杉原 千畝。 杉原千畝はなぜユダヤ人を助けたか? 実の息子が明かす、偉人が貫いたサムライ魂

名誉回復に44年間かかった「日本のシンドラー」杉原千畝

杉原 千畝

杉原千畝は明治から昭和にかけて活躍した日本の外交官です。 第二次世界大戦の最中、ナチス・ドイツの迫害で、ポーランドなどから逃げてきた難民たちに、外務省の訓令に反しながらも、「命のビザ」と呼ばれる大量のビザを発行し約6,000人の難民を救いました。 このことから杉原千畝は 「東洋のシンドラー」と呼ばれるようになります。 多くの難民の中でも、最もユダヤ人系が多かったため、昭和60年(1985)にイスラエル政府から、多くのユダヤ人を救った日本人として日本人で唯一のヤド・バシェム賞が与えられました。 そんな杉原千畝の生涯や命のビザについて、また海外の反応や、イスラエルとの関係性、名言を解説していきます。 杉原千畝の生い立ち 杉原千畝は明治33年(1900)1月1日、現在の岐阜県美濃市である岐阜県武儀郡上有知町の税務官吏であった父・好水の次男として誕生しました。 明治36年(1903)には福井県丹生郡朝日村、翌年には三重県四日市市、明治38年(1905)には岐阜県恵那郡中津町へ移り住みます。 中津町立尋常小学校に入学した杉原千畝でしたが、名古屋古渡尋常小学校へと転校となりました。 その後、旧制愛知県立第五中学に入学し卒業後、京城医学専門学校へと入学します。 父は、杉原千畝が医者になることを望んでいましたが、杉原千畝は医者を志しておらず、大正7年(1918)4月に早稲田大学高等師範部英語科に入学しました。 この大学生活の中で、 杉原千畝は外務省留学生試験を知り猛勉強の末、外務省留学生試験に合格します。 満洲国外交部事務官となる 大正8年(1919)10月、 日露協会学校(後にハルビン学院と改名)に入学します。 11月に早稲田大学を中退した杉原千畝は、外務省留学生試験に合格したため、留学生として中華民国のハルビンに留学し、ロシア語を学びました。 大正9年(1920)12月から大正11年(1922)3月まで朝鮮の駐屯である陸軍歩兵第79連隊に入隊します。 大正12年(1933)ハルビン学院を卒業すると大正13年(1924) 外務省書記生に採用されます。 その後、昭和7年(1932) 満洲国外交部事務官となりました。 昭和7年(1932)ハルビンの日本総領事館にいた杉原千畝は満州国の建国が宣言されると満洲国政府の外交部に出向となるも、北満洲鉄道を担当すると昭和10年(1935)に満洲国外交部を退官します。 杉原千畝はハルビン在職中、ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚するも離婚、また正教会の洗礼を受け「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」の洗礼名を与えられています。 日本政府による難民の受け入れ方針 昭和12年(1937)になると、 杉原千畝はフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館となります。 もともと杉原千畝はモスクワの在ヘルシンキ日本公使館に就任予定でしたが、反革命的な白系ロシア人と交流があったことことからソ連が杉原千畝を拒絶し、杉原千畝はフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館となりました。 この頃、 欧州では、ナチス・ドイツから迫害を受けた難民たちが極東へ向かっていました。 このことを懸念した、山路章ウィーン総領事は日本に難民が押し寄せたことを想定し、対策を考え、日本は、ナチス・ドイツから迫害を受けた難民を受け入れない方針を打ち出しました。 日本政府は「五相会議」において、ユダヤ人保護案を上示しながらも、裏ではユダヤ人差別を指示していたのです。 極東へと向かう難民たち 昭和14年(1939)8月28日、 日本人の全くいないリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となります。 