全て は 初め から そこ に 存在 し てい た。 (1) 神とは何か?

AbCd

全て は 初め から そこ に 存在 し てい た

続いて記紀神話を読み解いてみたいと思います。 「記紀」とは言うまでもなく『古事記』と『日本書紀』を指し、どちらも奈良時代に成立した我が国の史書の原点であり、神話に始まるこの国の歴史を今に伝えます。 記紀共にその原典となっているのは、両書以前に存在したとされる帝紀及び旧辞という史伝で、一般に帝紀は天皇の系譜や妻子の名前、在位中の主な業績、宮殿や陵墓の場所等を、旧辞は神話や様々な逸話等を伝えていたと解説されますが、その辺りの整合性については不明な点も多く、どちらも原文は早くに散逸しているため、後世の我々は記紀を通してその面影を探るしかありません。 尤もかつて『東観漢記』が『後漢書』に再編されることで滅失してしまったように、帝紀と旧辞もまた『古事記』と『日本書紀』に姿を変えただけのことなので、記紀の内容こそが帝紀と旧辞そのものだとも言えます。 この帝紀と旧辞という日本最古の史伝が、果していつ頃に作られたのかという点に関しては、それに言及するような史料も見当たらないので、今もって定説は得られていません。 ただ大陸で統一国家隋が興り、日本もその周辺諸国の一員として外交に加わるようになると、かつて魏や南朝へ遣使していた頃とは異なり、否応なしに国際社会における自国の立場というものを再認識せざるを得なくなります。 そこで隋や各国の関係者とも交わるうちに、自国の歴史について尋ねられる機会もあった筈で、当時の漢字文化圏の常識として、史書も持たないような国は文明国とは見做されませんでしたから、遅くとも遣隋使が派遣され始めた頃には、帝紀と旧辞の原型となる史書の作成は試みられていたものと思われます。 従って両書の起源を聖徳太子や蘇我氏に求める仮説は、時代背景から見ても理に適っている訳です。 現存する我が国最古の史書である『古事記』が編纂された経緯については、編者である太安万侶が同書の序文で説明していて、天武帝が詔して言うには「 朕聞く、諸家の賷る帝紀及び本辞(旧辞)、既に正実に違い、多く虚偽を加うと。 今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾年を経ずして、その旨滅びなむとす。 これ乃ち邦家の経緯、王化の鴻基なり。 故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽を削り実を定めて、後葉に流えむと欲す。 要約すると、諸家に伝わっている帝紀と旧辞には、各々史実と異なる箇所が見受けられるので、今その過ちを改めなければ、何年も経たないうちに本旨が失われてしまう。 そこでそれ等の中から「偽を削り実を定めて」、正史だけを後世に伝えたいということです。 前述の通り帝紀と旧辞の原型が作られた時期は不明ですが、その後に加筆や写植を繰り返して行く中で、次第に異なる内容が伝えられるようになって行ったのでしょう。 ただ氏祖が皇室から枝分れした王族(皇別)や、神話の時代から皇室に仕えている豪族(神別)は、皇室との関りや祖先の功績等について、それぞれ独自の伝承を有していたので、そもそも諸家に伝わる帝紀や旧辞の内容が同一である筈もありませんでした。 しかし大陸の王朝と同じように、民族共有の財産としての国史を確立しようとするならば、諸豪族に家伝が存在すること自体はともかく、正史は正史として国内で統一する必要があります。 そして天武帝が、その作業は自身の在位中にやり遂げるべきことであり、子孫の代では不可能だと判断したのは正しかったでしょう。 では諸家に併存していた帝紀と旧辞は、宮中のいかなる部署で、誰の手によって『古事記』の原型として纏められたのでしょうか。 不思議なことに天武帝の勅旨によって始められた作業でありながら、編修の過程や主要な関係者等を明記した史料は見当たりません。 但し複数の異伝の中から一個の正史を選別する上で、(ましてそれが以後永久的にこの国の歴史となるならば猶更のこと)その基準として天武帝の意向が最優先されたことは間違いないでしょう。 尤も諸家に伝わるものを「 既に正実に違い、多く虚偽を加う」と断じているように、初めから皇室伝来のものを唯一の国史に定めることが目的だった可能性もありますが。 従ってそうした主旨の下で成立した『古事記』は、『日本書紀』のように本文中に異伝を設けることなく、天地開闢から推古女帝に至るまでの歴史が一個の物語として完成されており、その編修姿勢は司馬遷の『史記』にも通ずるものがあります。 『古事記』の序文によると、天武帝の舎人に稗田阿礼という特に聡明な者がおり、目にしたものは全て言葉に表すことができ、耳にしたことは心に留めて忘れないほどだったため、帝は阿礼に「 帝皇日継(帝紀)と先代旧辞(旧辞)を誦習せよ」と命じたといいます。 