永享の乱 持氏は翌年自害。 山城とはもとからある地形を活かし、狭い街道を挟んだ小高い山に曲輪(くるわ:堀やで囲まれた区画)や馬出(うまだし:出入り口の前に作られた囲み。
後々の話ではありますが、和歌を詠んだり歌合せを行ったり、歌の世界でも名を馳せた、文人としても知られる人物だったのです。
蓑を借りたいのだ」 と声を荒げるが、娘は押し黙るのみ。
和歌に造詣が深く、聡明 後年、道灌の歌の友となる。
さらに1467年(応仁元年)になると、京都では応仁の乱が勃発。 このことを聞きつけた道灌は猿の飼育をしている役人に金を渡して、その猿を謁見の前に借りることにしました。
15道灌の父・道真(資清1411~1488)は扇谷上杉家・家宰として馬上に打ち物取っては並ぶものなき武将で、そのうえ連歌の達者としても知られていたのですが、ある事件をきっかけに家督を道灌に譲ります。
危険を感じた道灌は、忠景を一時退けるべきと混乱を避けるための策を上杉顕定に進言しますが、全て却下。
解説 有名な太田道灌の「山吹の里」の伝説にちなんだ詩です。
山吹色でも知られるように鮮やかな赤みを帯びた黄色い花を咲かせる花です。
紋様となっている桔梗は、秋の七草でもありまさに適時となりました。
「人は知恵が過ぎれば大きな嘘に走り、知恵が足らねば災いを招く。
彼の活躍で、扇谷上杉家の勢力は増大していきました。
当初は鎌倉入りする予定だったのですが、入ることが出来ずに伊豆の堀越に留まることになったため、やむを得ずに「堀越公方」を名乗ることになったと言われています。
この事件の真相については諸説ありますが、 道灌のポテンシャルの高さと下剋上を恐れた当時の主君が、自ら暗殺計画を企てたのでは…、ともいわれています。
19幼名は鶴千代と名乗っていたそうですが、生誕の地がどこであるかは不明。 紅皿は、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩りに来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立寄ったところ、その家の娘が庭の山吹の一枝をさし出して断った。
もし生きていれば、西郷隆盛、大久保利通らを超える歴史的知名度があったと言っても過言ではない、有能すぎるナンバー2・小松帯刀を紹介します。
「足軽戦法」とは徒歩部隊でも、百姓などの素人を集めたものではなく、身軽なフットワークの軽い兵を集めたものです。
1455年 康正元年 室町幕府は公方足利成氏の討伐を下知。
太田道灌にゆかりのある埼玉県川越市とも連動し、 2020年2月20日までに約24万件の署名を集めました。 足軽はもともと戦闘員ではなく、兵站など後方任務を担う存在でした。
太田一族が使えていた上杉氏とは、鎌倉幕府時代に京都から関東にやってきて将軍に仕え武家化した一族で、もとは藤原氏の流れを汲むとも言われています。 主君の山内上杉顕定は、弟:長尾忠景を後継者として家宰職を与えてしまいます。
関東での情勢はさらに複雑になっていきますが、1467年には応仁の乱が勃発し、京都の室町幕府も収拾がつかない状態になっていきます。
皇居内に「道灌濠」という濠があることをご存知でしょうか。
あらすじ [ ] 「岩田のご隠居」宅に遊びに来たは、隠居に張りまぜ(=複数の絵を貼った)のを見せてもらう。
道灌が若い頃、鷹狩に行く途中で、にわか雨に打たれてしまいました。 おかげで濡れて帰ってきたのだよ…」 知り合いは少し考えてからこう言いました。
持資後に道灌と称す。
花を求めたのではないのにと、道灌は娘の真意もわからぬまま怒って立ち去りました。
千鳥の声遠く聞えつ」と言ひけり。
文武両道。