9月1日、ナチス・ドイツがポーランド西部に侵攻したため、 第二次世界大戦が勃発しました。 9月17日になると、ソ連が独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づいて、ポーランド西部に侵攻を始め、翌年の6月15日になるとソビエト軍がリトアニアに進駐となります。 杉原千畝の派遣されたリトアニアには、ユダヤ教の神学校があったため、ヨーロッパ中のユダヤ教の留学生が集まっていました。 この頃になると、オランダやフランスはナチス・ドイツに占領され、またトルコ政府も難民のビザ発行を拒否するようになっていたため、 難民たちはシベリア鉄道を経て極東に向かう逃げ道しか残されていませんでした。 通過ビザを求める難民が殺到 そんな中、 昭和15年(1940)7月、ドイツに占領されたポーランドのユダヤ系難民たちがオランダ領アンティルを目的地とした通過ビザを取得するためリトアニアに逃れてきます。 難民の殺到を予想していなかった杉原千畝は数人のビザ発行なら領事の権限で発行することができましたが、それ以外の多くの難民のビザ発行は日本の了承を得無ければいけませんでした。 杉原千畝は多くの難民のビザ発行の了承を得るために日本政府へ連絡をとりましたが、 日本政府は難民の受け入れを拒否していたため、ユダヤ人難民のビザ発行はしないようにと杉原千畝に忠告します。 命のビザの発行を行う しかし、杉原千畝はナチス・ドイツから迫害を受けるユダヤ系難民を多く見ていたため、独断で、受給要件を満たさない難民にもビザを発行することにしました。 これに対し、日本政府は難民にビザ発行をしないよう再三注意しましたが、杉原千畝は避難民たちの写真を添え、ビザ発行の理由を記しました。 ソ連や、日本政府からリトアニアからの退去命令が出ても、杉原千畝は1か月余り寝る間も惜しみ、ビザの発行を行います。 しかし、ベルリンへの異動命令がなされると、無視することはできず同年9月5日、ベルリンへと向かいました。 杉原千畝は、ベルリンへと向かう車内でも、ビザを発行し続け、この間2,139枚のビザが発行されたとされています。 モスクワにおいても難民が押し寄せる 昭和16年(1941)独ソ不可侵条約を破棄したドイツがソ連を侵攻した独ソ戦が目前に迫ると、 モスクワの領事館にも、ビザの発行を求める難民たちが集まります。 しかし、通過ビザを与えられた難民たちの多くはシベリア鉄道の乗車券を持っておらず、シベリア鉄道で極東まで行くことはできず、またビザ発行もできず、逃げ遅れたユダヤ人難民たちは、ナチスやソ連の強制収容所に送られ命を落としました。 日本に帰国 その後、プラハ、さらにケーニヒスベルク赴任となります。 ドイツはこのような杉原千畝の行動を、監視していたため昭和16年(1941)8月7日、ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは外相リッベントロップにドイツ国においてスパイ活動をしている人物として杉原千畝の名前を挙げました。 その結果、 さらに杉原千畝に対するスパイ容疑の監視は強まり、ケーニヒスベルクからの即刻退去を命じられ、ドイツの保護領になっていたチェコのプラハの日本総領事館に勤務となります。 その翌年には東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館に赴任となり、ポーランド諜報機関と繋がっていた杉原千畝は、5月9日、日本政府に6月22日に独ソ戦が勃発する、またソ連側は長期戦に備え穀物の大量備蓄を始めていると、報告しています。 しかし、日本政府は日米交渉に没頭していたため、杉原千畝の情報を信じず、 杉原千畝の情報は活かされることはありませんでした。 同年11月から昭和21年(1946)までルーマニアのブカレスト公使館などで務めました。 第二次世界大戦において、日本が降伏をした2日後、ブカレストの日本公使館にいた杉原千畝と家族はソ連軍に身柄を拘束されてしまいます。 翌年の昭和22年(1947) 杉原千畝のその家族は、日本に帰国を果たします。 