そして阿礼が誦習したものを太安万侶が筆記し、更にそれを通史に編纂して元明女帝に献上したのが『古事記』です。 稗田阿礼という人物については、その実在性も含めて古来様々な議論が交されていますが、ここでは立ち入りません。 また後発の官撰史書である『日本書紀』には、恐らく諸家に伝わっていたものと思われる異説が「 一書に曰く」という形で収録されているので、諸家伝来の帝紀と旧辞は『古事記』成立後もどこかで保管されていたようです。 世界のいかなる民族であれ、その最初の歴史は例外なく口伝によって後世に渡されます。 そしてその伝承者としての役割を担うのは、専ら稗田阿礼のように部族内でも特に聡明な者であり、彼等の多くは代を重ねる毎に増加して行く民族の歴史を一語一句違えることなく暗唱でき、その脅威の記憶力は世界各地で多くの事例によって証明されています。 しかし天武帝の時代ともなると、既に紙の製法と漢字が輸入されて久しく、敢て誦習という手法を選択した理由についてはよく分かりません。 また天武帝の勅宣によって始業されていながら、ようやく活字化されたのが元明女帝の代というのも些か間が空きすぎていますし、編修が公表されていたかどうかも定かではありません。 ただ『日本書紀』の筆記法が漢文であるのに対して、『古事記』では変体漢文とも呼ばれる一種独特な筆記法が用いられており、或いは未だ天武帝の時代には、日本語を活字化する手法が確立されていなかったのかも知れません。 六国史の第一である『日本書紀』は、『古事記』と違ってその編纂の経緯が巻内に記されていないので、官撰史書でありながら成立の過程に関しては不明な点も多くあります。 ただ後に成立した『続日本紀』の中で触れられている箇所があり、そこには養老四年(西暦七二〇年)の時事として「 先是一品舎人親王、勅を奉じて日本紀を修む。 至是功成して紀三十巻系図一巻を奏上す」とあります。 要約すると、以前から舎人親王(天武帝の皇子)は勅命により日本紀を編修していたが、ようやく完成したので紀三十巻と系図一巻を時の元正女帝に献上したということです。 ここで言う勅が誰の発したものなのかは明らかにされていませんが、そもそも日本紀編修の発端は天武帝が川嶋皇子(帝の第二皇子)以下十二人に『帝紀』と『上古の諸事』の編纂を命じたことに始まるとされており、『古事記』と並んで『日本書紀』もまた天武帝の勅旨によって世に生み出された訳です。 『古事記』と『日本書紀』という全く性質を異にする二つの史書が、なぜ同時進行のような形で編纂されるに至ったのかについては、両書の伝達方法がまるで異なっていたからだというのが、その理由になると思われます。 『古事記』は「ふることふみ」とも読むように、古来より伝わる帝紀や旧辞といった民族の足跡を、なるべくその形を変えずに生きた日本語で後世に遺そうと試みた史書であり、それが稗田阿礼による誦習という前時代的な記録と、変体漢文や当て字による筆記という独自の編纂方法となって現れています。 一方の『日本書紀』は、初めから当時の世界基準である漢文による筆記を基本とし、日本人のみならず他国人が手に取っても差し支えない史書となっており、(実際に閲覧を許すかどうかは別にして)むしろそれが同書編纂の目的の一つであるとさえ言えました。 要は当時の国際情勢下にあって、大陸の先進文化を導入しながらも、日本独自の文化を継承して行かなければならない中で、そのどちらの文化も否定しない形で記紀両書を作り上げたことは、『古事記』の持つ学術的な価値を考えても、後世の我々に贈る天武帝の英断だったと言えるでしょう。 そして前述の通り『日本書紀』は漢文でありながら、「一書に曰く」という形で複数の異伝を収録しており、恐らくそれこそが諸家に伝えられていた帝紀と旧辞の内容そのものだと思われます。 しかし『漢書』を始めとする大陸の史書を範とした『日本書紀』が、なぜ漢籍に余り例を見ない異伝の併記などという述法を採用したのかについては、未だ万人の納得する定説を得られていません。 ただ『古事記』のように異伝を排除するのではなく、敢て併録することにより却って国史を一本化させたのは事実で、むしろ『日本書紀』に吸収されることで家伝の帝紀と旧辞がその役割を終え、同書が全ての日本人にとって唯一の国史となる地位を確立したのは間違いありません。 また『日本書紀』が上梓された奈良時代前期というのは、限られた有力豪族や皇族が太政官の重職を独占していた時代でしたから、同書の編者も諸豪族の家伝を無視できないという事情があったのかも知れません。 ランキングに参加中。 クリックして応援お願いします!.

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(1) 神とは何か?

