精神 科 医 安 克昌。 精神科医・安克昌さんが遺したもの

【コラム】「安先生」のことーー「心の傷を癒すということ」ドラマ化に寄せて(名越康文メールマガジンからの抜粋)

精神 科 医 安 克昌

「つどい」の会場の雰囲気は、とても印象的だった。 安先生がその場に存在しているかのような、会場全体が安先生の意識状態であるかのような、不思議な感覚があった。 皆がそれぞれ安先生の想い出を胸に抱き、その面影を偲び、悼む気持ちと弔う思いが共有されていた。 そのネットワークの場自体が、まるで安先生の自我意識か脳神経細胞そのものであるかのような幻想にとらわれた。 安克昌先生はすでに象徴的存在だった。 私が大学病院の研修医だった頃には、木曜会や臨床医会や国内外の学会などあらゆる場所で輝きを放っておられ、その求心的な魅力のもとに皆が集っていたような気がする。 当時の中井久夫教授と山口直彦助教授のもと、尋常でない読書量と博覧強記で活発な談論が医局から三宮の夜にまでわたって繰り広げられ、私は末席に居られるだけでも神戸大学精神科で学ぶことの希望で胸が膨らんだ。 安克昌先生はすでに伝説となっていた。 私が県立尼崎病院神経科で研修していた頃には、常勤の先生や病棟のケアスタッフから、新病棟開設時に安先生の果たした功績がいかに偉大であったかをよく聞かされたものだ。 皆その才能だけでなく人柄にも尊敬の念を抱いていた。 シャイネスと周囲への心優しい気遣いのおかげで、私たちは畏怖しすぎることなく集えた。 当時から「不思議なこと」への憧れと怖れについてよく語っておられた。 オカルトと音楽論やエロスと身体論について茶目っ気を交えたお話を聴かせていただいた。 ピアノを演奏するときも、精神病理学の議論が白熱したときも、少し気恥ずかしそうにはにかんだ素敵な笑顔としぐさが印象的だった。 安克昌先生は永遠に高潔な人格だった。 「医局長は人格が磨かれてツルツルになったよ」と静かに笑っておられたが、私には気の毒に思えた。 私たちは、あるいは臨床においても患者たちは、何かしら無償の贈り物をいただいたままお返しができていないような気持ちがあったと思う。 実際いつの頃からか安先生は、周囲の者に形見分けのようにご自身の蔵書を配り始めた。 自我を刻まれているようで痛ましかったが、今から思うと、ご自身の運命や私たちそれぞれの興味や今後などについて、恐ろしいほどの冷静さで洞察されていた気がする。 ある者はミルトン・エリクソンを、コリン・ウィルソンを、ある者はドゥルーズ-ガタリを、九鬼周造を譲り受けた。 私は、カロッサの「ドクトル・ビュルゲルの運命」と深沢七郎の「言わなければよかったのに日記」と大槻ケンヂの本をいただいた。 私が心臓病で入院したときにも、アンドルー・ワイルの本と「シャングリラの予言」をくださった。 退院後も二度ほど食事をご一緒した。 「人生を精一杯楽しむこと」や「自然治癒力への信頼と実践的楽観論」などについて、そっと示唆されたような気がした。 安先生は私たちやおそらく患者たちにも、およそ指示や強制やパターナリズムを嫌っていた。 その理由は、お互いの生育歴や在日韓国朝鮮人としての生活史について語り合う機会が何度かあって、私なりに了解できた。 ルサンチマンを超えたところに安先生の臨床哲学はあったと思う。 ともかく、ご自身の身体がかなり厳しい状態でありながらもなお、私の心身のことをいろいろと気遣ってくださった。 私は、安先生ご自身やその最愛のご家族にずいぶんと迷惑ばかりかけてきたことをお詫びした。 安先生は柔らかな声と穏やかな雰囲気のままだった。 「タクシー狂躁曲」と「GO」をお貸しする約束は果たせなかった。 思い返すと仕事上で叱られたことが二度あるが、いずれも内容ではなく私自身の誇りのあり方を問われていた。 臨床で困った時には「こんなとき師匠ならどうするだろう」といつも自問自答するのだと漏らしておられた。 三度目に叱られそうな哀しい出来事があったとき、もっと早くに中井先生や安先生にご相談すべきだったと悔やんでも悔やみきれない思いがした。 安先生が亡くなられてから、「弔い」「祈り」「呪鎮」といった主題を考えることが多くなった。 臨床実践や学術研究の分野で安先生の業績を引き継げる能力が残念ながら私にはないが、これほど広い領域で多くの人に何かを託して逝ってしまわれた安克昌先生のことを、今でも身近にいて話を聴いてくださっている感覚で話題にしてしまう日々が続いているのだ。 (追記)安先生とのメールでのやりとりを久しぶりに読み返してみた。 2000年10月末まで、変わらぬ強い意志と静かで温かい心遣いを贈り届けてくださった。 7月2日にいただいた私信には、こう書かれていた。 「高崎吉徳さんには病気と闘わないほうがいいよと言われました。 できるだけぐーたら過ごすことですって。 医者でなくても、何もできなくても、世界は自分を愛しているし、自分も世界を愛していると彼は言っていました。 泣けるよね。

