治部少輔、戸次親宗の子• 幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後妻での姉)によって育てられた。 (内田壱岐守、元叙、玄恕、鎮次の次男)• そして、戦歴は大戦37回、小戦百余回、その中に軍事総指揮は主君・大友宗麟であった状況を除いて、自ら総大将となった戦いはほぼ無敗の戦績であり、軍神として誉めたたえられた。 天文15年()のの一度目の謀反の時には、大友義鑑の命令を受け、、、など大友諸将と共に筑前へ出陣、この乱も鎮圧した。
13この道雪の睨んだ目に狂いは無かった」と周囲にもわかるように賞賛・激励した。 (安東市允、記介、連信の子)• 元年()に従軍し、佐賀城を包囲する4月23日に局地戦の巨勢・若宮の戦いで龍造寺隆信、と交戦した際、戦いで初めて輿に乗った記述がある。
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どうも貞保(宗仙)はこの勇猛な忠臣に一目置き、好感を持っていたようである。
天正9年()、同じ大友氏の一族・家臣であり、道雪と同じく高橋氏の名跡を継いでいたの子・をに迎え、家督を譲っている。
「立齋公御咄之覺」《旧柳河藩志》第五章・行政、第二節・柳河再城時代 P. 残された道雪、紹運や朽網鑑康、らは、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える。
19こうした大友方の苦戦を目の当たりにした筑前国衆からは9月以降、やなどの離反者が相次ぐことになった。 道雪はお色姫の輿に付き添った石松加賀守秀兼に、中国で見聞きした毛利元就の軍法や合戦を語らせた。
これが乱世を生き抜く術だと書き遺したのである。
2月17日 岩屋城下の戦い:高橋軍・対筑紫広門• (福有備後守)• (内田民部少輔、鎮次の長男、宝満城に高橋鑑種討伐の際、道雪の身代となって矢を受けて戦死)• 天正12年(1584年)• 間もなく種実は道雪の予見通り、再び大友軍の臼杵鑑速とを夜襲して同士討ちを発生させた、道雪は冷静にこれに対処し、臼杵・吉弘軍を収容した後に撤退を指揮したが、叔父・、異母弟のや従兄弟の(鑑方と鑑比は同じ鑑堅の名があった)、従叔父・、や譜代家臣の十時惟忠、由布惟清、綿貫吉廉と与力衆の小野鑑幸(小野鎮幸の父)、三池親高など数人を失った。
(薦野勘解由鎮方、半左衛門。
千手平左衛門• 天正8年(1580年)• (十時摂津守)• 10月2日 米ノ山城奪還戦:立花軍・吉田連正、紹運対秋月種実• しばしば合戦があったのは鑑載の時で、道雪が立花に在城した後には宗像殿と一度も合戦がなかったとし、道雪を「御縁者」と言っている。
4道雪を中心とする大友勢と毛利氏との戦いは永禄6年()、第13代将軍・は、大友家にととを通じて代々将軍家陪臣出身の戸次氏・道雪に対して御内書を下していて、道雪が宗麟に対して意見を具申すべき極めて枢要な立場であった。
(小田部土佐守、新介)• 時期に関してはおよそ17年()6月5日 、道雪が故郷の藤北で炎天下の日、大木の下で涼んで昼寝をしていたが、その時に急な夕立で雷が落ちかかった。
このように配慮を欠かさないから、道雪の配下は次の戦いでは他に遅れまいとして勇み、その武者振りがいいと「あの者を見よ。
11月6日 第三次嘉麻・穂波の戦い・潤野原の戦い・第二次八木山石坂の戦い(上述の太宰府市東・筑紫野市針摺北の石坂とは別の穂波郡八木山石坂道大日寺口):道雪・宗茂、紹運対秋月軍・坂田実久、筑前国人衆長野・城井・千手・杉• 元筑前立花氏庶流、母は道雪の異母妹)• 192。
その後、岩屋・宝満城主のなど大友の筑前五城将(道雪、紹運と主・(宗雲)、主・(紹叱)、主先後に、)と共に筑前において数年間、秋月種実、筑紫広門、、(大鶴鎮正の三男)、、、、、など筑前、筑後、肥前諸勢力に対して数々の戦を繰り返した。
19(由布甲斐守)• 18日に発生した最大の合戦では道雪自ら陣頭に立って先に鉄砲800挺を2隊に分けられ、自分が発案した「早込」(「早合」ともいう。 お送りいただいた情報はルーツ製作委員会にて精査し、名字の解説として掲載させていただくことがあります。
