セル指揮クリーヴランド管弦楽団との共演によるベートーヴェン、ブラームス、モーツァルト、グリーグ、シューマンのピアノ協奏曲、フランクの交響的変奏曲、ラフマニノフのパガニーニ狂詩曲という定評ある名演に加え、小澤征爾指揮ボストン交響楽団とのラヴェル、プロコフィエフ、ブリテンの協奏曲、シモン・ゴールドベルク指揮オランダ室内管弦楽団とのヒンデミット『4つの気質』という協奏作品のほか、ソロの録音では、モーツァルト、ブラームス、ドビュッシー、ラヴェル、コープランド、セッションズ、カーシュナー、ロレムなどさまざまな作品を収録、室内楽ではコルンゴルトとフランツ・シュミットの作品を収めています。 厳しい競争の中、チャンスをつかもうと必死に練習する姿にかつての自分を重ね、心配になることがあります。 8歳でデビューし、16歳で指揮のと共演した。
11発症のメカニズムはまだ解明されていませんが、演奏家の場合、難しい指の動きを繰り返すことが脳の神経回路に異常をもたらすと考えられています。
外語大在学中、CD「Primavera」(2008年3月)でピアニストとしてデビュー、「レコード芸術」5月号誌上にて特選盤に選出され、「作品の内面と一体化した純粋な表現は聴き手を惹きつけてやまない」(那須田務氏)などと高く評価される。
両手が使えた時は生徒をどかして見本を示せばよかったのです。
2010年秋にスタートした「サントリーホール室内楽アカデミー」。
一方、ブラームスの方はピアノ付き交響曲などと呼ばれるだけあって、セル&クリーヴランド管の実力を遺憾なく伝える演奏が実現されており、第1番冒頭の迫力など圧倒されるばかり。 治療法には3つあり、1.ボツリヌス毒素の注射、2.リハビリ、3.脳外科手術、という。 厳しいオーディションを勝ち抜いた16名のフェローが、コーチング・ファカルティとの定例ワークショップのほか、内外第一線で活躍する音楽家を講師に招く「特別ワークショップ」に参加、室内楽のプロフェッショナルの道を目指します。
9セルとの共演を数多く残した全盛期から、難病により右手が使えなくなった苦難の時期、そして病を乗り越え、再び両手を用いて演奏できるようになった5年前の録音まで、ピアニスト、フライシャーの生涯が、録音年代順に並べられたオリジナルジャケットを眺めるだけでも感じられるセット。 当時のナレーションがそのまま流れる) 「指揮はピエール・モントゥ、ソロは16歳のレオン・フライシャー。
「私は絶望していました。
彼は数週間エルハルト式セミナートレーニング(自己啓発のトレーニング)にさえも参加しました。
モーツァルトの軽やかな音が、フライシャーの手によって慈愛を纏って駆け抜けてゆき、フレーズの終わりは、それが名残惜しいかのように丁寧に収められる。
言われてみれば当然のことなのだが、これが本当に実現できれば、演奏において理想と現実の乖離に悩まされることは、技術的な問題を除けばほとんどなくなるのではないだろうか。 【竹澤恭子】私にとってフライシャーさんの存在というのは、本当に大巨匠で近寄りがたい存在。 が指揮すると共演して、一連の録音を残す。
7本物の芸術家とは、こういう人のことを言うのでしょう。 人生経験を積み、内面を磨くことで深く豊かな演奏が可能となるのです」 フライシャーの右手は完全に回復したわけではありません。
今も何が起きるか分かりません。
その結果、本来緩めなければならない筋肉に対して収縮するよう誤った指示が出され、意思に反した筋肉のねじれが起こるのです。
その方と共演させていただく機会を持ちまして、どう接したらいいのか、本当に一緒に音を出していいのか、緊張していたんですけど、最初に握手をさせていただいた時に、彼のあたたかい笑顔と、厚みのある手のぬくもりに、一気に緊張が解きほぐされまして、ユーモアあふれる魅力的な方だと感じました。
その理由をここで詳しく述べることはしないが、キリストへの拷問が極度に痛々しく描かれているということは、彼を糾弾したユダヤの民衆は悪魔化されることとなる。
そのためには、ソリストはどこでどう自分のヴィルトゥオージを発揮するかを画策する訳である。
完璧な演奏を追い求める人たちがいます。
ですが4~5時間を超えると集中力が切れてしまいます。