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精神科医・安克昌さんが遺したもの

精神 科 医 安 克昌

安 克昌 あん かつまさ 精神科医・1960年大阪市生まれ。 神戸大学医学部卒業。 兵庫県立尼崎病院、湊川病院、神戸大学附属病院精神科勤務などを経て、神戸市西市民病院精神神経科医長を務める。 阪神・淡路大震災直後より全国から集まった精神科ボランティアをコーディネートし、避難所などでカウンセリングや診療活動を行い、「被災地のカルテ」と題し産経新聞夕刊に約1年にわたり連載した。 震災一年後に臨床報告としてまとめた「心の傷を癒すということ~神 戸・・・365 日~」で第18回サントリー学芸賞を受賞。 PTSD(心的外傷後ストレス障害)の若き研究者として治療活動に尽力するも、2000年12月肝細胞癌のため39歳で死去。 スポンサーリンク 安 克昌 あん かつまさ さん肝細胞癌の闘病と、最期の様子 安克昌先生は、阪神淡路大震災の被災地・神戸の街で、精神科医として被災者の心の傷を癒すということにも尽力なさっていました。 そんな中、安克昌さんの奥様が3人目のお子さんを妊娠中に、安克昌さんに肝細胞癌が見つかり、すでに末期だったということです。 安克昌さんは、入院を最小限に抑えて代替療法を受けながら、奥様と2人のお子さんと、間もなく生まれてくる赤ちゃんと共に自宅で余生をお過ごしになられました。 具合が悪い中でも、命の限りは家族と一緒に過ごしたい。 3人目のお子さまが生まれるまでは何とか、という思いがあったそうです。 出産の日が近づき、ご自宅でいよいよ産気づいた奥さんを産院に送り出したあと、タクシーで安克昌さんご自身も闘病していた病院に向かいました。 ご自身がお辛い中、ギリギリの限界まで奥さんと生まれてくる子のためにそばにいてくださったのですね。 2日後に安克昌さんは39歳の若さでこの世を去りました。 最期を看取った母親に、「頼む」と、託したそうです。 お母さまは「立派な死でした。 あんなみごとな死はありません」とおっしゃいました。 最期まで尊敬すべき生き方だった安克昌先生です。 スポンサーリンク 安 克昌 あん かつまさ さんの言葉・ガン患者にとって辛い2つのこと 安克昌さんは 「ガン患者には2つの辛いことがある」、とおっしゃったそうです。 死を覚悟したあとに治癒の可能性がある治療法を示されること 安克昌さんはご友人の医師「」に打ち明けました。 