全て は 初め から そこ に 存在 し てい た

人類の誕生 人類はサルから進化したのではない。 現生人類は初めから存在していた。 人間は高度に「デザイン」されたものだ 現生人類は最初から存在していた 進化論の教科書を読むと、必ずと言っていいほど出てくるのが、人類の祖先とされる、あの毛むくじゃらの「猿人」や「原人」の絵です。 よく引き合いに出されるのは、 アウストラロピテクス、ジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人、クロマニョン人などですが、これらについて、ある進化論の解説書は次のように説明しています。 「人類の中でいちばん古いのは・・・・アウストラロピテクス(南の猿の意)という動物だと言われている。 これはサルと人間の中間のものだが、石を割って石器を使う知恵を持っていた」。 (一) 「アウストラロピテクスよりも少し新しいものには、ジャワ島で発見されたピテカントロプス(ジャワ原人)とか、中国の北京の近くの周口店で発見された北京原人とよばれる人類がある。 これらは、五〇万年くらい前に生きていた」。 (二) 「ネアンデルタール人と呼ばれる、猫背で、がにまたの人類が今から十数万年前に、ヨーロッパや中央アジアや、北アフリカに広く住んでいた」。 (三) 「今から約五万年前から約一万年前までの時代になると、現在の人類と同じ人間が、広くヨーロッパに住むようになった。 この連中を、クロマニョン人という」。 (四) 進化論者は長い間、人類はアウストラロピテクスなどの「猿人」から、ジャワ原人・北京原人その他の「原人」が出、そこからネアンデルタール人などの「旧人」が出て、最後にクロマニョン人などの「新人」が出てきた、と説明してきました。 「原人」は学名ではホモ・エレクツス、「旧人」はホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス、「新人」はホモ・サピエンス・サピエンスと言われています。 しかし最近では、この考えが誤りであることを示す印象的な証拠が、いくつか提出されています。 現生人類は、進化論者が「猿人」とか「原人」「旧人」などと呼んだものの生息していたまさにその時代に、すでに生息していたのです。 米国アリゾナ州トゥクソンにある考古学研究所の所長ジェフリー・グッドマンは、その著「人類誕生のミステリー」の中でこう述べています。 「(この結果は)現生人類が、ネアンデルタール人(旧人)に先立ち、すでにホモ・エレクツス(原人)の時代に生息していたことを示すものである」。 (五) 「南アフリカの化石や、同じような東アフリカの化石は、ホモ・エレクツス 原人 とホモ・サピエンス・サピエンス 現生人類 とが、まさに同じ地区で共存していたという事実に当面させる。 ・・・・一言にして言えば・・・・この 二つの種は、進化的意味からは無関係であるとの説明を補強するものである」。 (六) 「化石記録は・・・・アウストラロピテクス(猿人)とホモ・エレクツス(原人)とは同時に存在していた・・・・ことを支持している」。 (七) こうした共存の例は数多く発見されており、いまや現生人類が、「アウストラロピテクス」「ホモ・エレクツス」また「ネアンデルタール人」と同時代に存在していたことは、確実です。 これは、現生人類がアウストラロピテクスや、ホモ・エレクツスから出てきたのではなく、"当初から"存在していたという、創造論者の主張を裏づけるものです。 グッドマン所長はこう結論しています。 「最初の新人類は、従来考えられたよりはるかにスマートであったばかりか、それもずっと早くからそうであった」。 進化論者が、「猿人」とか「原人」と呼んだものは、人類の祖先などではなかったのです。 人類の先祖はサルではない では、「サルのような動物からヒトへの過渡的状態を示す中間型(移行型)である」と主張されてきたアウストラロピテクスや、ジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人などは、いったい何だったのでしょうか。 結論から言えば、それらはサルからヒトへの「中間型」などではなかったのです。 実際、進化論を受け入れている科学者のなかにさえ、これらの「中間型」がいずれもきわめて空想的で、かなりの誇張が含まれていることを正直に認める人は、今日では少なくありません。 たとえばツッカーマン卿は、創造論者ではありませんが、類人猿に似た動物からヒトへと姿を変えていく 「化石上の痕跡」は、ひとつもないと述べています。 (八) 読者は、学生時代に生物の授業で、人間はサルのような動物から次第に進化してきたのだという説を、化石などを並べられて、あたかも証明された事実であるかのように教え込まれてきたことを思い起こすでしょう。 しかし、これから詳しく見ていくように、サルのような動物からヒトにいたる中間型はおろか、生物のあらゆる種間で、かつて「中間型」と主張されたものも、皆じつは中間型などではなかったことが判明したのです。 世界の全化石の二〇%が保存されているシカゴ・フィールド博物館の館長であるデービッド・ロープは、こう述べています。 「進化論の立場から生命を説明する上で、化石がそれを証明してくれると思っている人は多い。 さて、ダーウィンが『種の起源』を書いてから一二〇年たつ今、化石記録に関する研究は大いに進んだ。 しかし皮肉なことに、 進化論を支持する実例は、まるで出てこないのである」。 (九) まるで出てこない? では、今まで進化論者たちが「進化の証拠」だと主張してきた様々なものは、いったい何だったのでしょうか。 アウストラロピテクスは、大洪水以前に生息し、後に絶滅した動物の一種であろう。 アウストラロピテクスは絶滅動物の一種だった まず、アウストラロピテクスから見てみましょう。 