家を出た十字路には小さい地蔵の石の祠(ほこら)があり、小川にかかる石橋は久しく忘れかけていた故郷の原風景を追想させ、堰(せき)を切ったように数々の作品がうまれ、昭和22(1947)年、第四詩集「反響」が編まれました。 伊東静雄は保田與重郎に師事しただけに、強い思想性にひたっていたことは間違いがありません。
4大正の貴族社会を舞台にした『春の雪』。 戒名は文林院静光詩仙居士。
この世でいちばんきれいな青は、空の青なんじゃないかというくらいですね。
「これからの新しい文学は、自分の心理や何やらをほじくったりするものでなく、また身辺小説でもなく、ひとつの大きな歴史に人が出交すそのさまを、くどくどしたことは書かずにそのまま述べてゆく(源平盛衰記、平家物語などのように)、そんなのがいい」 「理屈や心理のかげ、自己探求などちっともない、壮大な筆致が必要だということ」 国文学の読み方については、 「和文脈の中心となるものは、先ず源氏物語、伊勢物語、枕草子、徒然草、倭漢朗詠集の五つ、日本の美感はこれに尽されている。
そしてこんなことも。
140件のビュー• その授業は厳格だったという。
背伸びした無理な文章」などの酷評が残されている。
「無辺の広大な讃歌」「音なき空虚」などという表現を読んでいると、そこに静かな風景が見て取れます。
昭和15(1940)年に第二詩集「夏花」を、昭和18(1943)年には第三詩集「春のいそぎ」を刊行した。
〔初出〕詩マガジン『PO』110号/特集「伊東静雄」 平成15年8月20日発行 (平成15年4月稿/副題は後に付加). 現在、古い詩の入門書を読み返しているのですが、昔の文学者は実に文学を深く学んでいたし、純粋に文学を愛していていたことが、読めば読むほどこちらに伝わってきます。 ———————- 春の雪 みささぎにふるはるの雪 枝透 す きてあかるき木々に つもるともえせぬけはひは なく聲のけさはきこえず まなこ閉ぢ百 もも ゐむ鳥の しづかなるはねにかつ消え ながめゐしわれが想ひに 下草のしめりもかすか 春來むとゆきふるあした この詩をこよなく愛したのは作家三島由紀夫です。
33件のビュー• 学校でも滅多に扱うことがありませんね。
335件のビュー•。
そう云いながら、きれいに先生は食べてしまわれた。
やがて古希を迎える私は、この詩を初めて読んだとき、この詩の持つ「死の高貴性」に打たれた。 この作品の持つ緊張感、清冽さ、厳しさ、過酷さは、純潔な魂の結晶であり、生きることの核心を照射しているように感じられてなりません。
12在学中の昭和3(1928)年、懸賞(けんしょう)募集児童映画脚本の童話「美しき朋輩達」が一等当選となり、映画化される。 編者の柊和典・・上野武彦3名は、伊東が住吉中学校(旧制)の教員時の生徒。
入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
忌日に近い3月末の日曜日には、菜の花忌として顕彰。
悪口を言つた人間に慇懃にすることは、 一 ( いつ )の 美徳で、この美徳に会つてくづほれぬ人間は 少ない。
いつも汚い手ぬぐいをぶらさげた国語の先生でした。 昭和十七年四月、庄野潤三は九州帝国大学法文学部東洋史学科に入学する。
1930年代といえば、日本が軍国主義へ傾いていく時期でした。
静雄は、柩 ひつぎ)を乗せて高地を下る人々を描いた、アルプス画家「セガンティーニ」の作品「帰郷」という油絵から詩想を得て、この詩を詠んだといわれる。
『伊東静雄詩集』思潮社 現代詩文庫、初版1980年• また別の日には、 「この頃は、女の人を美しく思わなくなったから、駄目だ」などとも。
リアリストというよりも、ごく常識的な日常生活に密着した平衡感覚ともいえる。 それはたとえばこんな言葉からも察せられる。
そこでたつた一つ方法が私に残る。
しかしここではあくまでも彼の持っていた精神世界に着目してください。
右翼的青年の行動を描いた『奔馬』。
三島由紀夫は「究極の小説」を目指したといわれています。
心の琴線を激しく刺戟する詩人もいる。
45件のビュー• 詩作活動に耽る傍ら、の教員としても勤務するという「二足の草鞋」となり、生涯教職から離れなかった。
『作家の自伝69 伊東静雄 詩集わがひとに与ふる哀歌/京都』久米依子編、、1998年• 短い言葉の連なりの中に凝縮されているのは、苛烈なまでの生の真実だと感じ入りました。
のち『呂』を離れて、同人誌『コギト』に専念する。
本当に好きな僅かの人だけに愛されている詩人です。 この前後二、三年の日記には、教務における心労、転任希望が受け入れられないことへの不満、子供の養育をめぐる心理的圧迫、家庭生活への違和感(ただしこれは家庭が不和だというのではなく、家族円満のうちにもあらわれる漠然とした一種の疎外感であったり逃避願望であるのだが)を時には綴っていることもある。
「春の雪」はこの住居付近の情景を伝えている。
しかもそれは、素材を提供した庄野自身の体験ですらない。
しかし、伊東静雄ほど何か平常心ではいられなくする詩人はいない。
田中俊廣『痛き夢の行方 伊東静雄論』日本図書センター 2003年• この詩を「伊藤静雄」は30歳の時に書いたそうです。 45件のビュー• 登場人物の中で最後まで生き残って全てを語るのはワキの役に相当する本多繁邦です。 とも交流があり、蓮田が最後に出征する際、蓮田の乗った列車をで見送っている。
16夏の空。
三島は十代後半に、生涯一度だけ大阪で会っている。
庄野に言わせれば「だいぶロマンチックな趣向」になっているという具合だ。
それは 自分で自分にクセニエを寄することである。