死を覚悟したあとに「こんな治療法があるよ」と示されるのが辛いとおっしゃったそうです。 その言葉によってやっと平穏になった心がまた揺れるから。 心が揺れるというのは欲が出る、そして怒りも出てくる、それが辛い。 これは実際に末期ガンを経験された人じゃないと気が付かないことだと思いました。 欲や怒りという感情と、死を覚悟した平穏な状態とは両極にあるものなんだと気が付きました。 怒りも欲も「生きる」ことへ向かうベクトルであり、死を覚悟した人間にとっては辛いことであるのだと。 精神科医・安克昌さんの最期の闘病生活や、遺された言葉「ガン患者にとって辛い2つのこと」のまとめ 安克昌先生の遺された言葉や著書は、阪神淡路大震災のあとも頻繁に起こるようになった災害の被災地で、多くの医療従事者や関係者に読まれて今も語り継がれています。 特に遺された言葉「ガン患者にとって辛い2つのこと」は、私自身、家族にガン患者がいていろんな治療法や、代替療法にばかり目が向いていましたが、心情にまでは寄り添っていなかったな、と思い知らされました。 安克昌先生から大切な事を教わったと思っています。 ありがとうございました。 安克昌先生、本当に無念だったと思います。 まだまだ大切なご家族のために、そして患者さんのために尽力したかったと思います。 彼とは1980年韓国のYonsei大学に語学留学に来られた時同じ夏を過ごした。 僕は上智の学生で彼は1つ下の神戸大の医学部生で当時から精神科医になりたいと言っていた。 同じ在日で同じ悩みを抱えてお互い短いながらお互い在日の友人もなかったせいか直ぐに仲良くなり毎日非常に楽しく濃い時間を過ごした。 グッチャンという韓国名で呼んだのは僕が初めてだと言っていた。。 一つ差だったが先輩風を吹かして授業の後よく連れ出して遊び回った。 いつか連絡とりたいと思いながら自分の怠惰に任せ帰国後、音信不通になってしまった。 人生60になり人生の棚卸しを考えた昨今、このドラマの事を知り彼がもう20年も前に亡くなった事がわかった。 ドラマで見るアンくんは当時そのままの雰囲気で立っていた。 後悔先に立たず、という言葉があるがなんで留学後連絡を取らなかったのかを凄く悔やんでいる。 若い頃は先ばかりを見て中々後ろを振り返らない、と言うのは言い訳に過ぎないだろう。。 今更ながら惜しい友人を亡くしたと感じる。 心から改めてかれのご冥福を祈りたいと共に3名いらっしゃるという彼のお子さんたちに彼の20歳の夏は悩みながら韓国人としての誇りを持った素晴らしい時間を過ごしたとお伝えしたい。。

