しかし、今回出演した人々は、むしろ叫んでも解決しない問題と人生を通して向き合ってきたのであって、その複雑性を「声枯れるまで」叫ぶという行為に単純化してしまうことの危険性と違和感がある。 むしろ「揺らぎ」を「揺らぎ」のまま捉えること、つまり名指ししたことで逃げてしまうものをも捉えることによってしかこの作品は完成しないはずだ。 また、LGBTQがジェンダー平等に含まれるか否かということを問題にしたいわけでもない。
11しかしここではジェンダー平等の試み自体を批判したいわけではない。
それは例えばあいちトリエンナーレ2019が「国際芸術祭に追いつき追い越せ」というキャッチアップ・モデルになっていたことや、「表現の自由」対「検閲とテロ」という境界が固定化された政治論争になってしまったことに端的に表れている。
しかし、そこに関してほとんど何の対策もなされていなかったことにより、本来のメッセージとは真逆のメッセージを発信する危険性のある鑑賞体験になってしまっていたように思えた。
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しかしその叫びのスタイル自体は3人ともほとんど変わらない。 近所迷惑として掻き消されそうになる声。
ではこれらに共通して抜け落ちていた問題とは何か。
注 1 "「ジェンダー平等は美術界の国際的潮流になる」。
内容はラジカセにセットしたカセットテープを「巻き戻し」て「再生」することで聴くことができる。
それは単純に自己で命名し直している上に、トランスジェンダーやXジェンダーであり、かつアート作品に出演協力してもらえるケース自体が非常に稀であるという事情に起因するのかもしれない。 母親との噛み合わない会話と共同作業。
そこには相互的に複雑な愛と理解のできなさが横たわっている。
com' are trademarks of A Red Ventures Company. それはクィアにおける境界に対する「揺らぎ」の問題である。
ってこれ何回目だ 笑 頑張ります。
実際には画面が暗転しているので肩を組んでいたかは分からないが、叫び終了後に一瞬そのような映像が映ったりもした。 それなのにも関わらずどこか牧歌的な雰囲気を漂わせ、身構えずに長編の映像を見続けられるのは偏にキュンチョメのインタビューと編集能力の高さによるものだろう。
13次に3の「ケースの数と多様性」について考えてみたい。 もうあれは反則です。
だとするならば、この先幾らクィアにおけるFTM、Xジェンダー、MTFといったケースの数と多様性を増やしていったとしても、それは「男女という境界」を揺らがした先に作られたカテゴリーを再度固定化することに他ならず、それではクィアの本質に触れられないことになる。
Copyright c A Red Ventures Company. あんな近い距離で彼らを観たのは初めてでした。
7 千葉雅也(2013)『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社, pp. またXジェンダーとは出生時の男性や女性という性別の割り当てや枠組み自体に対して違和感を感じる人々のことだ。
ゆるです。
叫びというのは名前の記号性を抜きにして、既に非常に強いメッセージである。
何故か体育会系スタイルなのである。
キュンチョメは確かに《声枯れるまで》によって、ジェンダー平等と情の時代というテーマに批判的かつ独自の視点から応答してみせることで、鑑賞者に「揺らぎ」をもたらした。
あーいま思い出しても幸せです。
その上で「声枯れるまで」叫ぶというステレオタイプかつホモソーシャル的な方法によって、名前についての「揺らぎ」は叫びとして固定化され、直情的な情の回路に接続されてしまった。 わたしは行けるか微妙でしたが新潟が幸せすぎて行くことを決意しました。
錦戸さんの誕生日は大々的には祝わなかったけれど、エイトレンジャーですばちゃんにちゃんとツッコミが出来すぎてた錦戸さんや、自分で「誕生日おめでとう」みたいな発言を何度もしていたりといろいろスペシャルでした。
そのようなスペクトラムの「揺らぎ」を認識せずに、「表現の自由」対「検閲とテロ」という白黒問題として認識してしまうことこそが、膠着状態を形成している原因だろう。
手術の金銭的、身体的痛み。