50年ごろに書いたとみられるメモは、スランプに陥った様子がうかがえる。 冬木のこの発言を東堂は「言うべからざる(あるいは言う必要のない、あるいは言わぬほうがよい)こと」と捉えている。 しかしそうではない。
15これまで書いてきたことを繰り返せば〈問い〉とは上官・新兵がともに遵守しなければならないとされている法を根拠にして上官からの不条理横行をるという概して理性的な=打算的な行為であったのだった。
東堂の彼女:戦争で夫を亡くした。
戦争は悪い。
まあ、私もまだ28歳とかだったので甘かったのだ。
軍隊で大西巨人はそれを体験したのだ。 東堂は自分が「忘れました」と答えさえすればそれで済むのだとは思った。 ある大学生が初めて入った酒場の女主人を抱きかかえて飛び降りた事件がある。
冬木照美:同上• 確かにそうではあるが、それだけではない。
同じく、村上少尉が「聖戦」の目的を開陳する場面が淀みなく進行する一方で、村上が橋本に話を向けた途端、それまでのペースが乱され、その場が橋本の独擅場と化してしまうこと、これこそが橋本の武器である。
こうした的演説の切断は橋本にのみ可能な行為ではない。
百一:百回に一回しか真実を言わない奴。
しかしその日は沖縄を切り捨てた日でもある。 (11)は冬木の「正解」が意味するもの は、「だれも殺さない」という一点にある と断じているが、これは冬木が「撃たな い」ではなく「撃たれます」と応答したこ との意義を見落としているだろう(前掲立 野、二五一頁)。 しかしこの薄ら笑いを浮かべる新兵、吉原に「怒りと侮蔑を剥き出しにしたような」村崎が突然平手を食らわせるのだ。
村上は皇国の戦争目的とはいかなるものかについて新兵に問う。
78年に執筆された「奥書き」で「約四千枚」と書いていたが、2年後の校正で「七百」の文字がそこに加筆された。
大西は幾つかについて具体的に引例しているのだが、ここではその一、二のみを挙げておこう。
は、そのもっとも初期の『』論において、「さるにても」や「……にあらざるなし」といった『』中の「文語的表現」を指摘し、「言語といふものは、なかなか統一的方針で処理して行けないもの、文章といふのは不純なのが普通といふことの証拠」と述べている。
先に〈問い〉の限界の一例として鉢田の外見上の「畸型」が上官によって嘲笑される場面を挙げた。 もはやその発し方、声量までをも成型しにかかるのである。 今まで東堂は法的知識によって上官をやり込めてきたが、たった一度軽い規則を破ったために、大前田に法的に追い詰められ罰を受ける。
6それもそのはずで、ここまで〈問い〉によって不条理に抗してきた東堂にとって身代わりになることと引き換えに末永の営外への離脱ならびに民家での窃盗の罪が取り消されるというのは(の手によるものではないにしても)「法の蹂躙」であって矛を向けてきた当のものである。 「見るからに無慙な形相」で泣き叫ぶ末永を「座興の嬲り者」として扱う仁多軍曹らに対して、東堂は、それを「人間の魂にたいする侮辱凌辱」とみなし、生源寺による制止をふり切りながら「止めて下さい。
著書に『ショッピングモールの法哲学 神聖喜劇も視点は東堂たち二等兵たちだが、描かれるのは軍隊や上官への批判、糾弾ではない。
但無論是馬西莫還是馬里奧,戲裡戲外,都是一首動人的詩篇。
それは「角錐状階級系統」の頂点に屹立する人物とその追随者たちの手に握られていたのである。
上官は彼らを叱責したが、東堂は呼集の時間を「知りません」と答えた。 戲裡戲外,都是動人的詩篇 政治還是愛情,亦或是對聶魯達的思念,如果只是等待,就很難看到他們自己轉變的一天。 ところが、「あっ、鈴木さん。
11このように東堂の暴力否定は、暴力が人倫に照らして不当な抑圧を斥けるためになされる場合に限り一時的に解除されると言えるだろう。
しかし、にもかかわらず冬木は「天を撃つ」のである。
大学出か否かについて問われた際になされた東堂の思索「ある特殊個人における異常極端な潔癖は、しかもしばしば異常極端な不潔癖(?)を内包しがち(または同居せしめがち)なのである」とは、東堂の〈問い〉の性質を指呼してはいないだろうか。
洵ニ已ムヲ得ザルモノアリ。
また同様の理由から、「天向けて撃つ」ことを敵に自陣の位置を知らせ、味方を危険にさらす行為だとする見方(10)も首肯しがたい。
東堂は地方〔入隊前に属していた社会〕から持参した辞書を見せながらこれに反論する。
では暴力を完全には否定しない東堂が肯定する暴力とはいかなるものなのか。
おったら、名告って出て、ここに、身代わりの戦友たちの左翼に、ならべ」と村崎が扇動し、第一・第三内務班の計三二名が自分の名前を〈叫び〉これに呼応したのである。
過去に正当防衛とはいえ殺人を犯した事実を真率に見つめ「根限り力いっぱい、人のいのちを大切にして行かにゃならん」と宣言する冬木は戦場でお前は銃をどこに向けるのかと問われ次のように答える。 馬里奧在片中總是相對被動的人,不僅對政府沒有兌現的政治承諾無所作為,面對自己對碧翠絲的一見鍾情也只是手足無措,不過聶魯達後來為了馬里奧親自走進城鎮,才讓他的愛情有了轉機。 真似しようと思ってもできない。
3そう、神聖喜劇は、軍隊でのみ演じられるのではない。 しかし、東堂は「忘れました」という言葉を言うことを自分自身に「許すことができなかった」。
これについてきっちりと論じる、ということになるとなかなか踏みきれそうもないので、読後メモとしてこの文章を残しておくことにしました。
彼についてこれ以上述べると、多分に推理小説的な要素もあるこの小説の趣を損ねてしまうだろう。
その大前田は女性問題で逮捕される。
その後、によって化された。
私自身については、もはやほとんど何かを恐ろ しがりはしなかった。
東堂の〈問い〉は、それが依拠する法自体がという唯一者によって掠奪されており、蟷螂の斧と化すおそれが本来的に含有されているのである。
「それで末永が無罪放免になるとでありましたら、冬木は、身代わりに立つとをちっとも厭やしません」。
……あの不文法または慣習法を支えているの は、下級者にたいして上級者の責任は必ず常に 阻却せられていなければならない、という論理 ではないのか。
二等兵が上官に殴られ、いじめられ、だから軍隊は残酷だ。
その文章の生硬さもさることながら、主人公の設定(=超人的な記憶力の持ち主)から来る膨大な引用、出来事および引用それ自体を契機とした数十ページに渡る逸脱、言葉遣いや表現の綾に対する主人公の偏執的とも言えるこだわり等々、ことばそのものへの尋常ならざる執着を楽しむことがほぼ主眼となっているような小説でもある。
5巻読んで、驚いた。