでは超人的な速度で演奏しています。 一例として、このPresto部分の同音連打だけやや前のめりに弾くとスピード感が出ます。 それが効果的に聴こえるためには、ここまでの部分を同じテンポで表情豊かに弾く必要がありますね。 まとめ テクニックがあればあるほど多くの可能性が広がる作品ではありますが、テクニックに自信がない人にとってもアプローチ次第では魅力的に弾ける作品です!譜読みも比較的優しいので、一度挑戦してみてはいかがでしょうか。

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ハンガリー狂詩曲 フランツ・リスト

リスト ハンガリー狂詩曲

楽曲解説 - ハンガリー狂詩曲 第5番 ホ短調 「悲しい英雄物語」 一般に「ハンガリー狂詩曲」の名で親しまれている作品集は全19曲からなるが、その創作は2期に分かれている。 1851年から53年にかけて出版された第1番から第15番までの作品は、リストが1839年と1846年にハンガリー訪問をしたことがきっかけで作られた作品群がそのルーツとなっている。 一方、第16番から第19番までの作品は、晩年の1882年から85年にかけて作られたものである。 リストが「ハンガリー的なもの」として考えていた音楽が、厳密にはそうではないということは民謡収集などの研究によって今や明白であるが、この曲集はリストなりのハンガリー音楽の研究成果であり、その内容をとがめるのはナンセンスである。 リストの考える「ハンガリー的なもの」とは、ジプシー楽団によって演奏された音楽であり、彼らは聴衆の求めに応じて土着の民謡の他、聴衆になじみの深い音楽などを「彼らのスタイル」で演奏した。 第5番 ホ短調「悲しい英雄物語」。 付点リズムを伴ったアウフタクトをもつ冒頭主題の音型は紛れもなく葬送行進曲である。 この葬送行進曲の部分と、3連音符の伴奏の上に甘美な旋律が歌われる部分が交互にあらわれる構成。 レヴィツキ伯爵夫人に献呈。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 作曲家解説 - リスト,フランツ ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。 本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。 ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。 神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。 若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。 これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。 また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。 その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。 が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。 1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。 ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。 また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。 やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。 晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。 生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。 リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。 また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。 更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 演奏家解説 - シフラ,ジョルジュ ハンガリー出身のピアニスト。 超絶技巧で名高い。 Gyorgy Cziffra とも明記する。 ブダペストにてロマの家系に生まれる。 5歳のときに、居酒屋やサーカスで民謡を主題とする即興演奏を行なって有名になる。 ブダペストのフランツ・リスト音楽院に入学し、エルネー・ドホナーニらに師事。 実際のところ生演奏では、シフラの豪快な演奏に酔いしれた聴衆が、演奏の途中でやんやの大喝采を送ることも稀ではなかった。 いずれにせよシフラが不世出のヴィルトゥオーソであり、即興演奏の達人であった事実はほとんど疑いようがない。 楽曲解説 - ハンガリー狂詩曲 第5番 ホ短調 「悲しい英雄物語」 一般に「ハンガリー狂詩曲」の名で親しまれている作品集は全19曲からなるが、その創作は2期に分かれている。 1851年から53年にかけて出版された第1番から第15番までの作品は、リストが1839年と1846年にハンガリー訪問をしたことがきっかけで作られた作品群がそのルーツとなっている。 一方、第16番から第19番までの作品は、晩年の1882年から85年にかけて作られたものである。 リストが「ハンガリー的なもの」として考えていた音楽が、厳密にはそうではないということは民謡収集などの研究によって今や明白であるが、この曲集はリストなりのハンガリー音楽の研究成果であり、その内容をとがめるのはナンセンスである。 リストの考える「ハンガリー的なもの」とは、ジプシー楽団によって演奏された音楽であり、彼らは聴衆の求めに応じて土着の民謡の他、聴衆になじみの深い音楽などを「彼らのスタイル」で演奏した。 第5番 ホ短調「悲しい英雄物語」。 付点リズムを伴ったアウフタクトをもつ冒頭主題の音型は紛れもなく葬送行進曲である。 この葬送行進曲の部分と、3連音符の伴奏の上に甘美な旋律が歌われる部分が交互にあらわれる構成。 