カミュ の ペスト。 新型コロナの予言に満ちた小説『ペスト』が示す感染症の終わり|古典にすべてが書かれている。|坂口孝則

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カミュ の ペスト

爆発的に売れていると聞いて『ペスト』を読んだ。 あらすじを追えたくらいだったが、いちばん興味を惹かれたのは、アルジェリアのオランで都市封鎖された人々が享楽に耽ったというところ。 緊急事態宣言の日本とは真逆やないの。 それから、タイトルはペストなのに、「リンパ腺腫を切開」などという記述はあるものの、症状や感染経路など、病気そのものの記述が少なかったことが意外だった。 肺ペストは飛沫感染もあるが、腺ペストはノミや感染した人の体液による。 新型コロナウイルスとの感染経路の違いが行動に大きな違いを与えたのだ。 新型コロナは不顕性感染の率も高そうで、享楽など決して許してはくれない。 ペストと聞いてまず誰を思い浮かべるか。 ほとんどの人はカミュだろう。 だが、私は違う。 北里柴三郎だ。 19世紀末に香港でペストが大流行した時、日本政府は6名の調査団を派遣する。 その二大巨頭は北里と帝国大学医科大学(現在の東大医学部)教授の青山胤通。 世界の北里と帝大の青山、超大物二人を派遣した政府の本気度がすごい。 ペストの恐ろしさは並大抵ではない。 生きて還れぬかもしれないと決意して参加した青山は、病理解剖でペストに感染してしまい、文字通りに死線をさまよう。 それを知った北里のパトロンであった福沢諭吉は、北里を殺してはならないと帰国を促す電報を打つ。 しかし、北里は応ぜず、青山が回復するまで治療にあたった。 えらいぞ北里! でも、ペスト菌の同定では、北里らしからぬ「お手つき」をしてしまい、その業績をフランス人研究者イェルサンにさらわれてしまったんよなぁ。 とか、本の内容にいまいち集中できなくて、こんなことばかりが頭に浮かんだ。 で、そんな状態やったのに、魔がさして、不朽の名著についての依頼(この原稿です)を引き受けてしまった。 再読したが、やっぱり難しい。 ちょっとずるいけどNHKの「100分de名著」を参考にさせてもらうことに。 ふたつの大きなヒントがあった。 ひとつは、病気そのものが不条理であるというさんのお話。 そうなのか、病気は不条理なのか。 なまじ病理学などを知っているから、理屈ばかりが先走る。 感染症でもなんでも、病気に罹るかどうかには運不運がある。 しかし、不条理などとは思いも寄らなかった。 アホやった。 カミュといえば不条理やん。 もうひとつは、ゲストで登場された先生が、カミュが大好きだと子どものように嬉しそうに語られた内容。 カミュの作品の素晴らしさは、「ためらい」と「身体性の高さ」にあるという。 不条理、ためらい、身体性という三本の補助線に助けられながら、三度目の挑戦。 やはり不条理感はあまり持てなかったが、不思議なことにペストはどんどん遠景になっていった。 それにかわって、別離の物語であるということが心に沁みてきた。 わかる人には一度でわかるんだろうが、「100分de名著」でカンニングして三回読んでようやくわかった。 親子、友人、夫婦、恋人、さまざまな別離が重要なテーマであると。 いきなりだが、別離といえば「仮名手本忠臣蔵」である。 この狂言がうけ続ける理由はいくつもあるけれど、さんの『』によると、ありとあらゆる別離が描かれているからこそだという。 そういえば、この小説も別離を描いた浄瑠璃文楽の通し狂言みたいではないか。 通し狂言では、理解しやすい段としにくい段、明るい段と暗い段、などが巧みに組み合わされている。 それと同じように段分けしてみたらえらくよろしい。 「神父煩悶の段」での主人公リウーの思考などはためらいに満ちている。 他、「黒死病猖獗の段」、「保健隊結成の段」、「病都解放の段」などなど。 橋本さんの本には、浄瑠璃話はわからなくともあるがままに受け入れるべしともある。 そうなんや。 『ペスト』も、ようわからんところは、そうしておいたらええんや。 もう一点、仮名手本といえば、浪士たちの連帯の物語である。 『ペスト』も同じく、リウーと周囲の人々が連帯し、命がけで疫病に立ち向かうのがメインストーリーだ。 すれば、さしずめ高師直がペストといったところか。 不条理の源は違えど、いずれも別離と連帯の大長編と結論した。 で、四回目。 は、まだです……。 