そこで、2人はまた行動を起こす。 埼玉県出身の八鍬さんは高校時代に趣味でボールを蹴った経験があり、大学で本格的にサッカーをやりたいと考え、小林さんを誘った。
在籍中に休学し、再びアメリカに留学していますね。 200万人近い選手がプレーしているアメリカに比べてまだ日本では競技人口が少ない(5万人前後)ですし、「サッカーをやりたい」と思った女の子、女性が気軽にプレーできるような環境を作りたいとも思っています。
なんとかなる. 高校時代に大学進学を考えた際、親に金銭的に迷惑をかけないよう国立大学で、教員免許が取れて、憧れの1人暮らしができる環境はどこだろう?と考えたら、それが筑波大で。
そして、その中に、日本女子サッカーの発展に現場から力を尽くしてきた一人の女性の名前があった。
私は英語の非常勤講師をして生活費を稼ぎながら、2年間サッカーに明け暮れましたね」 この関東大学女子サッカー連盟が主催する関東大学女子サッカーリーグ(通称:関カレ)は年々発展を遂げ、創設から34年目の現在は、1部から3部まで計32チームが加盟するリーグへと発展を遂げた。
サッカー=男子のスポーツのイメージが強かった1980年代からサッカー界をご覧になっていて、2011年、なでしこがW杯で優勝した時は多少なりとも女子サッカーの環境は変化したのでしょうか。 「日本がW杯で優勝した2011年のような熱狂が再び生まれてほしいという願いもありますし、女の子たちが目指す夢や職業ランキングの上位に、『女子プロサッカー選手』が入るようになったら嬉しいですね。
13漫画研究会の子もいたんですよ(笑)。
つくばFC設立に至った経緯とは? アメリカから帰って来た後、筑波には私がサッカーを続けられる環境がなく、東京のチームに顔を出していましたが筑波から通うのが大変だったことと、少年団でサッカーをしていた少女達が、中学に行くとサッカーをする場がなくなると聞いて、「じゃあ、クラブチームを筑波に作りましょう」と。
親しみやすく、オープンな人柄で様々な人々を繋ぎ、多くの選手のキャリアにも影響を与えてきた。
2桁失点で敗れている。
日本代表選手1人を含むトップ選手30人、その下にジュニアユース・ユースの選手など全部で100人位が在籍し、私の役割は、それぞれのチームのコーチの人事と統括、そして女子のスクールのマネージメント、なでしこリーグの運営や選手の就職のお世話など、仕事内容は多岐に渡ります。 昨シーズンは新型コロナウイルスの影響がある中、活動が自粛になる期間もありましたがオンラインでトレーニングをなど行い、その期間を通じて一致団結することができました。 大学4年次に選手11名を集めてサッカーチームを設立。
将来、英語で身を立てようと思ったら少し英語が喋れるだけでは足りない、もう2年アメリカに行って論文を書こうと思いました。
この決断が、その後のキャリアを大きく左右する。
NPO法人JWS スポーツに関わる助成を支援する会)理事 筑波関連 学部: 第二学群人間学類 研究室: 心理学研究室 部活動: 女子サッカークラブ 住んでいた場所: 一ノ矢、天久保3丁目 行きつけのお店: じょんがら、薔薇絵亭 プライベート ニックネーム: みーみ、おばば 年間読書数: 10〜20冊 心に残った本: 宮本輝の本 好きなスポーツ: サッカー、テニス 嫌いな食べ物: 辛いもの 訪れた国: 20カ国以上 口癖は?: まぢ? 座右の銘• 運良く、日本語の先生として働きながらアメリカのアラバマ州立オーバーン大学大学院に通える奨学金制度に合格し、2年間でスポーツ心理学の修士を取得しました。
体専の子たちはほとんどがバスケットなり陸上なり、競技を決めて大学に入ってきているので、サッカーチームに勧誘するのが難しかったという背景があります。
尚、ご不明な点等ございましたら、お気軽にお問い合わせください。 帰国後、再び大学院に戻って筑波大女子サッカーチームのコーチをしながら、自身は東京のチームでプレーを続けた。
18当時も『女がサッカーなんて』という空気はありましたね。 ジェフではコーチからマネージャーまでこなした(写真提供:小林美由紀さん) 【WEリーグで実現したい世界】 新しく理事に就任したWEリーグでは、「理念推進部長」として、プロになる選手たちを様々な角度からサポートしていく。
「茨城県で最初の女子サッカーチームだったので、『筑波大に女子サッカーチームができた』と新聞に取り上げられたのですが、蹴球部の先生には『いい迷惑だ』と言われましたね。
2016年より日本サッカー協会の女子委員としても活躍中。
他の大学であれば、もともとあるサッカー部が女子チームを作るのが順当な道筋ですが、筑波大の場合は「学生が自主的に作った」という経緯があったもので(笑)、時間はかかりましたが、なんとかここに行きつけて本当に良かったです。
だが、筑波大には女子サッカー部がなかった。 リーグの理念を体現するための心構えや活動を伝え、選手たちの疑問や不安は解決できるように、リーグと選手を繋ぐ調整役にもなる。
「幼少期から英語の先生になりたくて、外国語を学べる大学を探していました。 【語学力とコミュニケーション力で切り拓いたキャリア】 道を切り拓いていく小林さんの行動力は、とどまるところを知らなかった。
女子サッカーはそういう人たちに支えられてきましたから」 19年5月に、のなかで、小林さんは日本女子サッカー界が辿ってきた30年間を端的に語っている。
そしてこれまでに500人以上の女子選手が参加したという。
在学中のアメリカ留学では日米での女子サッカーの認知度の違いに驚きを受けた。
その時に経験したアメリカの女子サッカー文化に衝撃を受けている。 学生主体で女子サッカーチーム&リーグの立ち上げ 筑波大を目指したきっかけを教えて下さい。
16尚、進路や部活動に関する相談等は、メールにて個別の対応が可能です。
オフザピッチでは、昨年力を入れた広報活動をより発展させ、より女子サッカー部・女子サッカーの魅力を発信していきます。
全日本大学女子サッカー連盟理事• 帰国した翌年、1988年に学生主体で大学の全国大会を始めたり、関東の6大学を集めて、関東大学女子サッカーリーグを創設しました。
移籍や引退後のサポートなど、選手にも近い立場で接してきた。
一方、筑波大学女子サッカーチームは、2005年に大学公認の女子サッカー部に昇格。 「道がなければ、作ればいい」 小林さんの生き方はこの言葉に象徴される。
10その柔軟なコミュニケーションスキルや、自分が好きなことや大事だと思うことは妥協せず、行動に移す姿勢が仕事の幅を広げていく。
2002年の日韓ワールドカップでは、鹿島でFIFAの役員の通訳として関わりました。
奨学金をもらってアラバマ州立オーバーン大学大学院で2年間学び、スポーツ心理学の修士号を取得した。
体育会になるために、クラブとして10年間は活動していなければならないなどの実績と書類審査などを経て、私が大学4年次に発足したチームは2005年に大学公認の女子サッカー部に昇格しました。