再開を果たす 日本に帰国した杉原千畝とその家族は横浜に居を据えました。 6月7日に岡崎勝男・外務次官から退職通告書が届いたため、外務省退官をした杉原千畝でしたが、義理の妹・菊池節子、三男・杉原晴生を亡くすなど、不運に見舞われます。 その後、連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院の教授など務め昭和35年(1960)には川上貿易のモスクワ事務所長、昭和39年(1965)には国際交易モスクワ支店代表となります。 昭和43年(1968) 杉原千畝からビザを発行され新生イスラエルの参事官となったニシュリと大使館で28年ぶりに再会します。 また昭和45年(1970)1月、 杉原千畝からビザを発行されイスラエルの宗教大臣となったゾラフ・バルハフティクとエルサレムとも再会を果たしました。 海外の反応、杉原千畝の最期 昭和50年(1978) 日本に帰国した杉原千畝でしたが、このとき、日本では杉原千畝はユダヤ人からお金を受け取り、多くの難民のビザ発行をしていたので、お金には困っていないのであろう。 といった中傷が多く寄せられていました。 この中傷をしていたのは旧外務省関係者で、 日本に在住していたドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンは、杉原千畝が無償で命をかけてビザを発行していたことを知っていたため、旧外務省関係者に真っ先に抗議します。 また昭和45年(1970)1月に再会を果たした バルハフティクは、インタビューにおいて杉原千畝を非難する旧外務省関係者は杉原千畝の名誉を回復すべきだ。 という言葉を残してます。 そのかいもあってか昭和58年(1983)杉原千畝はフジテレビの深夜放送に取り上げられ、昭和60年(1985)にはイスラエル政府からユダヤ難民を救った功績を称え日本人初となる「ヤド・バシェム賞」を与えられ、 日本において杉原千畝の名前とその功績が知れ渡りました。 その翌年の7月31日、 杉原千畝は86歳で亡くなりました。 平成24年(2012)3月22日、米国フロリダ州ボカラントン市で 杉原千畝の功績を称えた式典が行われ、平成28年(2016)6月8日にはイスラエルのネタニヤ市で杉原千畝の没後30年を期に 「チウネ・スギハラ通り」が名付けられました。 他にも様々な国々で杉原千畝の功績が称えられています。 名言 日本政府の方針を破り、難民を多く救った杉原千畝はこのような名言を残しています。

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杉原千畝に感謝示した森消える イスラエルの団体が謝罪:朝日新聞デジタル

杉原 千畝

杉原千畝(すぎはら ちうね)は日本の外交官で、第二次世界大戦中に、リトアニアの日本領事館に赴任していました。 ナチスドイツから迫害を受けて逃れてきたユダヤ人らの避難民が、国外脱出のためビザの発給をしてもらおうと日本領事館に押し寄せます。 当時日本はドイツと三国同盟を結んでおり、日本政府は、政治的配慮によりビザの発給に厳しい条件を付け、実質的には認めていませんでした。 しかし杉原は、難民たちの困窮する姿に同情し、外務省訓告を破り、時間の許す限りビザを発給し続け、およそ6,000人ともいわれる人々の命を救ったのです。 命を救われた避難民は日本を経由して世界中に散らばり、彼の英断は「東洋のシンドラー」として語り継がれています。 彼は、学生時代から優秀で早稲田大学を経てから当時の満州国ハルビン学院で語学を学びます。 外務省入省後は対ロシアのエキスパートとして諜報活動などに従事します。 その存在は戦時中のヨーロッパで危険人物として警戒され、モスクワ領事館への赴任希望はロシア政府から入国拒否で叶いませんでした。 そのため、ロシアとドイツの狭間にあったリトアニアで両国の情報を収集する任務に就きます。 当時ナチスドイツに占領され、国を追われていたポーランド地下組織と組み、ドイツとロシアの動向を見張る役目を担いました。 