) 寫懷二句 片戀や夕冷え冷えと竹婦人 靑奴わが楊州の夢を知るや否 (三七九 一月二十九日 池崎忠孝宛。 しかし、「詩歌は余技」と括ることにどのような意味があるのだろうか。
7俳人として多くの名句を残した俳人も数多くいますが、夏目漱石や芥川龍之介など、小説家として名を成した文学者もいます。 なお、これに先立つ八月二十五日、芥川は十六歳の女学生であった塚本文にプロポーズの手紙(二二二書簡)を書いている。
) 偶感 花曇り捨てて悔なき古戀や (二八八 五月十七日 松岡讓宛。
) 高著を眺めながら思ひついた句一 春近し開眼申す 盧遮那 るしやな佛 (523 十二月二十六日 和辻哲郎宛。
丁度この頃に、菅忠雄(一高時代の恩師菅虎雄の長男)の紹介で、鎌倉在の高濱虚子の指導を受け始め、この前後に発行されたと思われる『ホトトギス』五月号に、初めて 熱を病んで櫻明りにふるへ居る 冷眼に梨花見て轎を急がせし の二句が所載されている。
ましてや「余技だからこそ、予期せぬ 佳作を生み出すことができた」とか「余技だからこそ、信実の己の姿を出すことができた」といった物言いが何も語っていないことは、多くが知っているところだ。 ) たそがるる菊の白さや遠き人 白菊や匀にもある影日なた (三五五 十一月二十五日 池崎忠孝宛。 (略)僕はその何かに-ぼんやりした緑いろの何かに不思議にも心を惹かれるのである」。
季語 この句の季語は 「木枯らし」で、季節は 「冬」を示します。
だが、「さわぐ」無数の空からの、「ちらちらする 光」は危険を孕む光なのである。
水洟や鼻の先だけ暮れ残る 龍之介の辞世の句といわれている。
この葉書は芥川の自像写真の葉書とある。
斎藤茂吉にあけて貰つたのである。 也寸志は管弦楽のようなオーケストラで使われる曲だけではなく、合唱曲や校歌、または映画やテレビなどのBGMなど数々の曲を世に送り出しています。
9「なつかしき人形町の二月月はも。 *初出:「歌壇」 1996年6月号(特集・短歌と他ジャンルの文学). 友人井川の長男出生の祝い句。
茂吉はその折は元気でしたが、翌年1月に、これもスペイン風邪にかかって、2月になるまで長期の療養を余儀なくされています。
Baudelaie 徂く春の人の名問へばぽん太とぞ その人の舞へるに 行けや春とうと入れたる足拍子 その人のわが上を問へるに 暮るるらむ春はさびしき法師にも われとわが睫毛見てあり暮るる春 一九一七年日本の詩人思を日本の校書に寄するの句を録す。
) ふるさとを思ふ病に暑き秋 (四四四 八月三十一日 小島政二郎宛。
なお、五月一日にはを『新思潮』三号に発表、「虱」十二枚を雑誌『希望』に発表して、初めて三円六十銭の原稿料を得る。
兎も片耳垂るる大暑かな 動物は、暑くても何一つ文句も言わない。
全文掲載した。
冷たい金属の機械であるゼンマイを、花の蜜を吸っている蝶の舌に擬したことで、「暑さかな」の詠嘆は、より重量感を増して感じられてくる。
しかし「緑いろの何か」は心身ともに弱っていた芥川を道に迷わせ、詩歌に対する眼を開いてくれたと芥川自身が語る歌人・斎藤茂吉は、緑と補色をなす赤い光で芥川を撃ったのである。
最後の「外套」は、恐らく書籍で、ゴーゴリの「外套」のことであろう)。 これは葉書であるが、かなり細字で記したものと思われ、この駄弁の後半部では服部嵐雪の「稻妻にけしからぬ巫女が目ざしやな」の句に感服したと言い、大島蓼太の「阿房宮賦をよむ」の前書を持つ「鬼灯や三千人の秋のこゑ」や「明易きあさがほつまむ星ひと夜」「あけぼのの靑き中より一葉かな」を佳句として掲げたりし、一向に句がうまくならないとぼやいている。 浮世の垢をすべて洗い落としたような爽やかな踊りで、踊りはああでなくてはならない。
多加志の名前も父・龍之介の親友である画家・小穴隆一 おあなりゅういち の隆の字を訓読みにして万葉仮名を当てた名前です。
反りのない真直ぐな竹製の縦笛。
体言止め「海の色」 体言止めとは、文や句の終わりを名詞・体言で終わる技法のことを言い、 句に余韻を残したり、強調する効果があります。
しかし、直後の二十日にはの連載が始まっている。
) 春雨の夜を佐殿の風呂長し 白梅や夕雨寒き士族町 寂として南殿さびしき春の雨 秋雨や大極殿の雨の漏 (一八五 十月三十日 山本喜譽司宛。 骨格の確かさと繊細な感覚が、芥川の句の大きな魅力である。 底本では詞書は句の後ろについている。
12) *俳句関連記載 (現存する書簡中では、十二月十一日附下島勳宛三六一書簡で初めて「我鬼」の俳号を用いている。
当時の転居地の住所表示は「北豐島郡瀧野川町字田端四百三十五番地」であった。
「水松」はミル。
この作品で同時に人間社会を否定していたのかもしれません。
ちなみに、養母トモは幕末の豪商にして通人、俳人細木香以の姪であることは、森鷗外の「細木香以」にも載る。
雨の向こう側より現れるかのように。
) 書懷 冷眼に梨花見て轎を急がせし (四〇八 四月二十九日 松岡讓宛。
2005-05-16 公開. そのなかに紛れ込んでいる氏の姿も立ち上がるだろう。
但し、この句の「横笛堂」とは、手紙文末尾、俳句の直前に「三溪園そのものの冬枯も甚面白く思ひました」とあるので、原の父が園主である三渓園の中の横笛庵のことを指すと思われる。
夜半の静けさ、やや不気味な無音のがらんとした空間がみえてくる。
「馬頭」は馬頭観音。
俳句はどうかというと、これもまた漱石の俳句とはまったく違います。
そこには「歌集『赤光』の再版を送りますから…」と書かれていたのだ。
行水の捨湯蛙を殺したり 一日の疲れを落とすように、一気に湯を流す。
実際に龍之介と文は知り合って間もない大正5年 1916年 には縁談契約を交わしていたり3年の交際期間を経て結婚した後は龍之介が海軍機関学校に赴任することになった際に同行し鎌倉で新婚生活を送りました。
それをもって俳人としての柄は漱石の方が大きいとする評者が多い。