によると、大友宗麟の乱行には手厳しい占部貞保(宗仙)が道雪のことは「大友家無二の忠臣、武勇に於いて並び無き大将である」と評している。
天正14年(1586年)• , pp. この大敗を知った際、道雪は宗麟とその嫡子の、そしてこの合戦を指揮した重臣を痛烈に批判した。
のちの鷹取城・福丸城・星野城、そして11月14日にの井上城を攻めて、秋月領の甘木辺りまで焼き討ちした。
宗麟の猶威名を失わざるものは、道雪の力なり。
(統続(連満)の弟)• 貞保(宗仙)はこの一連の話をあげ、立花の人々がお色姫の輿入れは人質の為で儀式の輿入れもなかったとしているのは嘘であると反論している。
去年は植え過ぎたから気を付けて」 という内容があった。
幼名は 八幡丸(はちまんまる)。
我が身を恐れて自分さえよければ、他人はどうでもよいというのは卑怯である。
又、道雪とも仲が良かったので、先立った時には道雪が大層嘆いたなどと述べている(お色姫は天正12年(1584年)3月24日に39歳で没したが、この日は山田事件の当日で、自殺したとの説もある)。 なお、この時から道雪は筑前の軍権を握ることになり、加判衆を辞任している。
20その画像の写真は『柳川藩叢書』・第一集に掲載• 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』(柳川市、2012年)p. お前達両名が替わる替わる奇・正の将となって自分を補佐せよ。 ある合戦で道雪の軍は苦戦した、そのため「我を敵の中に担ぎ入れよ。
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(後藤市弥太、隼人佐、種長の子)• ダウンタウンなう ーより引用 2008年から、芸名で活動をしている戸次さん。
12月11日 - 13日 宝満・立花城・宇美・八岳 障子嶽 の戦い :道雪、紹運対龍造寺隆信、宇美・矢野・神武郷人• (安東舎人允、常陸介、雪空、家忠の次男)• 2月2日 早良郡龍造寺方一揆討伐:道雪・十時連貞対龍造寺勢• 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』柳川市史編集委員会、2012年。
」という記録もあり、『浅川聞書』によると永禄11年()7月4日、討伐で立花山崖下の戦いにも自分で槍を取って家臣と共に奮戦した、『筑前国続風土記』にも永禄12年()5月18日のに自分で馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける、この年代の資料にも輿に乗っていたという記述は無く、「若い頃に落雷によって下半身不随になった」というのが創作なのか、文献に誇張や創作があるのかなど真偽はわかっていない。
(戸次次郎兵衛、道雪の養弟・戸次親行の子)• 由布美作守惟信 七右衛門惟次父子• (因幡大蔵少輔正)• (佐野兵部少輔、始めは小神野勝悅)• 『柳川史話』によると、6年()6月5日、27歳の時と記述される。 9月11日 池田城・第三次荒平城攻防戦:小田部鎮元、大鶴宗逸、立花軍・小野鎮幸・十時連貞ら対大教坊兼光、龍造寺軍• 3月10日 第五次生松原の戦い:道雪・内田鎮家・十時連貞対原田軍・籠野大炊• 9月18日 宗像鞍手郡の戦い:道雪、紹運、志賀親守対宗像氏貞、原田鑑尚• 永禄元年()、で率いる毛利軍と戦った際、道雪は将兵の中から弓が得意な兵を800人選抜した。
12月3日 - 4日 第一次筑紫、秋月岩屋侵攻・柴田川の戦い :道雪、紹運対秋月種実、筑紫広門、問註所鑑景• 」、「真の仁義の勇士とは、鑑連(道雪)の様な者の事をいうのだろう真に武士の手本とすべき者である」と評価されている。
特に筑前国の大友方の重要拠点である主・が毛利元就の調略に応じて叛旗を翻したことで立花山城が毛利方の手に落ち、肥前国のも大友氏との対決姿勢を強め、筑前戦線は崩壊の危機に立たされた。
9月6日 吉水 木 の戦い:道雪、紹運対秋月• (堀八郎、次郎右衛門、又介、祥の長男)• そなたが弱い者でない事は、我が見定めている。