アウストラロピテクスは、はじめ一九二四年にレイモンド・ダートの手によって発掘されて以来、サルとヒトの中間である「猿人」とされてきました。 しかし今日では、多くの著名な学者の手によって、その考えが間違いであることが明らかにされています。 たとえば著名な人類学者、ラトガース大学のアシュレー・モンテギュー博士はこう述べています。 「 アウストラロピテクス類は・・・・ヒトの直接の祖先にも、ヒトに至る進化の系列にもなり得ない」。 (一〇) アウストラロピテクスは、ヒトの祖先ではなく、まったく異なった他の動物であったようです。 解剖学と人類学の教授チャールズ・オクスナード博士が、一九七五年に発表したところによると、「多変量解析」という方法で調べた結果は、アウストラロピテクスは、ヒトでも類人猿でも、またその中間の移行型でもなく、 まったく異なったものであることを示しているとのことです。 (一一) また最近、リチャード・リーキー博士は、彼が新しく発見したより完全なアウストラロピテクスの前脚と後脚の化石は、この動物が直立歩行をしていなかったことを示している、と述べました。 アウストラロピテクスは、 大洪水以前に生息し後に絶滅した、サルやゴリラに似た動物の一種に過ぎなかったのです。 「ジャワ原人」や「北京原人」は進化の証拠ではない 進化論者は、「原人」(ホモ・エレクツス)すなわち最初の人として、「ジャワ原人」や「北京原人」と彼らが呼ぶものを、よく取り上げてきました。 しかしこれらは、いずれも今日では進化の証拠としての価値を失っています。 「ジャワ原人」は、一八九一年、進化論に感化された若者ユージン・デュボアによって発見されたとされていますが、その証拠とされる骨と言えば、頭蓋骨と、歯と、大腿骨だけでした。 それら三つの骨からデュボアは、この動物は直立歩行をしていたもので、サルとヒトの中間型であると考えました。 そして得意になって、 「ついにミッシング・リンク(失われた環=中間型)を発見した」 と報じ、この動物をピテカントロプス・エレクツス(直立する猿人の意)と命名しました。 しかし当時イギリスの科学者らは、「これは正確にはミッシング・リンク(中間型)ではなく、サル的特徴をもつヒトである」と論じました。 (一二) つまり、サルとヒトの中間動物ではなく、"サルに似たヒト"であるとしたのです。 また、デュボアの骨に関する説明は、当時の一流の解剖学者ルドルフ・バーコウ博士やW.H.バロウ博士らによって強く批判されました。 頭蓋骨は大腿骨から一五mも離れた所で発見され、歯は頭蓋骨から数mも離れた所で見つかったからです。 これらの骨が同一の体に属している証拠は全くありませんでした。 それらを同一の体に属するものとして結びつけたものは、デュボアの進化論的想像だけだったのです。 「ジャワ原人」とされた化石は、頭蓋骨の一部と歯と大腿骨だけで、 しかもそれらが同一の体に属していた証拠はなかった。 このような ものから、図右にみるような「ジャワ原人」の絵が描かれた。 また、「北京原人」はどうでしょうか。 「北京原人」も、やはりヒトの骨とサルの骨とが組み合わせられたものだ、と考える人が少なくありません。 中国の北京では、サルの脳みそを食べる習慣があり、脳みそを食べた後、サルは近くに捨てられました。 それで北京では、サルとヒトの化石化した骨が、近くで発見されることがあるのです。 「北京原人」の化石と言われたものは、第二次世界大戦中に失われてしまったので、今日私たちはそれを見ることができません。 そのため、以前にはできなかった化学検査や、その他の進歩したハイテク技術によって、今日それを調べ直すことすらできないのです。 そのようなものを「進化の証拠」と称して教科書にかかげる進化論者の態度には、問題があると言えないでしょうか。 このように「ジャワ原人」にしても「北京原人」にしても、私たちの手元にあるのは、わずかな骨、あるいは六〇年も昔の発掘記録と、進化論的先入観に満ちた人々の膨大な想像だけです。 「原人」と呼ばれるものは他にも幾つかありますが・・と言っても一ダースとありませんが・・進化の証拠としての価値を持っていないということでは、大同小異です。 進化論者は、サルに似た外見をもったヒトの化石が発見されると、すぐさまそれをサルとヒトの中間動物だとか、ヒトの祖先だとか主張してきました。 しかし私たちは、今日の世界においても、背が低く、頭も小さく、顔形もサルに似ていないとも言えない人が、しばしば見うけられることを知っています。 実際たとえばバイロン・C・ネルソン博士は、現代の聡明な人物の中にも、「せまい額」や「後退した顎」を持つ人がいる例をあげています。 一三 「ジャワ原人」にしても「北京原人」にしても、またその他の「原人」と言われたものにしても、人間がサルのような動物から進化してきたという説の証拠とはなり得ません。 「猿人」とか「原人」というようなものは、もともと存在しなかったのです。 あったのは、サルと、サルに似た絶滅動物と、人間です。 サルと人間の中間は、存在しません。 サルは初めからサルとして存在し、人間も初めから人間として存在していました。 サルも人も、聖書が述べているように同時代に創造され、同時代に生存を始めたのです。 ネアンデルタール人は完全に「ヒト」だった ネアンデルタール人は、かつては進化論者によって、 「前かがみで、ひざをひきずり、毛深く、ぶつぶつ声を出し、骨高の額、そしてその下のくぼんだ眼窩から外をのぞきながら、何か獲物はないかと歩いている類人」(一四) として、さかんに取り上げられました。 そして、その絵や彫像が、進化論を広めるために長年利用されてきたのです。 それは、そうした前かがみで歩く姿が猿の歩く姿に似ているので、進化論者が進化を説明するのに、恰好の材料だったからです。 しかし、『ブリタニカ大百科辞典』には、次のように述べられています。 