しかし、さすがは古典中の古典だ。 思い起こせば、一回目より二回目、二回目よりも三回目がはるかに面白かった。 難解、暗い、不条理と嫌がらずに繰り返し接しているうちに、どんどん面白みが増してくる。 これも文楽と同じやんか。 と、ひとりで納得。 (なかの・とおる 大阪大学大学院医学系研究科教授) アルベール・カミュの『ペスト』が売れている。 Amazonでも品切れで(調べたのは三月初旬)、入荷は月末三十日。 原因はいま騒がれているコロナ・ウィルスだろう。 じつは筆者、一月下旬に武漢封鎖のニュースに接したとき、最寄駅近くの大型書店へ行って、の棚に『ペスト』があるのを確かめてみた。 ドラッグ・ストアから消えたマスクと違って、文学にまでは影響がとどかないのか、と感じた。 一週間ほどして、書店に立ち寄った際、文庫の棚の前を通ったとき、カミュの並びから『ペスト』が消えていた。 『』は二冊も残っていたのに。 本稿の依頼を受けたのは、それからしばらくして。 読み返そうと文庫を探したが、あるはずの書棚になく、その折、Amazonも月末まで品切れと分かり、かろうじて中古の文庫版を注文したのだ。 とどいたのは、学生時代のものとは違って、一冊本で、活字も大きくなっていた。 アルジェリアの港町オランが、194*年、とつぜんペスト禍に見舞われ、十か月ほどに及ぶ都市封鎖を経験する。 そのなかでの、災禍との戦いのプロセスが、医師・リウーの目から語られている。 学生時代、鮮烈な読後感を残した『異邦人』に比べ、生意気にも、『ペスト』は方法論的に後退したと感じたが、読み返して、印象は一変していた。 短篇向きの、実存主義が好む「状況」は繰り返しがきかないのだが、それを『ペスト』は刻々と変化する事態として取り入れても劣化させず、しかも長篇でしか出せない物語の起伏と醍醐味を差し出していて、目から鱗だった。 『ペスト』の読後感が変わったのには、いまわれわれを取り巻く「状況」も関係しているだろう。 病原菌とウィルスではまったく違うが、都市封鎖という小説のなかの出来事は、武漢どころか、日本の玄関口でも見ることができた。 ダイヤモンド・プリンセス号の船内封鎖の推移を毎日テレビで追いながら、刻々と、見ているこちら側も日本という国に封鎖されていくという実感をもたずにはいられなかった。 状況の細部は違うのに、『ペスト』の、「それは自宅への流刑であった」という一行がわれわれの感覚を言い当てているように感じられた。 小説に即して言えば、冒頭からの、まるでランダムに起こるかのようにネズミの死骸の増加を語るカミュの筆の乾いたタッチに怖さを感じた。 菌を媒介するこの小動物から、ウィルスをまき散らしているかもしれないと恐怖に思う他人のセキやクシャミの飛沫を連想するからか。 オラン市内を走る満員電車の描写にも、「すべての乗客は、できうるかぎりの範囲で背を向け合って、互いに伝染を避けようとしている」とあって、深くうなずいていた。 コロナ・ウィルスが報道されるようになって、電車のなかで、どうしてもマスクをしていない乗客を避けようとしてしまう自分がいる。 それこそ、背中を向けてしまうことだってある。 風邪やインフルの流行時には、むしろマスクの人を避けていたのに。 夏の海水浴が禁止されたことを語るくだりに、ペストが「あらゆる喜びを追い払ってしまった」というひと言を見つけ、ライブの中止やら、Jリーグやプロ野球の試合延期を連想してしまう。 その意味でも、われわれは「自宅への流刑」を余儀なくされているのだが、おそらく、そうした寓意の先には、オリンピックやパラリンピックの延期や中止までもが見えてくる。 政府もジャーナリズムもはっきり言わないが、そうしたことについても、ペストを疑うリウーの要請した「保健委員会」で知事や当局は消極的だし、「新聞」は「何ごとがあろうとも楽観主義」を貫く、と『ペスト』には書かれていて、なぜなら市民も(われわれ国民も)それを望まないからだ。 そもそもペストじたい戦争の寓意として書かれている、と言われているが、いまのコロナ・ウィルスがペストから引き継ぐ寓意の連鎖の先に見えるのは、占領下の一地域の孤立ではなく、ウィルスを敵とした全世界を巻き込んだ全面戦争ではないだろうか。 寓意に充ちた『ペスト』の力もそこにあって、『ペスト』が売れだしていることじたい、この小説が「自宅への流刑」に必要なアイテムになる、と人びとが気づきはじめているからだろうか。 (よしかわ・やすひさ フランス文学者).

