確かに、2chでも問題になった「断罪」という言葉は、先生たちの努力を無にする言葉でもあります。
3戦後の日本は国の防衛をアメリカに依存して、70年が経ったこともあるのか、危険な事、災害や被害に遭いそうな時に、自分で考え自分で被害に遭わないように行動するという心構えが極めて薄くなった。 及川課長補佐は大川小のあの裏山にやっとの思いでよじ登り、命拾いをした。
3月29日に、控訴審の第1回口頭弁論が仙台高等裁判所にて開かれました。
避難訓練も、自分や命を守ることを思ってください。
誠意が感じられなかった」 この四月九日の保護者説明会でさえ、重大な結果への謝罪はなく、避難の経緯や防災マニュアルの詳細についての説明にも、多くの遺族は納得しなかった。
つい最近の裁判でも、滋賀県の裁判所が福井県の原発に稼働差し止めを命じる判決をしている。 東日本大震災で学校管理下にあった児童・教職員84人が津波の犠牲になった石巻市立大川小学校の悲劇から、まもなく7年。 それが津波で亡くなった子どもたちに対する親の責任ではないか」 当日何が起き、何があったのかを市側から明らかにさせる必要がある。
供養式の後、ある遺族は「死亡・行方不明となった児童の保護者のうち、七割ぐらいはまだ納得していないと思う」と打ち明けた。 今月10日に行われた仙台地裁への提訴には、只野さんも原告として加わっている。
また、学校や市教委には、学校で子どもを亡くした家族に対し、「何があったのか」を調査し詳しく説明する必要がある。
民家がたくさんあって、押し寄せてくる津波が見えなかった。
吉岡が遺族から「まず見てもらいたい」と言われたのが、校庭に隣接する裏山だった。
その上で、宮城県知事は、判決文では重すぎると、知事の専権事項で控訴を決めたそうです。 県と市の控訴は教師の遺族のためにもなったのです。
学校が津波に襲われるまでの約45分間、そのまま校庭待機を続けた。
地震が起き、生徒たちは校庭に集められて不安に怯えています。
それにもかかわらず、「大きな川があり、津波の被害は充分に予見できたので、津波が来た時の避難マニュアルなどの整備が不備など避難対策が充分に取られておらず、市の教育委員会は適切な指導をしていなかった」として、賠償を命じているのだ。
「ヘルメットを被ってたから頭は守られた。
2011年に在校児童や保護者、地域住民等から聞き取り調査を行った市教委の説明も、当時を再現するには核心部分の情報が足りなかったり、調査や証言に矛盾点が残されたりしたままだ。
市教委や学校側の説明、検証委員会の検証報告に納得がいかない遺族19家族が、市と県に対し、児童一人当たり1億円の損害賠償を求めて仙台地裁に提訴した。
あの日大事だと思ったことは、今日も、いつも大事だということです。
この時の遺族らの抗議デモがなければ、世間の声も得られ、おかしいと思われることもなかったはずですが、遺族の軽率な行為だったのかも知れません。
6裁判で遺族側の弁護士は、警察が暴走族対策に290人の警察官を出しながら、花火見物の警備には36人しか出していないと主張したり、警備会社と警察の警備に対する打ち合わせや対応が不十分、杜撰だったと問題点を指摘した。 それが、元気な母の姿を見た最後となった。
結果的に、この遺族の行為によって、裁判での争点だった「適切な避難指示」に対する論争に火が付いてしまったんですね。
でも失った時に気付く。
筆者が小中学生の頃、これも有名な別の冤罪事件で、裁判官は無罪判決を出した。
特に、震災直後、自ら子どもたちを探したという話が心に突き刺さりました。 裁判で果たしえなかった、遺族が求める「真相の究明」や「行方不明の子どもの捜索」を追い続けるためだ。
15そして、2016年10月26日に仙台地裁は、学校側の過失の一部を認め、総額約14億3000万円の損害賠償を支払いを命じるという判決文を下しました。 東日本大震災という数十年に一度、百年に一度レベルの地震と津波に慌てない人はいませんし、選択は間違ったとはいえ避難はしようとしました。
この時には津波の危険性がテレビやラジオで呼びかけられています。
その一部を植林し、「鎮魂の森」にする。
こうした重要証言が、誰のものかもわからないままとなっている。
教師たちが生き残りを妨げてしまいました。
2時49分、全校児童が校庭に避難。
生徒の遺族は石巻市と宮城県相手に裁判を起こしました。
しっかり訓練していれば、震災当日も早めに移動したり、川の様子を確認したりして山に避難できていたかもしれない。