ソ連侵攻後はリトアニアの日本領事館も退去することになり、協力関係のポーランド人などに国外退去の為にビザを発給します。 しかし同時に押し寄せた避難民を見殺しには出来ず、リトアニアを出なくてはいけない列車に乗るまで、ビザを発給し続け、できる限りの人命を救いました。 戦後、外務省訓告に違反した杉原は、不遇の後半生をおくることになります。 杉原の人道的行為は長い間、語られることはありませんでした。 しかし世界中に散らばったユダヤ人たちは杉原を命の恩人として語り継ぎ、その功績を称えない日本政府に異議を唱え続けます。 1985年にはイスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では唯一の「諸国民の中の正義の人」として賞を受けますが、その翌年、この世を去ります。 そして2000年になり、はじめて日本政府の外務大臣が、杉原の功績を認めこれまでの待遇を謝罪。 これにより日本国内でも杉原の存在と功績が世に大きく知られるようになりました。 2011年東日本大震災の後、多くのユダヤ人から寄付や支援が贈られたことも、杉原に命を救われた恩返しだったそうです。 1:岩井千畝だったかもしれなかった 彼の父親の三五郎はもともとの岩井姓から杉原姓に変えています。 日清戦争のとき結核を患いますが、杉原姓の将校に親切な手当てを受けました。 感激した三五郎は帰国後、当時珍しいことではありませんが、杉原姓に改名しています。 郷里の八百津は岩井姓が多かったので、杉原のほうが確実に郵便物が届いたとのことです。 2:満州での洪水、杉原は被災者を見捨てなかった 杉原がハルピンにいた頃、満州で洪水が起こりました。 中国人住民に多大な被害を及ぼす洪水でしたが、杉原は臆せず被害調査に向かいます。 洪水の犠牲者のもとへ出向いた杉原は激励を与え、元気付けたといいます。 3:スポーツマンだった 杉原はハルピンにいた頃、勉強ばかりではなくスポーツも楽しんでいたといいます。 特に野球に熱中しており、ハルピン学院の「オーロラ」というチームに入っていました。 しかし、ハルピンは寒冷地であり、彼がハルピンに来たときはオフシーズンでした。 代わりにアイスホッケーも嗜みましたが、野球をするには一冬待つことになりました。 4:一歩先へ行く男 であった 1920年代、杉原は志村という友人と上司のハルピン領事の3人で吉原に繰り出しました。 気に入った娘を決め、さあ快楽のひと時となるはずが、3人とも同じ娘に惹かれていたのです。 結果、身分の高い領事がその娘と夜を過ごし、志村は家に帰り、悶々としていました。 明日こそはと同じ店に行くと、同じ考えだった杉原が彼よりも先に店にいたそうです。 志村は「杉原と言う男は、いつも一歩前を行っていた」と述懐しています。 5:ロシア人女性との結婚 杉原はクラウディアというロシア人女性と結婚していました。 彼女は 杉原の洗礼名である「セルゲイ」と呼び、2人は愛し合っていました。 しかし、彼女は子供を求めておらず、求めていた杉原を離縁する形で後に離婚します。 ですが彼女は後に「今は後悔しています」と彼との日々を惜しんでいます。 6:流暢なロシア語、友人の耳をも惑わす 杉原はマルチリンガルであり、特にロシア語に精通していました。 杉原の友人、笠井唯計 ただかず は彼のロシア語の流暢さが印象に残っているといいます。 ロシア人が激論を交わしているからそちらに近づくと、一方は杉原だったそう。 「彼はロシア人とうまくやってゆくセンスを持っていた」と笠井は語っています。 7:妻、幸子に向けた紳士的なプロポーズ 1936年に杉原は菊池幸子という人と彼女の兄づてに出会い、再婚しています。 杉原を「思いつきの質問にまじめに答えてくれる人」と幸子は語っています。 杉原が結婚したい旨を伝えると「なぜ、私と結婚したいのですか」と幸子が聞くと、彼は「貴方なら外国に連れて行っても恥ずかしくないから」と即答したそうです。 8:運転を覚えた杉原、運転手を困惑させる 杉原は38歳の時、自動車学校の校長だった運転手に車の運転を教わります。 免許を取った数日後、運転手が幸子に「車が盗まれた」と焦って報告に来ました。 