レヴィツキ伯爵夫人に献呈。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 作曲家解説 - リスト,フランツ ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。 本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。 ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。 神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。 若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。 これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。 また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。 その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。 が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。 1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。 ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。 また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。 やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。 晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。 生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。 リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。 また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。 更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 演奏家解説 - カンパネッラ,ミッチェル イタリア出身のピアニスト。 楽曲解説 - ハンガリー狂詩曲 第5番 ホ短調 「悲しい英雄物語」 一般に「ハンガリー狂詩曲」の名で親しまれている作品集は全19曲からなるが、その創作は2期に分かれている。 1851年から53年にかけて出版された第1番から第15番までの作品は、リストが1839年と1846年にハンガリー訪問をしたことがきっかけで作られた作品群がそのルーツとなっている。 一方、第16番から第19番までの作品は、晩年の1882年から85年にかけて作られたものである。 リストが「ハンガリー的なもの」として考えていた音楽が、厳密にはそうではないということは民謡収集などの研究によって今や明白であるが、この曲集はリストなりのハンガリー音楽の研究成果であり、その内容をとがめるのはナンセンスである。 リストの考える「ハンガリー的なもの」とは、ジプシー楽団によって演奏された音楽であり、彼らは聴衆の求めに応じて土着の民謡の他、聴衆になじみの深い音楽などを「彼らのスタイル」で演奏した。 第5番 ホ短調「悲しい英雄物語」。 付点リズムを伴ったアウフタクトをもつ冒頭主題の音型は紛れもなく葬送行進曲である。 この葬送行進曲の部分と、3連音符の伴奏の上に甘美な旋律が歌われる部分が交互にあらわれる構成。 レヴィツキ伯爵夫人に献呈。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 作曲家解説 - リスト,フランツ ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。 本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。 ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。 神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。 若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。 これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。 また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。 その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。 が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。 1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。 ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。 また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。 やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。 晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。 生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。 リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。 また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。 更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 演奏家解説 - ピサロ,アルトゥール ポルトガル、リスボン生まれのピアニスト。 