そして面白いことにもう一つ気付いた。 私が「ナナオさんですか?」と訊くと、「やあ」という気さくな返事が返ってきた。 「あかんもんはあかんのです」 刀を杖のようにした所作など江戸の頃には存在しないでしょうし、そもそも現天心流兵法の存在そのものが否。
3新宿ロフト前、コマ劇場裏の夜の雑踏の中に、艶々した白髪とたっぷりの髭をたくわえ、大きなリュックサックを背負った一人の老人が立っていた。 部族は諏訪之瀬島や富士見高原、東京の国分寺などに拠点を作り、そこで近代文明を否定して自然と共存する新しいライフスタイルを創出しようとした。
古畑任三郎でした。
後に日本のヒッピーの元祖と呼ばれるこの「部族」のリーダーがナナオサカキだったのだ。
ナナオという人間の中に広がる森はあまりにも深く広大だ。
このイベントでナナオサカキがポエトリーリーディングを行うことになっており、このためにナナオは南伊豆からやってくるという。 さて、悪魔の証明なるものは不可能であるが、証明できないのならそれはあくまでグレーだとするのは大間違い。 50年代、アメリカ西海岸を中心に巻き起こったビートニクあるいはヒッピーのムーヴメントは、1960年の安保闘争が終焉した日本、そして新宿に飛び火していた。
16そして客席を見渡したナナオは一言こうつぶやいた。 その度にナナオは「そうそう、うまいぞ!」と嬉しそうに笑った。
ナナオは電話を持たない。
」とナナオの独自な詩の世界を表現している。
ひょんなことからその森の中に迷い込み、すっかり帰り道も忘れてさまよい歩く私は、ナナオについて発見したものや体験したことの断片をたどたどしく記すのが精一杯だ。
その後、ゲーリーは帰国し北カリフォルニアのシエラネバダ山麓で自らの思想の実践を始め、山尾三省は屋久島の廃村に移住してゲーリー同様、自然と共存する生活を始めた。 ゲーリーらビートニクとの出会いの後は世界を歩き回るようになり、旅は今も終わることがない。
11すると今度は手笛を吹き始め、周りのキッズ達もそれを真似する。 すると客電の落とされたフロアを見たナナオは、スタッフにライトを点けてくれと頼んだ。
笛を吹き、リュックを背負ったその姿はまるでナナオそのものだ。
そして彼らの中の一部は、まるでJ・ケルアック作のビート文学を代表する小説『路上』の主人公、サル・パラダイスとディーン・モリアーティのように日本国内や海外を放浪し、やがて「部族」というコミューンを結成した。
もちろんゲーリー・スナイダーもエコロジー思想のリーダーとして活躍しているし、残念ながら故人となってしまった山尾三省の思想も今なお強い影響を与え続けている。
日本語最新詩集。 ナナオを紹介してくれたお茶の水のエコロジーショップ「GAIA」の南兵衛は、数週間前に手紙でこのイベントのことを伝えたきりだと言う。 その音色はまるで深夜の歌舞伎町に今夜だけ棲息するフクロウのようだ。
4ツイッターで私に対するお門違いの反論にいいねやツイートをつける人の共通点。 彼らの最新の思想と代表的な詩に触れることができる入門書的な一冊。
ある時、人から血筋について訊ねられたナナオは「私には血筋などはない。
ライブを観に来たキッズ達が次第に集まってくる。
出番を待ちながらラウンジで楽しそうにビールを飲むナナオは、やがてリュックから見たこともない笛を取り出し吹き始めた。
私は砂漠のネズミだ」と答えたという。 従来の権威を否定し、新しい精神の在り方を模索しようとする多くの若者達が新宿のジャズ喫茶や今はなき「風月堂」などに集まってきたのだ。 ステージに現れた見慣れない老人に客席は興味を注ぐ。
20こうした数限りない放浪で得た経験と思索は長い間に深く熟成され、それは詩として生み落とされた。
1986年には朋友・ゲーリーやギンズバーグらと共に、石垣島白保のサンゴ礁を空港建設から守るための運動を展開し、また、長良川、諫早湾などの保護、広島、長崎での反核を訴える行進や集会にも積極的に参加している。
全て状況証拠で捜査するのは拙いかもしれないが、狡猾な者には状況証拠で攻めて行かねばならないことは多々ある。
もちろんナナオだった。
なんだこの人は? などと思うかもしれない。 ナナオの力強い詩と行動力は、世界中の多くの人達に影響を与えており、特にヒッピーカルチャーの流れを汲むニューエイジやレイヴ・カルチャーの人達、あるいは自然保護、反戦平和、反原発などに携わるアクティヴィスト達に対しては、未来を考える上での力強い指針を与えている。
私は、ナナオの詩を読むといつもそこに、地球上の自然に対する畏敬と感謝、戦争や環境破壊の愚かしさに対する怒りとあきらめ、それでもなお人間に対する深い愛情を感じることができる。
部族にはナナオの他に山尾三省、長沢哲夫、加藤衛らがメンバーとしており、部族の拠点には多くのヒッピー達が出入りするようになった。
戦後は闇市を徘徊し、やがて旅回りの芸術家として日本全国を放浪する。
ナナオサカキが最初に多くの人に知られるようになったのは、1960年代の新宿だった。 。 詩は英語をはじめ様々な外国語に訳されており、語学に堪能なナナオは海外でのリーディングにもよく招かれる。
17しかしほとんどの者はうまく吹けない(もちろん私も)。
このプロフィールにしても周りの人が作ったもののようで、所有を嫌うナナオは肩書きすらも自分に持たない。
昨年、現在のエコロジーの潮流をわかりやすくまとめベストセラーになった本『スロー・イズ・ビューティフル』の著者・辻信一は、その本の中でナナオサカキや山尾三省の詩を大きく取り上げていたが、このことからもナナオが、現在のカウンター・カルチャー/アクティヴィスト達の最前線に現役として立っていることがわかる。
(…)知性や教養のためでなく、生のために、生きた生の軌跡としてここにある。
見よう見まねで懸命に手笛を吹くキッズの中から一人また一人音が鳴り出す。
2002年3月9日。
今回はかなり辛辣にとある人物の言動について指摘されている。
服装こそ周囲から浮いて見えるが、ナナオの姿は夜の新宿の街にひときわ溶け込んでいる。
ゲーリーは、 「ななおの詩は、手や頭で書かれたものではなく、足で書いたものである。 初めて渓流詩人さんのブログを見る人、これまでの経緯を知らずに突然この記事から読み始める人は、 渓流詩人なる人物は根性ひん曲がってるな。
20それは… 続きはCMの後で。
「今の子達は手笛も吹けないのかい?」と不満をもらしながらも、ナナオは根気よく手笛を続ける。
昭和(平成かな?)に創作された古武術風殺陣であると私は考えている。
やがてナナオの出番が来た。