作品の本質をしっかりと捉えることのできる人でした。 有名で、やはり最大の聴きどころの一つである第3楽章では、胸に喚起される感情のすべてが涙となって溢れ出してしまい、何が何だかわからないような状態になっていた。
7教師としての責任に目覚め、指揮活動も始めました。 それによって、ラフマニノフの声が代弁されているにもかかわらず、フライシャー自身がそれを経験したかのような真実味が生まれる。
脳外科手術については何て言ってたっけ。
酒井先生はリハビリを勧めている。
字を書こうとすると、疼痛あるいは痙攣を伴い、書くことが困難となる。
私とフライシャーの出会いは、大学2年の初夏のことだった。 Miscellaneous Impressions of Dr. 【竹澤恭子】実質的に楽器を演奏できなかった35年間、指揮者や教育者をやりながら、楽器が弾けなくても、その中で音楽に対する情熱を深めていかれたからこそ、彼の演奏はいつ聴いても説得力を持って伝わってくるんですね。
11当時はまだ病名さえわかっていなかったという。
【酒井医師】ジストニアの症状というのは不思議なもので、ゆっくり演奏すると、ひとつひとつの指に意識が入って、症状が起こらない、そういうところがあるんですね。
目にもとまらぬ超絶技巧を見せる曲・演奏家もあれば、まるで自分が世界の中心にいるかのように、恍惚とする歌を聴かせる曲・演奏家もいる。
大地のうねりを感じさせるような重厚で深みのある音色、これに私は耳が釘付け状態になりまして、非常に魅せられました。
【酒井医師】フライシャーさんもこの治療を受けられたそうですけれど、ボツリヌス毒素というのは神経に作用して筋肉を和らげます。 当時録画していたDVDを引っ張り出してきて久しぶりに見てみたのですが、本当に素晴らしい内容でした。 その教えがフライシャーの原点となりました。
来日が多い音楽家ではなかったし、年齢的にも2015年のあの来日公演が最後になるのではと常に思っていたので、思いのほか静かにその報せを受け取ることができたが、それでも、やはりもう聴けないというのは悲しい。 彼は多くのことに触発され、それを生徒に吹き込んでくれました。
これからまた気の向くままに、色々な名曲・名盤・名演を取り上げよう。
私は所沢の防衛病院整形外科で指の診察を受けて、書痙(しょけい)だと診断された。
NHK「芸術劇場」冒頭スタジオ NHK「芸術劇場」は1959年に始まった長寿番組でしたが、残念ながら2011年3月に終わってしまいました。
1952年にピアノ部門で第1位入賞するも、を患って1960年代に右手の自由を失った。 そして、音楽と人間が不可分なものであるならば、音楽において最も重要なことであるそれは、そのまま人間力にも敷衍することができるはずである。 ゲスト・ファカルティとして講師に招くのは、音楽に向き合う真摯な姿勢と取り組みを、惜しみなく若者に受け渡していくことを使命と考えている名匠たち。
8慎ましくも飛び跳ねる光の粒が常に翳を伴っているのは、過ぎ去ったものへの追憶を含んでいるからだろうか。 【礒野アナ】実はこのジストニアという病気、あまり知られていませんけれど、多くの方がかかっているということなんですね。
ですから勝手に筋肉が収縮している状態に作用すると、筋肉が和らいで症状が軽くなるという、一種の対症療法ですね。
どれが名盤かなんて、結局は人の好み次第だけれど、僕が個人的に「これは大いに聴く価値がある!」「これなら買っても損はしない!」と思ったものを選んで書いていくつもりだ。
ゆっくりした演奏からだんだん早くしていくというリハビリテーションのプログラムを作ってあげると、最終的には回復してステージに復帰される方もいらっしゃるということですね。
「皮肉なもので、ジストニアには 痛みはありません。
ラインスドルフの後を継いでクリーヴランド管弦楽団の常任に任命されると、軍隊のような訓練でオケを鍛え上げ、世界トップの演奏技術の高さまで引き上げたという逸話は真実である。
その頃彼は、彼の右手小指が弱くなってくるという問題に気付き始めたのです。
フライシャーは大ピアニストであるアルトゥール・シュナーベルの弟子であり、シュナーベルの師はポーランドの巨匠レシェティツキ。