過去や伝統から切り離された民主主義は人々の欲望のみを暴走させる危険があると警告するオルテガは、現在の社会や秩序が、先人たちの長い年月をかけた営為の上に成り立っていることに気づくべきだという。
本は賑やかでお喋りなものなのである。 つまり直接行動までの中間項としてあるべき手続き、規範、他人への配慮などが認められない。
」 「(p. 「モノディアロゴス(独対話)」と題したブログで発信を続け、国内外の取材者や芸術家を迎え入れた。
オルテガによる大衆の定義 これはいわゆる政治・経済的な意味での大衆(経済力や社会的地位の階層的なピラミッドの中・下層を占める多数者)を指すものではなく、「生き方」としての大衆を指す哲学的概念です。
『方丈記』とともに漱石の『草枕』を推薦しているのが粋なはからいだ。
小論集 「観念と信念」「思考についての覚え書」「ヨーロッパ論」「司書の使命」「ドン・ファン入門」• 自分自身のなかを歩き 回るだけなので、自分自身のなかで迷ってしまうのだ。 」 「(p. 近代は大衆的人間を、彼らがが魂の閉鎖に任せて沈黙を守るか、暴力介入による直接行動かどちらか「all or nothing」という、野蛮で極端な世界へと導いたといえる。 ただふつうの本は音読するには長いので、そこを著者や編集者がお手伝いするのだ。
11オルテガは、〈問題は、ヨーロッパには道徳がなくなってしまったという、そのことである。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 確かに、現代はスマホで信じられないほど多くのことをできたり、ヨーロッパにも飛行機に乗れば1日で行ける時代だ。
大衆人か否かは、平均人であるか否かではなく、別の判断材料を必要とするのです。
過去を省みず、現在の利益だけを追求する大衆が、野蛮な行為を繰り返していたのです。
新装版2014年。
状況は変わらないどころか、事態はさらに深刻さを深めていることを日々実感しています。 ここで、次のような否定しえない奇怪な事実を強調しなくてはならない。 資料を集め、メンバーで夜な夜な議論をして案を出すようになった。
他にもオルテガは、〈人間についての、もっとも根本的な分類は、次のような二種の人間に分けることである。 大衆的人間が、新たに出現した道徳を尊重して古ぼけた道徳を軽視しているというのではなくて、かれらの生の体制の中枢において、いかなる道徳にも服さずに生きたいと望んでいるのだ。
〈新型コロナウイルスの対策を検討する政府の専門家会議(座長=脇田隆字・国立感染症研究所長)は(5月)4日、感染の広がりを長期的に防ぐための「新しい生活様式」の具体例を示した。
数知れぬ無名の死者たちが時に命を懸けて獲得し守ってきた諸権利。
それより内田樹、宮台真司、上野千鶴子、篠原雅武に対するインタヴューの答えのほうが、ずっとおもしろかった。
しっかりと見開かれた瞳にとっては、 この世にあるすべてのことが驚異であり、不思議である。 民主主義万歳は間違っているということ。 他人と同じであることを求め、またそのことに安住する。
7岩波文庫版に解説を寄せた宇野重規・東京大教授は「エリートの視点から、大衆を高みに立って批判する本という通俗的なイメージは間違い。
「大衆の反逆」。
むしろ世襲貴族は「甘やかされたお坊ちゃん」であり大衆に近く、貧民出身者のなかでも高貴な(noble)人はその後偉人となることが多くあります。
それが1914年には4億6千万人になったのである」このような 急激な社会的変革のなかで、出現したのが大衆という人間一般である。
その通りだ。 視聴率が上がると広告料も増える。 『傍観者』 〈筑摩叢書〉、1973年、復刊1985年• 本はそもそもありとあらゆる分野をカバーしているコモディティで、そこには哲学からポルノまでが、お仕着せから被害の告発までがある。
オルテガ自身これが大いに危ういと『大衆の反逆』の各所で指摘しています。 その結果、もっぱら自分の利害や好み、欲望だけをめぐって思考・行動をし始めます。
では、なぜそんなふうになったのか、その事情の渦中を浮上させようという試みが、このところふえてきた。
」(p398) 「理想を実現する途方もない能力はおびただしくもっていると思っているのに、いかなる理想を実現すべきかわからない、そういう時代にわれわれは生きているのである。
大衆の一員であることを自覚している人は、余計なことを言わない。
それが迷路であり、どこへも通じない道である。 関連項目 [ ]• 半年に1回のCTで見つかったので、1年に1回の検査では危なかったかもしれない。 彼らは、急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、自らのコミュニティや足場となる場所を見失い、根無し草のように浮遊を続ける。
15これこそが、オルテガの警告する危機である。 そして、話はさらにややこしくなるのだが、「自分のうちにかかえこまれた〈他者〉」というのは、実定的な存在ではない。
いまはコロナ禍中の築地がんセンターでの手術日を待っている。
それはテミストクレスとシーザーで、 ともに政治家である。
そこでそのフェチに降りていって、そこに爆薬を仕掛ける。
さいわいレベル1Aで転移もないようで、手術によってカンペキに除去できるらしい。 それが貴族的に生きるということであり、生への緊張感が絶えず存在しているということになる。
柔道とキックボクシングとはまったく違うし、ボクシングと空手と合気道は、素手とグローブの差もあれば、組み方の違いもある。 「あらゆる野蛮な時代とは、人間が分散する時代であり、たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる時代である。
ただし、道徳がなくなった原因は、ヨーロッパの支配権の喪失ではありません。
ところで、GOTOキャンペーンとともに、大きなお世話だと言いたいのが「ステイホーム」の標語だが、どこかの首長が「どうぞ、ゆっくり本をお読みください」と言っていたのとはうらはらに、圧倒的にネット読みとテレビ視聴率が上がっただけだったらしい。
しかし最初はまったく理解されなかった。
ここでいうヨーロッパとは、特にそして正しくは、フランス、イギリス、ドイツの三位一体を意味する。 戸田君や松田君はそれを引き受けてきた。 本来の役割はリスクを分析し、政府に提言するまで。
(2020年9月号). 「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な《思想》をもっている。 ところが次の世代には、すでに重心が移動してしまっており専門化傾向が個々の科学者から総合的文化を追い出し始めたのである。
『大衆の反逆』神吉敬三訳、〈〉、1967年、新装復刊1989年。
生得の、魂の密閉生が、自分の不完全さを発見するための前提条件、つまり、他人との比較を不可能にしてしまうのである。
批評したいとは思わなかったからだ。