「一般に普及しているこの人類についての概念、つまり前かがみの姿勢、足をひきずりながらの歩行、そして曲がったひざ、これらは二〇世紀初頭に発見されたネアンデルタール人の一体の人骨の、肢骨の ある特徴を誤って解釈したことの産物である」。 (一五) 二〇世紀初頭に発見されたネアンデルタール人は、その骨の状態から、曲がったひざをもっていて、前かがみで歩いていたものなのだと解釈されました。 そして進化論者は、この一体の人骨を、ネアンデルタール人がまだ猿的な要素をもつヒトであったことの証拠として用いました。 他にもネアンデルタール人の化石は多く見つかっており、それらはみな完全な直立歩行をしていたことを示しているのに、ただ一体の骨から得られた結果が、そのように使われたのです。 しかし今では、この前かがみのネアンデルタール人は、ひざに、 くる病とか関節炎とかの病気をもっていたのだということが、わかっています。 生物学者デュアン・T・ギッシュ博士は、こう述べています。 「今では、これらの『原始的特徴』は、栄養上の欠陥と、病的状態によるものであることがわかっており、 ネアンデルタール人は今では完全な人として分類されています」。 (一六) このようにネアンデルタール人は、完全に「人」でした。 ネアンデルタール人は、大洪水以前の一人種だったに違いない。 しかも、ネアンデルタール人の脳の容積は現代人のものよりも多少大きかったとさえ言われており、また「肩から首にかけて盛り上がるようにして走っていた筋肉も、ありませんでした」 一七。 ですから、ジェフリー・グッドマン博士はこう述べています。 「ネアンデルタール人が肩を曲げ、かがんだ形で、 あまり賢くない動物と考えるのは、主に初期研究者たちの先入観による間違った固定観念である」。 (一八 このように、ネアンデルタール人は私たち現代人と同じような人間だったのであり、進化論者が描いたあのサルに似たものは、まったくの空想の産物にほかならなかったのです。 ネアンデルタール人は、大洪水以前に生きた人類の、一人種だったのでしょう。 クロマニョン人は身体的・能力的に、現代人に勝るとも劣らなかった 進化論者によると、今から約五万年前になると、現在の人類と同じ人間がひろくヨーロッパに住むようになったとされ、彼らはクロマニョン人と呼ばれています。 有名なフランスの「ラスコー洞窟」の壁画は、クロマニョン人が描いたものです。 これは今から「約三万年前」のものと言われています。 ところが、炭素一四法によって調べられた年代は、「約一万年前」と出ています。 しかしこれでは、絵が非常に古いとする進化論者の考えに合わないために、この年代は斥けられています。 (一九) 進化論者によれば、生命の長い進化の末に、ようやく現在の人間に似たものが現れ、その一例がクロマニョン人だということになるわけです。 しかし創造論者によれば、クロマニョン人は人類創造後、歴史の比較的はやい時代に、まだ文明がそれほど発達していない頃に生きた民族以外のなにものでもありません。 実際、よく知られているように、クロマニョン人の脳の大きさの平均は現代人のものよりも二〇〇〜四〇〇CC大きく、頭脳も体格もりっぱなものでした。 彼らは身体的・能力的に、現代人にまさるとも劣らなかったのです。 ジェフリー・グッドマンはこう述べています。 「クロマニョン人は、一般に少し頑丈で、また少し筋肉が発達している点を除けば、 現代人と区別できない」。 (二〇) クロマニョン人は身体的・能力的に現代人にまさるとも劣らなかった 以上見てきたように、進化論者が人の進化の各段階を示していると主張してきたこれらのものは、いずれも進化の証拠ではありませんでした。 アウストラロピテクス類は、ヒトでも、「猿人」でも、ヒトの祖先でもありませんでした。 それは、大洪水以前の絶滅動物の一種でしょう。 ジャワ原人や北京原人も、サルとヒトの中間型ではなく、サルからヒトへの進化の証拠としての価値をもっていません。 ネアンデルタール人やクロマニョン人は、現代人と同じ人間であり、中間型ではありませんでした。 他にも「猿人」とか「原人」と名付けられているものはありますが、いずれも進化の証拠たり得ません。 人と他の動物の間隔を埋めるものは、事実上ひとつもないのです。 このように、サルあるいはそれに似たものから、ヒトへと次第に進化してきたという説を支持する真の証拠は、いずこにも見当たりません。 膨大な数の証拠は、"人間ははじめから人間として創造され、しかもその創造は最近のことであった"という聖書の記事の正しさを裏付けているのです。 【註】 (一) 竹内均・都城秋穂著『地球の歴史』(NHKブックス一九八三年)、一九六ページ (二) 同一九六ページ (三) 同一九六ページ (四) 同一九六ページ (五) ジェフリー・グッドマン著『人類誕生のミステリー』(明日香出版社一九八三年)、一七ページ (六) 同一八二ページ (七) 同一七七ページ (八) 『インパクト』(聖書と科学の会)五六号、二ページ (九) ジェレミー・リフキン著『エントロピーの法則2』(祥伝社 一九八三年)、一二八ページ (一〇) 『インパクト』八二号、三ページ (一一) 同二ページ (一二) ジェフリー・グッドマン 前掲書六〇ページ (一三) 『インパクト』八二号、四ページ (一四) トーマス・F・ハインズ著『創造か進化か』(聖書図書刊行会 一九七五年)、八五ページ (一五) F. Clark Howell "NEANDERTHAL MAN", Encyclopedia Britannica Vol. 16 1965 P. 152 (一六) 『インパクト』五六号、二ページ (一七) トーマス・F・ハインズ前掲書八五ページ (一八) ジェフリー・グッドマン前掲書七九ページ (一九) トーマス・F・ハインズ前掲書八八ページ (二〇) ジェフリー・グッドマン前掲書八三ページ 著.