楽曲解説 - ハンガリー狂詩曲 第5番 ホ短調 「悲しい英雄物語」 一般に「ハンガリー狂詩曲」の名で親しまれている作品集は全19曲からなるが、その創作は2期に分かれている。 1851年から53年にかけて出版された第1番から第15番までの作品は、リストが1839年と1846年にハンガリー訪問をしたことがきっかけで作られた作品群がそのルーツとなっている。 一方、第16番から第19番までの作品は、晩年の1882年から85年にかけて作られたものである。 リストが「ハンガリー的なもの」として考えていた音楽が、厳密にはそうではないということは民謡収集などの研究によって今や明白であるが、この曲集はリストなりのハンガリー音楽の研究成果であり、その内容をとがめるのはナンセンスである。 リストの考える「ハンガリー的なもの」とは、ジプシー楽団によって演奏された音楽であり、彼らは聴衆の求めに応じて土着の民謡の他、聴衆になじみの深い音楽などを「彼らのスタイル」で演奏した。 第5番 ホ短調「悲しい英雄物語」。 付点リズムを伴ったアウフタクトをもつ冒頭主題の音型は紛れもなく葬送行進曲である。 この葬送行進曲の部分と、3連音符の伴奏の上に甘美な旋律が歌われる部分が交互にあらわれる構成。 レヴィツキ伯爵夫人に献呈。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 作曲家解説 - リスト,フランツ ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。 本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。 ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ローマで活躍した。 神童としてヴィーン、次いでパリにデビューした。 若くして演奏家として名を挙げたリストは、しかし、いったん華やかな社交界を辞してスイスへ移り住み、自らの音楽性を探求する日々を送る。 これが《旅人のアルバム》、《巡礼の年報》に実を結んだ。 また、39年にイタリアで表舞台に復帰した後に《ダンテを読んで》《ペトラルカのソネット》などが生まれるのも、その延長上の成果である。 その後の8年間でリストは、ヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパ全土に熱狂を巻き起こした。 が、演奏旅行に明け暮れる生活をやめ、作曲に専念することを決意する。 1848年、ヴァイマル宮廷楽団の常任指揮者となり、居を構えた。 ここでリストは、自らの管弦楽曲、とりわけ交響詩と標題交響曲のための実験を繰り返し、大規模作品を完成させていく。 また鍵盤作品にも《超絶技巧練習曲》、ピアノ・ソナタロ短調などがある。 しかし53年にヴァイマル大公が代替わりすると、61年にはローマへ赴いた。 やがてまた、69年にはヴァイマルでピアノの教授活動を再開、のちにブダペストでもピアノのレッスンをうけもち、ローマと併せて3つの都市を行き来する生活となった。 晩年は彼のもとを訪れた多くの音楽家を温かく励まし、優れた弟子を世に送り出した。 生涯を通じて音楽の未来を信じ、つねに音楽の歴史の「前衛」であろうとした。 リストが音楽史上最大の技術を持つピアニストであったことは、彼が「自分のために」作曲した数々の難曲と、当時の演奏会評から確かめられよう。 また、レパートリーもきわめて広範囲に及び、当時はまだ決して一般に広まっていたとはいえないバッハの対位法作品から、音楽的に対立する党派といわれたシューマンの作品まで、ありとあらゆるものを取り上げた。 更にリストは、従来さまざまなジャンルや編成と複数の出演者で行っていた公開演奏会の形式を改め、自分ひとりで弾きとおすリサイタルを始め、集中力のより高い演奏会を作り出した。 「ピティナ・ピアノ曲事典」より 演奏家解説 - カツァリス,シプリアン マルセイユでギリシア系キプロス人の家庭に生まれる。 両親と共にアフリカのカメルーンに移住。 4歳でピアノのレッスンを始める。 1964年、パリ音楽院に入学。 ピアノをアリーヌ・ヴァン・バランヅァンとモニーク・ド・ラ・ブリュショルリに師事。 1969年、ピアノで最優秀賞を受ける。 さらに室内楽をルネ・ルロワとジャン・ユボーに学び、1970年に最優秀賞を受ける。 1966年5月8日、シャンゼリゼ劇場にて、パリで最初の公開コンサートを開く。 1974年、ヴェルサイユでジョルジュ・シフラ国際ピアノコンクールに出場し、最優秀賞を受けたことが彼のキャリアの始まりとなった。。 演奏は超絶技巧的な面と詩人的な面を併せ持ち、内声の処理が非常に巧みである。 現在は、カツァリス自身が設立したレーベル「PIANO21」において様々なレコーディングや自身の過去の録音の復刻を行っている。

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Hungarian Rhapsody No.2, S.244/2 (Liszt, Franz)

リスト ハンガリー狂詩曲

19曲中最初の15曲は1853年に出版されました。 残りの4曲は晩年の1882年から1885年に加えられました。 リストはハンガリー語が話せない!? リストはハンガリー出身ではありますが、「ハンガリー語は話せなかったのでは?」という説があります。 彼はハンガリー王国のドイツ語圏内の地域で生まれたため、幼少期はドイツ語で過ごしたそうです。 またパリに移ってからはフランス語をよく使っていたそうです。 実際にリストの作曲した歌曲の多くはドイツ語のものでした。 リストが母国ハンガリーを表現した作品 この作品集は、作品名に現れている通り、リストが母国ハンガリーを表現した作品です。 リストは18世紀後半からから19世紀半ばにハンガリーで流行したダンス音楽「ヴェルブンコシュ」に影響を受けたそうです。 リストは、いわゆる「リスト流のオリジナルのハンガリーの音楽」で音楽を表現しました。 実際、リストが「ハンガリーの音楽」だと思って取り入れた一部の音楽は、ロマ(ジプシー)が演奏していた曲でした。

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