ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】. 次に、事件の経過を示しておく。 8月3日 徳川家康、浜松城から岡崎城へ(松平信康と話し合い) 8月4日 松平信康、大浜城へ護送し幽閉 8月9日 松平信康、堀江城へ護送し幽閉 8月10日 徳川家康、岡崎衆に「松平信康に味方しない」という起請文を書かせる。
そのため、すでに天下人として「上位権力」となっていた信長の「命令」を あえて仰ぐかたちで、信康と築山殿の処刑を一気に推し進め、家康自身は「ふたりの処刑は不本意だったが、信長の命令で仕方なくやった」ということにして、家中の対立を少しでも抑えようとした可能性もあるだろう。
また信康は同母の妹であるが没後に徳川に寝返ったにすぎないの正室になる(つまり義弟になる)事に「敵方の者を聟にはなかなか成し難し」と強硬に反対した(『』)話もあるなど、信康と家臣団の間で軋轢が生まれていた面も伺わせる。
しかし、天正7年(1579)8月3日、家康が岡崎城を訪れ、翌日に信康は岡崎城から大浜城に移されます。
信長の関与はあったのか となると、その4年後の「松平信康事件」の根っこもまた、この徳川領国における東西対決が背景にあったであろうことは容易に想像できる。 長女: - 正室• 姑である「築山殿」は、中々男児が誕生しない信康を心配し、側室を送り込んだ・・・とされています。
4そして岡崎城から信康を退去させ、南西20キロほどに位置する大浜(現在の愛知県碧南市)の地に待機させた。
浜松市 築山殿(浜松では「築山御前」と呼ぶ)の胴塚は、御前谷(ごぜんだに)にありましたが、百年忌法要の時に西来院に移されたそうです。
是、信長之雖為聟、父家康公の命を常違背し、信長公をも 被奉軽、被官以下に無情被行、非道間如此。
国立国会図書館デジタルコレクション、藩翰譜巻6、• また、天正3年(1575)から信康は甲斐武田氏との合戦に出陣したが、目立った軍功がなかった。
つまり切腹させられた人が悪いことを印象付けるために信康を貶める内容になったと考えられられています。
服部半蔵なら、松平信康の介錯や、「神君伊賀越え」に繋げられるし。
栄光の歴史を守るために歴史を改変 さらに深読みをするならば、家康自身、家中の混乱と分裂を避けるためには、すでに嫡男信康を「処断」する必要を認め、その覚悟を決めていた可能性もある。
是皆織田右府の仰によるところとぞ聞えし。
こころに望(のぞみ)おこらば、困窮(こんきゅう)したる時を思いだすべし。 (ドラマでは、この仲介役は、朝比奈泰勝ではなく、今川氏真だとしています。
2武田信玄も、息子の「義信」が謀反を起こした際、死罪を下しています。 織田も武田も領土を着々と広げる中、生き残りをめぐって意見が割れる徳川家。
本多隆成 ほんだ たかしげ 氏の著作『徳川家康と武田氏』という本では、まさにこの松平信康事件の印象を覆す意外な事実が続々と語られています。
これでは、単なる手紙である。
そのあたりが、非常に見えづらくなってしまったのだ。
「信康廟」(清瀧寺) 「天正七年(一五七九)九月十五日岡崎次郎三郎信康が信長の口難に逢い二俣城において自刃した。 戦争は長期化し、その経済的負担も大きかった。 何共して息三郎殿を勝頼が味方に申勤玉ひ、謀を相搆る信長と家康を討亡し玉ふに於ては、家康の所領は不及申、信長の所領の内、何成共望みに任せて一ヶ國、新恩として可進(まいらすべし)。
8ドラマでは、まだ、松下常慶が活躍しているけど、松下常慶は出世しているので、服部半蔵の方がいいと思う。
天正4年(1575)4月、信康の家臣大岡弥四郎とその家臣が敵対する武田勝頼に内通し、武田勢を三河に引き入れて岡崎城を引き渡そうと企んでいたことが発覚。
」と「『切腹しろ』と言ったのに『出来ない』というので、追い出しました。
勝ツ古と志りて負る事を志ら祢ハ、禍其身尓至る。
崇号神明。 「これみな讒者のいたす所なりといへども、よしや若殿、よらかぬ御行狀あるにもせよ、そは某が年頃輔導の道を失へる罪なれば、某が首を刎て織田殿へ見せ給はゞ、信長公もなどかうけひき給はざるべき。
しかもこれまで敵として衝突していた信長と清洲同盟を結び、今川氏と敵対関係となりました。
信康を岡崎城から退去させた直後、家康は岡崎の南西に位置する西尾城に自らの従弟である松平康忠や側近の榊原康政を配備していた。
直虎と直政と信康は、実は「再従兄弟姉妹(はとこ)同士」• 家康が武田氏との戦争続行を主張する一方で、信康は武田氏に接近を図ろうと考えていたからだ。