まとめ 比叡山焼き討ち。 そのうえで、信長に敵対する朝倉氏、浅井氏に与同したというのだ。 挙句の果てには、政治に介入して、自らの利権を守ろうとする私利私欲まみれの行動。
9- 比叡山に何度も焼き討ちされている。 その時、浅井長政軍や伊勢長島一向一揆と対峙していた信長軍は、急きょ向きを変え、比叡山に向けて進撃しました。
同年8月、信長は浅井氏を攻めるため出陣し、さらに金森(滋賀県守山市)まで軍を進めた。
では3つめの僧兵とはなにか。
そのほか美女・小童、数も知れぬほど捕らえ、信長の前に引き出した。
じゃあ他に何があるのって?その話の前に延暦寺について少しお話ししたいと思います。
3信長は寺社に所領の寄進をするなど、信仰心があった。 比叡山焼き討ちに至るまで (織田信長 出典:) 信長によって比叡山が焼き討ちされてしまうまでには、延暦寺と信長の対立と、信長と他の武将たちによる戦いの道のりがありました。
信長としては、反逆者を成敗するという見せしめの行為だったのが、話が広まるにつれ尾ひれがつき、大げさになっていたのだと考えられます。
義昭が信長の説得を受け入れ、和議の仲裁をしたわけについては、興味深い問題です。
この将軍家の権力争いに介入してきたのが、 比叡山延暦寺でした。
岡田正人編著『織田信長総合辞典』(、1999年9月)P348。 これ以外にも、伊勢長嶋の一向一揆に対して、投降してきた信者二万人を柵で囲んだ城に閉じ込め焼き殺した話など、信長の「残虐性」を語る話は枚挙にいとまがありません。 すなわち焼討ちは敵対した者に対する攻撃であったというのが本質である。
13しかし、比叡山は、信長が自ら進んで仏敵になることはないだろうと、たかをくくっていました。
延暦寺の僧侶らはまったく宗教者としての責を果たしておらず、放蕩三昧だった。
しかしこれは、比叡山が信長の忠告に反して、朝倉・浅井軍に加担し反信長の旗を鮮明にしたから叩いたのであって、天台宗という宗派を弾圧することが目的ではなかったといえます。
当時の寺社 現代の感覚で言うと、お坊さんは、武器を持たないで無抵抗のイメージがあります。
しかし、修行を怠らず人々を救いの道に導くという本分を忘れ、俗世のアカにまみれ、自らの要求を通すために武力をもって対抗してくるものに対しては、徹底的に立ち向かいこれを殲滅するというのが信長の行動哲学だったのです。
1このため信長は姉川の合戦に勝利したにもかかわらず、続く三好三人衆や石山本願寺との摂津の野田・福島の戦い 第一次石山合戦 の最中、背後の京都を浅井・朝倉勢と比叡山の勢力に脅かされて、軍を近江に返して志賀の陣で対峙することになるのです。 この時期、延暦寺の堂宇の多くは、不便な山上ではなく、麓の坂本あたりに集中していたようなのだ。
また、自分たちの所領を守る為の僧兵と呼ばれる集団まで形成しており、戦国大名にも引けを取らない軍を持っていたのです。
僧兵と呼ばれる、武装した下級の僧侶たちです。
このように、比叡山延暦寺の焼き討ちによって生きのびた僧侶は実はけっこういたようです。
こうして、延暦寺の権威の失墜と暴走が激化していくのです。
信長と義昭の仲は悪化していきます。 信長が目指す理想の社会とは、一部の特権階級だけが甘い汁を吸うのではなく、誰にでも平等にチャンスが与えられ、汗を流して頑張った者が報われる社会だったように思います。
むしろ、 積極的だった可能性が高いように思いました。
織田信長の「比叡山焼き討ち」とは 1571年9月30日、「比叡山焼き討ち」事件が起こります。
最終的には細川藤孝のとりなしで、和解し、宗実は光秀の配下として活躍したそうです。
もちろん信長も、何の予告もなく延暦寺へいきなり襲いかかったわけではない。 豊臣秀吉が甥の秀次を謀反の疑いで処刑(切腹)したとき、秀次の幼い若君4名と姫君・側室・侍女・乳母ら39名を京都三条河原で惨殺したのはあまりにも有名です。 その「残虐行為」の中でもっとも有名なのは、元亀二年(1571)の比叡山焼き討ちでしょう。
8携わった技師のひとり兼康保明氏の調査報告書によると、織田信長による比叡山延暦寺焼き討ちによって焼失したのは根本中堂と大講堂のみであることが判明したのです。 実はこの「平清盛」が、「比叡山延暦寺」に対して、かなり恐れを抱いていた可能性があるのです。
比叡山延暦寺は、天台宗の総本山として京都と滋賀の境に鎮座し、山全体がお寺とされています。
開祖である最澄は、767年に近江国の豪族、三津首百枝(みつのおびとももえ)のもとに生まれました。
「山下の男女老若、右往左往に癈忘致し、取る物も取り敢へず、悉く、かちはだしにて、八王寺山へ逃げ上り、社内へ逃げ籠る。
こうして王城鎮護の地は、完全に地上から消滅したのである。 信長は命からがら逃げおおすことができましたが、当然信長は超絶激怒。 や日吉大社は消滅し、寺領、社領は没収され明智光秀・佐久間信盛・・柴田勝家・丹羽長秀に配分した。
11その利害関係上、比叡山延暦寺の僧兵は浅井・朝倉連合と手を組み、対・織田信長のスタンスをとっていたわけです。
理由は比叡山がやりたい放題だったから 信長は、比叡山に次のような要請をします。
この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各々らをこの地域に派遣して治めることになる。
さらに、比叡山延暦寺にとって武士との抗争は信長が初めてではなく、信長の前に過去に2回も武士の攻撃にあい、主要な建物が焼失する事件が発生しています。