少し経つと公使館に車が入り、幸子が外に出てみると車から出てきたのは杉原でした。 運転手がいるときは静かにしていた杉原は、自分で運転できて満足そうだったといいます。 9:思い出の地、カウナス 1939年にカウナス リトアニア に移り、後に「思い出がいっぱいだった」と回想します。 それは後に語られる輝かしい功績ではなく、早世してしまった息子の出生地としてでした。 杉原は、息子の誕生の際の混沌が、結果的に死に追いやったと考えていたそうです。 「戦後、私は過去を忘れようと務めた」と、杉原は言っています。 10:今までの才能を「NHK」で発揮 1950年代、杉原は家族を養うため、臨時の仕事に多数就いたといいます。 50年代後半、彼はNHKラジオ放送にて、ソ連のニュースを傍受・翻訳する仕事に就きます。 当時の同僚は彼を父親あるいは教師のような人であったと懐古しています。 史料が語る杉原千畝の実像 杉原は若い時から語学に優れ、外交官として稀に見る優秀な人物だったようです。 特にロシアについては相当の博識を持ち、最初の結婚はロシア人とだったとは、当時の歴史を考えると驚きの事実でした。 その後、スパイ容疑がかけられ離婚することになりますが、この時代に国際結婚をする杉原の人間としての大きさが感じられます。 命のビザを発給した舞台になったリトアニアですが、当時のバルト三国の重要性が政治的、軍略的に理解できましたし、その場所に赴任した杉原は、外務省の中でも諜報部員として重要な人物だったのだろうと推測されます。 第一次世界大戦から第二次世界大戦に向けての、世界的に諜報活動が重要だった時代に杉原が果たした役割がわかりますし、彼が命を救うことを第一に考えた思考を時代背景から読み取れる作品です。 傍で支え続けた妻の自叙伝 ナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人たちは、ソ連のリトアニアへの侵攻により更に逃亡を余儀なくされます。 しかし、日本を含め各国はドイツとの政治的配慮により、避難民を受け入れることはしません。 命の危機に直面し日本領事館前にビザの発給を希望して人々が押し寄せます。 その中には寒さに震えながら不安そうに見つめる子どもたちなどもいます。 本書では克明にこれらのことが記録されていて、自伝を通して現実を知ることができます。 日本外務省の意向に逆らい、博愛精神から人命を尊重してビザを発給し続ける夫と、自分たちがその後、罪に問われるかも知れないことを理解しながらも協調する妻。 二人の姿に魂が揺すぶられます。 感動の涙があふれだす作品です。 ドイツ、ソ連かから迫害を受けていたユダヤ人たちは、リトアニアで杉原千畝の人道的英断により日本経由のビザを発給され、約6,000人ともいわれる人々が日本に逃げてきます。 しかし経由国ビザであることから、滞在期間も定められており、他の安全な国へ渡航するにも金銭的に難しく、更に日本へもナチスドイツの手が伸びてきて国外退去を迫られます。 そこで救いの手を差し伸べたのが小辻節三という人物です。 ヘブライ語とユダヤ人に造詣の深い小辻は、逃れてきた避難民たちに渡航先の手配や、日本での生活などの支援を行います。 ナチスから暗殺される危険を冒しても、小辻はユダヤ人たちを保護し続けました。 杉原同様、この英断が出来る精神力と行動力には脱帽させられます。 互いに面識のない杉原と小杉ですが、この2人の日本人により、多くの人命がナチスのホロコースト(大虐殺)から救われた博愛精神の連携作業はもっと多くの人が知るべき歴史であると思います。 命のビザがもたらした物語 当時、世界連盟から脱退した日本は、ヨーロッパの諸事情を知るために諜報活動を活発化させます。 その前線で活躍した優秀な諜報員が杉原千畝であり、ドイツに占領され国を追われたポーランド地下組織との交流が大きな役割だったとしています。 戦時中の混沌とした時代に情報を得るために外交官として赴任する杉原の活躍は、決して表舞台には出せないものなのだろうと推測されます。 学生時代から優秀だった杉原千畝。 満州国にいる時はロシア人と結婚してスパイ容疑もかけられています。 すぐに協議離婚をして日本へ戻り、再婚後、次のモスクワへの希望はソ連政府から入国を禁じられます。 このあたりからも、只者ではない雰囲気を醸し出しており、著者が主張するインテリジェンス・オフィサーとしての片鱗が見えてきます。 歴史に埋もれた実像を探るスリルを感じられる作品です。 杉原千畝が命を救うために発給したビザは、約2,000枚以上とされています。 その子孫は3万6千人ともいわれ、命のリレーがもたらした功績は世界規模で賛美されています。 我々は、この功績をもっと知らなくてはいけないものではないでしょうか。

