(昭和6年)のとに続いて、当時の政治的の大部分に少なくともある程度は関与したが、陸軍と海軍のメンバーは分裂し、民間の国粋主義者たちとの関係を清算した。 また午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。
「あなた方陸大出身のエリートには農山村漁村の本当の苦しみは判らない。 統制派による青年将校への抑圧 [ ] 統制派のエリート幕僚たちは、のの教訓から、今後の戦争は、単に軍隊だけが行うものではなく国家の総力を傾注せねば勝てず、そのためには国家の全力を戦争に総動員する体制()が必要と考えた。
しかしながら、青年将校の考える国家改造とは、「君側の奸を倒して天皇中心の国家とする」ということであり、軍部中心の国家とすることを求めるものではなかった。
この際、陸軍大臣と陸軍次官が、真崎の左側に出て来て、古荘次官が石原を招いたが、この際に片倉は磯部浅一に頭部をピストルで撃たれている。
あの人(鈴木)はのような人で懐が大きい人だ」と言い、何度も決起を思い止まろうとしたとも言われる。
午後6時、蹶起部隊に対する小藤の指揮権を解除(同第11号)。 ……の『大義を明らかにし、人心を正さば、皇道 奚 ( な )んぞ 興起 ( こうき )せざるを 患 ( うれ )えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。
13このとき片倉は「ヤルなら天皇陛下の命令でヤレ」と、怒号を発しながら、部下に支えられて現場を立ち去っている。
この昭和天皇の敵意は青年将校たちにとって最大の計算違いというべきで、すでに昭和天皇の意志が決したこの時点で反乱は早くも失敗に終わることが確定していたといえる(奇しくも明治維新の際、がに激しい敵意をもっていた状況に似ているが、この時は孝明天皇が崩御したことで状況が逆転している)。
、栗原中尉はから蹶起資金として3000円受領した。
しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた参謀次長が激しく反対したため「討伐」に意志変更した。
中尉・野重七• 反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。
川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古荘次官、真崎、山下を招致するよう命じた。 高橋は事件後に位一等追陞されるとともにが贈られた。
また裏門の詰め所では、小館喜代松巡査がに事態を急報する非常ベルを押す一方、清水与四郎巡査は邸内に入って裏庭側の警備に当たった。
川島は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。
たかは皇孫御用掛として迪宮の4歳から15歳までの11年間仕えており親しい関係 にあった。
結果的に、蹶起部隊は長中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。
今は訪れる参拝者はほとんどいないところですが、意識のレベルは998ポイントと、最も高い聖地です。 鈴木は生涯、自分を襲撃した安藤について「あのとき、安藤がとどめをささなかったことで助かった。
本庄は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。
しかし、これも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配布した。
この間に邸内に引き返した岡田総理は女中部屋の押入れに隠され、松尾大佐と土井巡査はあえてそこから離れて中庭に出たところを襲撃部隊と遭遇、松尾大佐は射殺され、土井巡査も拳銃弾が尽き、林八郎少尉に組み付いたところを左右からで刺突され、殉職した。
叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部はしたが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。 次長はあの部屋にいるから相談してくる。 中島中尉 約100• 具体的には機を見て武力で占領すること、などであった。
教育総監・陸軍大将(即死) 鈴木侍従長官邸 午前5時10分頃• 青年将校たちは、日本が直面する多くの問題は、日本が本来あるべきから外れた結果だと考えた(「国体」とは、おおよそ天皇と国家の関係のあり方を意味する)。 () 組閣のために対象から外される 第二次目標 [ ]• 中尉・歩一• 半蔵門に近い麹町警察署の署長室には当時、直通のが設置されており、午後8時、その電話が鳴ると、たまたま署長をに乗せて走り回る役目の巡査が出た。
決起のきっかけ [ ] 青年将校らは主に東京の、およびに属していたが、第1師団のへの派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。
少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、7時半ごろ、古荘次官が到着した。
(陸軍歩兵中尉・歩兵第3連隊附)• 民間人1名(重傷) 渡辺教育総監私邸 午前6時頃• 以前の住所録作成ページをご覧になりたい方は、「」をご覧ください。
六所皇大神社もおそらくは、筑波山を御神体として遥拝する場所であったのが始まりで、その後左図のような社殿も造られました。 維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。
いちおう参謀次長の了解を受けねばならぬ。 今回の壮挙まことに感激に堪えん!このさい一挙に断行の素志を貫徹するよう、及ばずながらこの橋本欣五郎お手伝いに推参した」と、時代劇の仇討ちもどきの台詞を吐いたが、蹶起将校の村中や磯部たちには有難迷惑であり、体よくあしらわれて追い返されている。
高橋少尉・歩三• 「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。
行政戒厳であった。
2月20日に安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。
巡査は会話の中で、相手が「朕」の一人称を使ったことから昭和天皇だと理解し、体が震えたという。 ただし五・一五事件は海軍中尉らの独断によるテロであり、将校としての地位を利用したクーデターではない。
同じ頃、真崎甚三郎大将ものからの連絡で事件を知った。 高橋が初年兵身上調査の面談で家庭事情を聞くと、兵が「姉は…」といって口をつぐみ、下を向いて涙を浮かべる。
いわゆるおなじみの「皇道派」の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織し、決起へ向けて動きを開始したと見るべきであろう。
速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと• 蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。
安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。
皇道派と国体原理派の関係の正確な性質は複雑である。 岡田啓介 (内閣総理大臣・海軍大将) - 殺害対象であり首相官邸を襲撃されるが、襲撃グループが松尾伝蔵を岡田と誤認・殺害したことで難を逃れた。
そのうえで、彼らは陸軍首脳部を通じ、に昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。 午前5時、遂に蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達され、5時半、戒厳司令官から第一師団長に発令され、6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。
温厚で天皇の信任も厚かった斎藤を殺害された宮中グループの憤激は大きく、全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。
一本あげよう。
勇将真崎有リ。
真崎大将と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。 その直後に宮中に居合わせていた鉄道大臣は、石原を始めとする幕僚たちの強弁で傲慢な態度を目撃しており、「夕景に至る頃おいには、軍務局員や参謀本部の石原莞爾大佐らが、閣議室(臨時閣議室)の隣室に陣取り、卓を叩いて聞えよがしに、戒厳令不発令の非を鳴らし、激烈な口調で喚きたてていたが、石原大佐ごときは帯剣をガチャつかせて、閣議室に乗り込み強談判におよんで来たので、僕らは『統帥部と直接交渉は断然ことわる、意見は陸相経由の場合のみ受取るから……』と、はねつけた」と証言している。 ちなみに橋本は、石原との会談前の2月26日の夕刻に反乱軍が占拠している陸軍大臣官邸に乗り込み、「野戦重砲第二連隊長橋本欣五郎大佐、ただいま参上した。
5この事件は、将来クーデターを試みる際には、兵力を利用する必要があることを陸軍の青年士官たち(五・一五事件の計画を知ってはいたが関与しなかった)に認識させた点で重要である。 香田大尉・歩一旅• 磯部は獄中手記で「……以来、干犯されること二度に及び、を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。
これはまた「国家改造は陸軍省、参謀本部がやるから青年将校はおとなしくしておれ」というメッセージでもあった。
相沢事件 [ ] 1935年白昼に、国体原理派の一員であり、真崎大将の友人であった相沢三郎中佐が、報復として統制派の中心人物、長を殺害する事件を起こした。
南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること• 事件後しばらくは「 不祥事件(ふしょうじけん)」「 帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」 とも呼ばれていた。