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全ての起こることは初めから決まっている。

全て は 初め から そこ に 存在 し てい た

人類の誕生 人類はサルから進化したのではない。 現生人類は初めから存在していた。 人間は高度に「デザイン」されたものだ 現生人類は最初から存在していた 進化論の教科書を読むと、必ずと言っていいほど出てくるのが、人類の祖先とされる、あの毛むくじゃらの「猿人」や「原人」の絵です。 よく引き合いに出されるのは、 アウストラロピテクス、ジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人、クロマニョン人などですが、これらについて、ある進化論の解説書は次のように説明しています。 「人類の中でいちばん古いのは・・・・アウストラロピテクス(南の猿の意)という動物だと言われている。 これはサルと人間の中間のものだが、石を割って石器を使う知恵を持っていた」。 (一) 「アウストラロピテクスよりも少し新しいものには、ジャワ島で発見されたピテカントロプス(ジャワ原人)とか、中国の北京の近くの周口店で発見された北京原人とよばれる人類がある。 これらは、五〇万年くらい前に生きていた」。 (二) 「ネアンデルタール人と呼ばれる、猫背で、がにまたの人類が今から十数万年前に、ヨーロッパや中央アジアや、北アフリカに広く住んでいた」。 (三) 「今から約五万年前から約一万年前までの時代になると、現在の人類と同じ人間が、広くヨーロッパに住むようになった。 この連中を、クロマニョン人という」。 (四) 進化論者は長い間、人類はアウストラロピテクスなどの「猿人」から、ジャワ原人・北京原人その他の「原人」が出、そこからネアンデルタール人などの「旧人」が出て、最後にクロマニョン人などの「新人」が出てきた、と説明してきました。 「原人」は学名ではホモ・エレクツス、「旧人」はホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス、「新人」はホモ・サピエンス・サピエンスと言われています。 しかし最近では、この考えが誤りであることを示す印象的な証拠が、いくつか提出されています。 現生人類は、進化論者が「猿人」とか「原人」「旧人」などと呼んだものの生息していたまさにその時代に、すでに生息していたのです。 米国アリゾナ州トゥクソンにある考古学研究所の所長ジェフリー・グッドマンは、その著「人類誕生のミステリー」の中でこう述べています。 「(この結果は)現生人類が、ネアンデルタール人(旧人)に先立ち、すでにホモ・エレクツス(原人)の時代に生息していたことを示すものである」。 (五) 「南アフリカの化石や、同じような東アフリカの化石は、ホモ・エレクツス 原人 とホモ・サピエンス・サピエンス 現生人類 とが、まさに同じ地区で共存していたという事実に当面させる。 ・・・・一言にして言えば・・・・この 二つの種は、進化的意味からは無関係であるとの説明を補強するものである」。 (六) 「化石記録は・・・・アウストラロピテクス(猿人)とホモ・エレクツス(原人)とは同時に存在していた・・・・ことを支持している」。 (七) こうした共存の例は数多く発見されており、いまや現生人類が、「アウストラロピテクス」「ホモ・エレクツス」また「ネアンデルタール人」と同時代に存在していたことは、確実です。 これは、現生人類がアウストラロピテクスや、ホモ・エレクツスから出てきたのではなく、"当初から"存在していたという、創造論者の主張を裏づけるものです。 グッドマン所長はこう結論しています。 「最初の新人類は、従来考えられたよりはるかにスマートであったばかりか、それもずっと早くからそうであった」。 進化論者が、「猿人」とか「原人」と呼んだものは、人類の祖先などではなかったのです。 人類の先祖はサルではない では、「サルのような動物からヒトへの過渡的状態を示す中間型(移行型)である」と主張されてきたアウストラロピテクスや、ジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人などは、いったい何だったのでしょうか。 結論から言えば、それらはサルからヒトへの「中間型」などではなかったのです。 実際、進化論を受け入れている科学者のなかにさえ、これらの「中間型」がいずれもきわめて空想的で、かなりの誇張が含まれていることを正直に認める人は、今日では少なくありません。 たとえばツッカーマン卿は、創造論者ではありませんが、類人猿に似た動物からヒトへと姿を変えていく 「化石上の痕跡」は、ひとつもないと述べています。 (八) 読者は、学生時代に生物の授業で、人間はサルのような動物から次第に進化してきたのだという説を、化石などを並べられて、あたかも証明された事実であるかのように教え込まれてきたことを思い起こすでしょう。 しかし、これから詳しく見ていくように、サルのような動物からヒトにいたる中間型はおろか、生物のあらゆる種間で、かつて「中間型」と主張されたものも、皆じつは中間型などではなかったことが判明したのです。 世界の全化石の二〇%が保存されているシカゴ・フィールド博物館の館長であるデービッド・ロープは、こう述べています。 「進化論の立場から生命を説明する上で、化石がそれを証明してくれると思っている人は多い。 さて、ダーウィンが『種の起源』を書いてから一二〇年たつ今、化石記録に関する研究は大いに進んだ。 しかし皮肉なことに、 進化論を支持する実例は、まるで出てこないのである」。 (九) まるで出てこない? では、今まで進化論者たちが「進化の証拠」だと主張してきた様々なものは、いったい何だったのでしょうか。 アウストラロピテクスは、大洪水以前に生息し、後に絶滅した動物の一種であろう。 アウストラロピテクスは絶滅動物の一種だった まず、アウストラロピテクスから見てみましょう。 