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カミュ、宮崎嶺雄/訳 『ペスト』

カミュ の ペスト

【内容情報】(出版社より) アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。 ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。 外部と遮断された孤立状態のなかで、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を呼んだ長編。 【内容情報】(「BOOK」データベースより) アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。 ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。 外部と遮断された孤立状態のなかで、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を呼んだ長編。 【著者情報】(「BOOK」データベースより) カミュ(Camus,Albert) 1913-1960。 アルジェリア生れ。 フランス人入植者の父が幼時に戦死、不自由な子供時代を送る。 高等中学の師の影響で文学に目覚める。 アルジェ大学卒業後、新聞記者となり、第2次大戦時は反戦記事を書き活躍。 またアマチュア劇団の活動に情熱を注ぐ。 以後、持病の肺病と闘いつつ、『転落』等を発表。 交通事故で死去 宮崎嶺雄(ミヤザキミネオ) 1908-1980。 東京生れ。 東京帝大心理学科中退。 岸田国士に師事、バルザック、サンド、メリメ、カミュ等、多くの仏文学を翻訳紹介。 戦後創元社編集長を務めた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです).

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新型コロナの予言に満ちた小説『ペスト』が示す感染症の終わり|古典にすべてが書かれている。|坂口孝則

カミュ の ペスト

の『ペスト』に関するテレビ番組を見た。 そして考えたのは、当たり前のことだが、 人は誠実であるべきだということだ。 今からでも遅くない、自らの仕事に誠実に努めて行こう。 「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さ」なのだから。 というお話。 (「マスクと消毒液」より) 【の『ペスト』】 畑仕事や庭仕事が忙しい時期なのに、やたらとサボってテレビの情報番組ばかり見ていたのが、民放の情報番組とネットニュースは見ないと決心してからは思った以上に時間ができてしまい、そこで行ったのが疎かになっていた読書と、溜めたままになっていたVTRの視聴です。 昨日はNHK/Eテレで土曜日に放送した「100分de名著:『ペスト』」を観ました。 2018年6月に放送したものの4回分を、一挙再放送したのです。 もちろん今回のコロナ禍を意識してのことですが、現在『ペスト』は多くの書店で文庫本のベストセラー1位に躍り上がっており、ネットショップでも購入できません。 は、やとともに私が若いころ最も夢中になって読んだ作家のひとりです。 しかし日ごろはすっかり忘れていて、本棚を気にすることもありません。 ところが今回に関する番組を見て、その中で『ペスト』の重要な節をいくつか紹介されているうちに、自分がにどれほど影響されていたか、今でも心の底にどれほどしっかりと根を下ろしているか知って、改めて驚いています。 自分には才能がある、しかし世の中にはとんでもない博識や才能がウジャウジャいて、彼らの前には全く歯が立たないかもしれない、そんなふうに考えていたわけです。 自ら招いたある種の四面楚歌で、それがペストで封鎖された町の心象とよく合ったのかもしれません。 【ほんとうに語るべき話を持っている人々は語らない。 多くはマスメディアに呼ばれない】 私は半分正しく、半分間違っていました。 「世の中にはとんでもない博識や才能がウジャウジャいる」のは確かですが、その人たちが全員、陽のあたる場所にいるわけではなく、目立つところにいるのはむしろ浅学菲才のハッタリ屋、もしくは多少の誇張や非科学、推論・偏向は許されると考える人々です。 私は今回の新型コロナ禍の中でたくさんの情報番組を見、かなりの量のネット記事を読んできました。 