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映画「杉原千畝 スギハラチウネ」ストーリー

杉原 千畝

杉原千畝・幸子夫妻資料 今年は杉原千畝生誕120年・ 「命のビザ」発行80年に当たります。 皆さん、千畝夫人や夫人の御両親が 沼津と深い関りのあることをご存じですか. 杉原千畝は、第二次世界大戦の最中、リトアニアの首都、カウナスの日本領事館の館長として赴任していた時、ナチスドイツの迫害でポーランドから逃げてきたみず知らずの難民たちを救うため、外務省の訓令に反しながらも、自らの外交官の職と自分や家族の命までも危険にさらして、昭和15年「命のビザ」と呼ばれる大量のビザを発行し、約6,000人の難民を救いました。 その後、抑留生活を経て、昭和22年帰国。 しかし、帰国後まもなく外務省より呼びだされ辞表の提出を求められ、外務省官吏の職は解かれました。 更に本人を含め家族は世間の誹謗中傷の嵐の中に晒されることになりました。 国外では、昭和44年 1969 イスラエル宗教大臣より勲章を受与されたり、昭和60年 1985 には、イスラエルの「諸国民の中の正義の人賞」、ヤド・バシェム賞を受賞するも、国内では、名誉が回復されず、千畝の名誉回復がなされたのは、帰国後44年経った平成3年 1991 の事でした。 このような千畝と苦楽を共にし、寄り添ったのが、母が町立沼津女子尋常高等小学校(現、沼津市立第二小学校)教師、父が現、県立沼津商業高等学校の教師であった御両親から生まれた幸子夫人でした。 なお、夫人は現在の沼津市末広町(山神道)にて誕生しています。 今年「命のビザ」発行80年に当たり、ユダヤ人大虐殺の時代に自己犠牲のうえにたち、多くのユダヤ人を救い人道主義を貫いた、千畝と幸子ご夫妻の顕彰を、夫人の誕生地であるこの沼津で行い、この偉業を広く市民の皆さんにも知ってもらうと共に後世に伝えたいとの動きが今、始まっています。 大庭つる 母・みよ 旧姓、大庭 と父・杉山進の間に、明治21年に生まれる。 2歳の時、母の義理の兄・大庭松五郎 1日姓・勝又 の養子となる。 町立沼津女子尋常小学校教員 現 沼津市立第二小 菊池文雄 明治15年、岩手県遠野に生まれる。 沼津町立沼津商業学校教師 現、県立沼津商業高等学校 明治43年7月20日、大庭つると結婚、この時期つると文雄が在籍した学校は共に、山神道(一小校地)にあった。 杉原幸子 旧姓、菊池 大正2年12月23日、父・菊池文雄と母・つる 旧姓、大庭 の間に、駿東郡沼津町山神道71 現、沼津市末広町 で生まれる。 杉原千畝 明治33年、岐阜県武儀郡上有知町 現、美濃市 に生まれる。 に至るこの時期には、両親の勤務していた校舎は、共に山神道内にあった。 【杉原千畝】 明治から昭和にかけて活躍した日本の官僚、外交官。 第二次世界大戦の最中・リトアニアの首都、カウナスの日本領事館 館長 に赴任した際、ナチス・ドイツの迫害でポーランドから逃げてきた難民たちを救うため、外務省の訓令に反しながらも、自らの外交官の職と自分や家族の命までも危険にさらし、昭和15年 1940 7月9日~8月26日「命のビザ」と呼ばれる大量のビザを発行し、約6,000人の難民を救ったことで知られる。 その避難民の多くは、ユダヤ系であった。 誕生地大正2年12月23日駿東郡沼津町本字山神道71に生まれる• 157• 170•

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