アウストラロピテクスは、はじめ一九二四年にレイモンド・ダートの手によって発掘されて以来、サルとヒトの中間である「猿人」とされてきました。 しかし今日では、多くの著名な学者の手によって、その考えが間違いであることが明らかにされています。 たとえば著名な人類学者、ラトガース大学のアシュレー・モンテギュー博士はこう述べています。 「 アウストラロピテクス類は・・・・ヒトの直接の祖先にも、ヒトに至る進化の系列にもなり得ない」。 (一〇) アウストラロピテクスは、ヒトの祖先ではなく、まったく異なった他の動物であったようです。 解剖学と人類学の教授チャールズ・オクスナード博士が、一九七五年に発表したところによると、「多変量解析」という方法で調べた結果は、アウストラロピテクスは、ヒトでも類人猿でも、またその中間の移行型でもなく、 まったく異なったものであることを示しているとのことです。 (一一) また最近、リチャード・リーキー博士は、彼が新しく発見したより完全なアウストラロピテクスの前脚と後脚の化石は、この動物が直立歩行をしていなかったことを示している、と述べました。 アウストラロピテクスは、 大洪水以前に生息し後に絶滅した、サルやゴリラに似た動物の一種に過ぎなかったのです。 「ジャワ原人」や「北京原人」は進化の証拠ではない 進化論者は、「原人」(ホモ・エレクツス)すなわち最初の人として、「ジャワ原人」や「北京原人」と彼らが呼ぶものを、よく取り上げてきました。 しかしこれらは、いずれも今日では進化の証拠としての価値を失っています。 「ジャワ原人」は、一八九一年、進化論に感化された若者ユージン・デュボアによって発見されたとされていますが、その証拠とされる骨と言えば、頭蓋骨と、歯と、大腿骨だけでした。 それら三つの骨からデュボアは、この動物は直立歩行をしていたもので、サルとヒトの中間型であると考えました。 そして得意になって、 「ついにミッシング・リンク(失われた環=中間型)を発見した」 と報じ、この動物をピテカントロプス・エレクツス(直立する猿人の意)と命名しました。 しかし当時イギリスの科学者らは、「これは正確にはミッシング・リンク(中間型)ではなく、サル的特徴をもつヒトである」と論じました。 (一二) つまり、サルとヒトの中間動物ではなく、"サルに似たヒト"であるとしたのです。 また、デュボアの骨に関する説明は、当時の一流の解剖学者ルドルフ・バーコウ博士やW.H.バロウ博士らによって強く批判されました。 頭蓋骨は大腿骨から一五mも離れた所で発見され、歯は頭蓋骨から数mも離れた所で見つかったからです。 これらの骨が同一の体に属している証拠は全くありませんでした。 それらを同一の体に属するものとして結びつけたものは、デュボアの進化論的想像だけだったのです。 「ジャワ原人」とされた化石は、頭蓋骨の一部と歯と大腿骨だけで、 しかもそれらが同一の体に属していた証拠はなかった。 このような ものから、図右にみるような「ジャワ原人」の絵が描かれた。 また、「北京原人」はどうでしょうか。 「北京原人」も、やはりヒトの骨とサルの骨とが組み合わせられたものだ、と考える人が少なくありません。 中国の北京では、サルの脳みそを食べる習慣があり、脳みそを食べた後、サルは近くに捨てられました。 それで北京では、サルとヒトの化石化した骨が、近くで発見されることがあるのです。 「北京原人」の化石と言われたものは、第二次世界大戦中に失われてしまったので、今日私たちはそれを見ることができません。 そのため、以前にはできなかった化学検査や、その他の進歩したハイテク技術によって、今日それを調べ直すことすらできないのです。 そのようなものを「進化の証拠」と称して教科書にかかげる進化論者の態度には、問題があると言えないでしょうか。 このように「ジャワ原人」にしても「北京原人」にしても、私たちの手元にあるのは、わずかな骨、あるいは六〇年も昔の発掘記録と、進化論的先入観に満ちた人々の膨大な想像だけです。 「原人」と呼ばれるものは他にも幾つかありますが・・と言っても一ダースとありませんが・・進化の証拠としての価値を持っていないということでは、大同小異です。 進化論者は、サルに似た外見をもったヒトの化石が発見されると、すぐさまそれをサルとヒトの中間動物だとか、ヒトの祖先だとか主張してきました。 しかし私たちは、今日の世界においても、背が低く、頭も小さく、顔形もサルに似ていないとも言えない人が、しばしば見うけられることを知っています。 実際たとえばバイロン・C・ネルソン博士は、現代の聡明な人物の中にも、「せまい額」や「後退した顎」を持つ人がいる例をあげています。 一三 「ジャワ原人」にしても「北京原人」にしても、またその他の「原人」と言われたものにしても、人間がサルのような動物から進化してきたという説の証拠とはなり得ません。 「猿人」とか「原人」というようなものは、もともと存在しなかったのです。 あったのは、サルと、サルに似た絶滅動物と、人間です。 サルと人間の中間は、存在しません。 サルは初めからサルとして存在し、人間も初めから人間として存在していました。 サルも人も、聖書が述べているように同時代に創造され、同時代に生存を始めたのです。 ネアンデルタール人は完全に「ヒト」だった ネアンデルタール人は、かつては進化論者によって、 「前かがみで、ひざをひきずり、毛深く、ぶつぶつ声を出し、骨高の額、そしてその下のくぼんだ眼窩から外をのぞきながら、何か獲物はないかと歩いている類人」(一四) として、さかんに取り上げられました。 そして、その絵や彫像が、進化論を広めるために長年利用されてきたのです。 それは、そうした前かがみで歩く姿が猿の歩く姿に似ているので、進化論者が進化を説明するのに、恰好の材料だったからです。 しかし、『ブリタニカ大百科辞典』には、次のように述べられています。 