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首医大导师

精神 科 医 安 克昌

安 克昌 あん かつまさ 精神科医・1960年大阪市生まれ。 神戸大学医学部卒業。 兵庫県立尼崎病院、湊川病院、神戸大学附属病院精神科勤務などを経て、神戸市西市民病院精神神経科医長を務める。 阪神・淡路大震災直後より全国から集まった精神科ボランティアをコーディネートし、避難所などでカウンセリングや診療活動を行い、「被災地のカルテ」と題し産経新聞夕刊に約1年にわたり連載した。 震災一年後に臨床報告としてまとめた「心の傷を癒すということ~神 戸・・・365 日~」で第18回サントリー学芸賞を受賞。 PTSD(心的外傷後ストレス障害)の若き研究者として治療活動に尽力するも、2000年12月肝細胞癌のため39歳で死去。 スポンサーリンク 安 克昌 あん かつまさ さん肝細胞癌の闘病と、最期の様子 安克昌先生は、阪神淡路大震災の被災地・神戸の街で、精神科医として被災者の心の傷を癒すということにも尽力なさっていました。 そんな中、安克昌さんの奥様が3人目のお子さんを妊娠中に、安克昌さんに肝細胞癌が見つかり、すでに末期だったということです。 安克昌さんは、入院を最小限に抑えて代替療法を受けながら、奥様と2人のお子さんと、間もなく生まれてくる赤ちゃんと共に自宅で余生をお過ごしになられました。 具合が悪い中でも、命の限りは家族と一緒に過ごしたい。 3人目のお子さまが生まれるまでは何とか、という思いがあったそうです。 出産の日が近づき、ご自宅でいよいよ産気づいた奥さんを産院に送り出したあと、タクシーで安克昌さんご自身も闘病していた病院に向かいました。 ご自身がお辛い中、ギリギリの限界まで奥さんと生まれてくる子のためにそばにいてくださったのですね。 2日後に安克昌さんは39歳の若さでこの世を去りました。 最期を看取った母親に、「頼む」と、託したそうです。 お母さまは「立派な死でした。 あんなみごとな死はありません」とおっしゃいました。 最期まで尊敬すべき生き方だった安克昌先生です。 スポンサーリンク 安 克昌 あん かつまさ さんの言葉・ガン患者にとって辛い2つのこと 安克昌さんは 「ガン患者には2つの辛いことがある」、とおっしゃったそうです。 死を覚悟したあとに治癒の可能性がある治療法を示されること 安克昌さんはご友人の医師「」に打ち明けました。 死を覚悟したあとに「こんな治療法があるよ」と示されるのが辛いとおっしゃったそうです。 その言葉によってやっと平穏になった心がまた揺れるから。 心が揺れるというのは欲が出る、そして怒りも出てくる、それが辛い。 これは実際に末期ガンを経験された人じゃないと気が付かないことだと思いました。 欲や怒りという感情と、死を覚悟した平穏な状態とは両極にあるものなんだと気が付きました。 怒りも欲も「生きる」ことへ向かうベクトルであり、死を覚悟した人間にとっては辛いことであるのだと。 精神科医・安克昌さんの最期の闘病生活や、遺された言葉「ガン患者にとって辛い2つのこと」のまとめ 安克昌先生の遺された言葉や著書は、阪神淡路大震災のあとも頻繁に起こるようになった災害の被災地で、多くの医療従事者や関係者に読まれて今も語り継がれています。 特に遺された言葉「ガン患者にとって辛い2つのこと」は、私自身、家族にガン患者がいていろんな治療法や、代替療法にばかり目が向いていましたが、心情にまでは寄り添っていなかったな、と思い知らされました。 安克昌先生から大切な事を教わったと思っています。 ありがとうございました。 安克昌先生、本当に無念だったと思います。 まだまだ大切なご家族のために、そして患者さんのために尽力したかったと思います。 彼とは1980年韓国のYonsei大学に語学留学に来られた時同じ夏を過ごした。 僕は上智の学生で彼は1つ下の神戸大の医学部生で当時から精神科医になりたいと言っていた。 同じ在日で同じ悩みを抱えてお互い短いながらお互い在日の友人もなかったせいか直ぐに仲良くなり毎日非常に楽しく濃い時間を過ごした。 グッチャンという韓国名で呼んだのは僕が初めてだと言っていた。。 一つ差だったが先輩風を吹かして授業の後よく連れ出して遊び回った。 いつか連絡とりたいと思いながら自分の怠惰に任せ帰国後、音信不通になってしまった。 人生60になり人生の棚卸しを考えた昨今、このドラマの事を知り彼がもう20年も前に亡くなった事がわかった。 ドラマで見るアンくんは当時そのままの雰囲気で立っていた。 後悔先に立たず、という言葉があるがなんで留学後連絡を取らなかったのかを凄く悔やんでいる。 若い頃は先ばかりを見て中々後ろを振り返らない、と言うのは言い訳に過ぎないだろう。。 今更ながら惜しい友人を亡くしたと感じる。 心から改めてかれのご冥福を祈りたいと共に3名いらっしゃるという彼のお子さんたちに彼の20歳の夏は悩みながら韓国人としての誇りを持った素晴らしい時間を過ごしたとお伝えしたい。。

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