法名は如覚。
本来、「如才」は「如在」と書かれていました。
又、暇のなき人も、思ひの外、暇多き人よりも功を為すもの也。
「色をも香をも思ひ捨ててし後、昔聞きしことも皆忘れてなむ」 とのたまへど、人召して、琴取り寄せて、 「いとつきなくなりにたりや。
すさまじげなるけしきなり」 と、御供の人びと見知りて言ふ。
武王曰:「予有亂臣十人。
いはけなき人びとをも、一人はぐくみ立てむほど、限りある身にて、いとをこがましう、人悪ろかるべきこと」 と思し立ちて、本意も遂げまほしうしたまひけれど、見譲る方なくて残しとどめむを、いみじう思したゆたひつつ、年月も経れば、おのおのおよすけまさりたまふさま、容貌の、うつくしうあらまほしきを、明け暮れの御慰めにて、おのづから見過ぐしたまふ。
心のうちには、かの古人のほのめかしし筋などの、いとどうちおどろかれて、ものあはれなるに、をかしと見ることも、めやすしと聞くあたりも、何ばかり心にもとまらざりけり。
十分な配慮をせず、手抜かりがあること。 しかしこのように夜に甲冑を枕として眠り、昼に弓を持って戦うことの真意は、ただ偏に亡き父君の御霊の怒りを鎮めるという長年の悲願のみにて、義経にそれ以外のいかなる望みもございませんでした。
然るに我等は容易に之に安住することが出來ぬ。
「如才ない」とは「如才」を「ない」と否定しており、「手抜かりがない」ことを意味します。
「このわたりに、おぼえなくて、折々ほのめく箏の琴の音こそ、心得たるにや、と聞く折はべれど、心とどめてなどもあらで、久しうなりにけりや。
何が善だやら惡だやら、何が眞理だやら非眞理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。 私が信ずるとは、どんなことか、なぜ、そんなことをするのであるか、それにはどんな效能があるか、と云ふ樣な色々の點があります。 ちなみに「妙齢」とは「若い年頃、としごろ、うら若い」という意味です。
1容貌なむまことにいとうつくしう、ゆゆしきまでものしたまひける。
昼間性感染症の積極的疫学調査の件で米軍からも突然 電話で意見を求められるなど、言葉にからんだ1日でした。
不書尽詞。
赴大和国宇多郡竜門牧之以来。
〉 八之七 曾子曰:「士不可以不弘毅,任重而道遠。 (白石良夫訳, 2009, p. 中将の君、なかなか、親王の思ひ澄ましたまへらむ御心ばへを、「対面して、見たてまつらばや」と思ふ心ぞ深くなりぬる。 音読みの成り立ちは実際にはもっと複雑ですが、長くなるのでここでは割愛します また、「ご如才なきことながら」尊敬語表現ですので、その文章も全て敬語表現を使うのが一般的です。
13硯召して、あなたに聞こえたまふ。 私の信ずる如來は、來世を待たず、現世に於て、既に大なる幸福を私に與へたまふ。
「ない」と否定されているので、なんとなくネガティブな意味合いの言葉と勘違いし誤用している方が多いですが、「如才ない」は良い意味の言葉です。
三分天下有其二,以服事殷、周之德,其可謂至德也已矣!」 〈 舜臣 ( しゆんしん )五 人 ( にん )ありて 天下 ( てんか ) 治 ( をさ )まる。
「私は私」と言葉で言えど、その「私」が何者であるのかを問うてくる声、書類、身分証明。
然るに、私は宗教により、此苦みを脱し、今に自殺の必要を感じませぬ、即ち、私は無限大悲の如來を信ずることによりて、今日の安樂と平穩とを得て居ることであります。 「山おろしに耐へぬ木の葉の露よりも あやなくもろきわが涙かな」 山賤のおどろくもうるさしとて、随身の音もせさせたまはず。
伺便宜令達高聞。
われは浮かばず、玉の台に静けき身と、思ふべき世かは」と思ひ続けらる。
本意併奉休亡魂憤。