「一般に普及しているこの人類についての概念、つまり前かがみの姿勢、足をひきずりながらの歩行、そして曲がったひざ、これらは二〇世紀初頭に発見されたネアンデルタール人の一体の人骨の、肢骨の ある特徴を誤って解釈したことの産物である」。 (一五) 二〇世紀初頭に発見されたネアンデルタール人は、その骨の状態から、曲がったひざをもっていて、前かがみで歩いていたものなのだと解釈されました。 そして進化論者は、この一体の人骨を、ネアンデルタール人がまだ猿的な要素をもつヒトであったことの証拠として用いました。 他にもネアンデルタール人の化石は多く見つかっており、それらはみな完全な直立歩行をしていたことを示しているのに、ただ一体の骨から得られた結果が、そのように使われたのです。 しかし今では、この前かがみのネアンデルタール人は、ひざに、 くる病とか関節炎とかの病気をもっていたのだということが、わかっています。 生物学者デュアン・T・ギッシュ博士は、こう述べています。 「今では、これらの『原始的特徴』は、栄養上の欠陥と、病的状態によるものであることがわかっており、 ネアンデルタール人は今では完全な人として分類されています」。 (一六) このようにネアンデルタール人は、完全に「人」でした。 ネアンデルタール人は、大洪水以前の一人種だったに違いない。 しかも、ネアンデルタール人の脳の容積は現代人のものよりも多少大きかったとさえ言われており、また「肩から首にかけて盛り上がるようにして走っていた筋肉も、ありませんでした」 一七。 ですから、ジェフリー・グッドマン博士はこう述べています。 「ネアンデルタール人が肩を曲げ、かがんだ形で、 あまり賢くない動物と考えるのは、主に初期研究者たちの先入観による間違った固定観念である」。 (一八 このように、ネアンデルタール人は私たち現代人と同じような人間だったのであり、進化論者が描いたあのサルに似たものは、まったくの空想の産物にほかならなかったのです。 ネアンデルタール人は、大洪水以前に生きた人類の、一人種だったのでしょう。 クロマニョン人は身体的・能力的に、現代人に勝るとも劣らなかった 進化論者によると、今から約五万年前になると、現在の人類と同じ人間がひろくヨーロッパに住むようになったとされ、彼らはクロマニョン人と呼ばれています。 有名なフランスの「ラスコー洞窟」の壁画は、クロマニョン人が描いたものです。 これは今から「約三万年前」のものと言われています。 ところが、炭素一四法によって調べられた年代は、「約一万年前」と出ています。 しかしこれでは、絵が非常に古いとする進化論者の考えに合わないために、この年代は斥けられています。 (一九) 進化論者によれば、生命の長い進化の末に、ようやく現在の人間に似たものが現れ、その一例がクロマニョン人だということになるわけです。 しかし創造論者によれば、クロマニョン人は人類創造後、歴史の比較的はやい時代に、まだ文明がそれほど発達していない頃に生きた民族以外のなにものでもありません。 実際、よく知られているように、クロマニョン人の脳の大きさの平均は現代人のものよりも二〇〇〜四〇〇CC大きく、頭脳も体格もりっぱなものでした。 彼らは身体的・能力的に、現代人にまさるとも劣らなかったのです。 ジェフリー・グッドマンはこう述べています。 「クロマニョン人は、一般に少し頑丈で、また少し筋肉が発達している点を除けば、 現代人と区別できない」。 (二〇) クロマニョン人は身体的・能力的に現代人にまさるとも劣らなかった 以上見てきたように、進化論者が人の進化の各段階を示していると主張してきたこれらのものは、いずれも進化の証拠ではありませんでした。 アウストラロピテクス類は、ヒトでも、「猿人」でも、ヒトの祖先でもありませんでした。 それは、大洪水以前の絶滅動物の一種でしょう。 ジャワ原人や北京原人も、サルとヒトの中間型ではなく、サルからヒトへの進化の証拠としての価値をもっていません。 ネアンデルタール人やクロマニョン人は、現代人と同じ人間であり、中間型ではありませんでした。 他にも「猿人」とか「原人」と名付けられているものはありますが、いずれも進化の証拠たり得ません。 人と他の動物の間隔を埋めるものは、事実上ひとつもないのです。 このように、サルあるいはそれに似たものから、ヒトへと次第に進化してきたという説を支持する真の証拠は、いずこにも見当たりません。 膨大な数の証拠は、"人間ははじめから人間として創造され、しかもその創造は最近のことであった"という聖書の記事の正しさを裏付けているのです。 【註】 (一) 竹内均・都城秋穂著『地球の歴史』(NHKブックス一九八三年)、一九六ページ (二) 同一九六ページ (三) 同一九六ページ (四) 同一九六ページ (五) ジェフリー・グッドマン著『人類誕生のミステリー』(明日香出版社一九八三年)、一七ページ (六) 同一八二ページ (七) 同一七七ページ (八) 『インパクト』(聖書と科学の会)五六号、二ページ (九) ジェレミー・リフキン著『エントロピーの法則2』(祥伝社 一九八三年)、一二八ページ (一〇) 『インパクト』八二号、三ページ (一一) 同二ページ (一二) ジェフリー・グッドマン 前掲書六〇ページ (一三) 『インパクト』八二号、四ページ (一四) トーマス・F・ハインズ著『創造か進化か』(聖書図書刊行会 一九七五年)、八五ページ (一五) F. Clark Howell "NEANDERTHAL MAN", Encyclopedia Britannica Vol. 16 1965 P. 152 (一六) 『インパクト』五六号、二ページ (一七) トーマス・F・ハインズ前掲書八五ページ (一八) ジェフリー・グッドマン前掲書七九ページ (一九) トーマス・F・ハインズ前掲書八八ページ (二〇) ジェフリー・グッドマン前掲書八三ページ 著.

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