そして最終的に理解したのは、ほんとうに貴重な考えを持っている人たちは黙して語らない、少なくとも問われるまでは発言することはない、ということです。 について、ほんとうに分かっていることは「分かっていることがあまりにも少ない」ということです。 私は新型コロナの致死率に、ついてたくさんの数字を見てきました。 若い人は発症しない、もしくは発症しても軽症で済むという話も聞きました。 罹患者の8割は他人にうつすことはないという話もありました。 PCR検査があまりにも少ない、もっとたくさんすべきだと突き上げる人々もいました。 (知事もそうした突き上げに合いましたが、知事としても誰に検査をしたらよいのかわからず困ったことでしょうね。 感染者ゼロの状態で濃厚者など見つけようがないからです) 韓国の防疫体制を見習え、という話もありました。 しかしそれが真似のできるものかどうか、調べて語る人は少なくとも目立つ場所にはいませんでした。 韓国と並んで準戦時態勢にある台湾、、これらの国・地域が感染に強いことをきちんと説明できる人も、マスメディアでは語っていません。 メディアにとって必要のない人たちだからです。 フランスの医療体制を見習えという長い記事を読んだことがあります。 ドイツは完璧だといった文章も読みました。 を見習えという人もいます。 しかしそれらはすべて今も新型コロナと戦っている国々です。 先のことは分かりません。 今の時点で賞賛したり、ましてや慌てて同じことを始めたりするのは危険です。 日本は大丈夫だという話もたくさん聞きました。 しかしその人はいったん新型コロナ感染と診断された患者が、恐ろしく長い期間、病院から出られない可能性について考えなかったのでしょう。 今月14日の段階で、ダイヤモンド・プリンセスの乗客で今も入院中の患者が15人もいるのだそうです。 それくらいたいへんな病気なのです。 これまでに退院できた人が900人少々、そこに新規の感染者が毎日500人以上かぶさって来るのですから直前といわれるのも当然です。 【踊る人々と誠実な仕事】 そんなことは前々から分かっていて、感染の専門家たちは以前から狂ったように警鐘を打ち鳴らしていたのです。 それを聞きながら、ほとんどの人たちは無視を決め込んでいました。 聞きたくない話に耳をふさぎ、心地よい話ばかりに耳を傾けていたのです。 1月~2月にかけて、国会の主たる議題は「」「」で、新型コロナに関して真剣な討議が行われた記憶がありません。 大規模感染に対する準備はほんとうにできているのか、病床や医療機器、医師や看護師の確保はどれくらいできいているのか、それは確認したのか、検査体制はどうなっているのか、PCR検査を行わないことの合理的な説明をしてほしい等々、必要な議論は山ほどあったはずです。 首相も政府も不誠実でしたが、野党も不誠実でした。 大切なことを横に置いて、政局にならない、追い詰めきれないとわかっていることをいつまでもいじるのは、単なる嫌がらせでしかありません。 まさかの『ペスト』に出てくるオランの町の人々が、オペラに興じて現実逃避をしていたように、や桜に逃げ込んでいたわけでないでしょう。 しかし私は思うのです。 Eテレの「100分de名著」の中で、焦点をあてて私の記憶を呼び覚ませてくれた『ペスト』の重要な一節がありました。 それは登場人物のひとりランベールが、英雄的な活動を続ける主人公の医師リウーに語りかける場面です。 「ところが、あなたは一個の観念のためには死ねるんです。 その様子が目に見えるようですよ。 でも僕は、観念のために死ぬ連中にはもううんざりなんです。 僕はヒロイズムを信じません。 英雄になるのは容易なことだと知っているし、それが人殺しをおこなうことだと分かったからです」 それに対してリウーはこう応えます。 「今回の災厄では、ヒロイズムは問題じゃないんです。 問題は、誠実さということです。 こんな考えは笑われるかもしれないが、ペストと戦う唯一の方法は、誠実さです」 「誠実さって、どういうことです?」 とランベールは急に真剣な顔になって尋ねた。 「一般的にはどういうことか知りません。 しかし、私の場合は、自分の仕事を果たすことだと思っています」 今の私にとって果たすべき仕事というのは外に出ないことくらいでしょう。 しかし県外に住む娘や息子、孫たちと会わないことも仕事(義務)だとして、それが半年・1年と続くなら、私にとってそれはかなりしんどい仕事だと言えます。 kite-cafe.

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