今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。 399年 広開土王碑によると、倭が朝鮮半島に攻め入っている?• 徇葬者は男女の奴隷、百余人である。
9魏・晋との外交 [ ]• 伊都国に到る。 また、返り点をつけたものとして、『倭国伝』 がある。
汝の來使難升米と牛利は遠くを渉り、道路勤労す。今、難升米を以って率善校尉と為し、銀印 青綬を假し、引見してねぎらい、遣還を賜う。
官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。
身分の低い人でも2人や3人の妻を持っている人もいる。
その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。
したがって、「営州から東南、新羅を経て倭に至る。
ですから、魏志の要約引用は倭国の地理情報や風俗に限られ、魏との交流に関する記述はばっさり切り捨てられています。
失われてこれ以外は存在しないという貴重な書で、国宝に指定されています。
竹・木・草むら林が多い。
婦人不淫、不妒忌。
『親魏倭王』学生社、1971年。
(仲間ではないということ) 帯方郡から女王国(邪馬台国のこと)までは12000余り里(4800㎞または840㎞)である。
いずれにしても朝鮮半島を西の海岸線に添って南下し、木浦を通過して済州海峡に面した島々の間を縫いながら東進したことになる。 当時の(後の日本とする説もある)に、女王の都する(邪馬壹国 )を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。 以って滋味と為すを知らず。
およそ三百里四方。 「晋書」倭人伝 「倭人は、帯方の東南の大海の中に在り、山島に依りて居を為す。
尊卑は各(それぞれ)差序有りて、相臣服するに足る。
名之爲持衰。
次に為吾国有り。
若行者吉善、共顧其生口財物。 。 汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。
末盧国に至る。
国中遂に定まる。
(しかし)卑弥呼は亡くなってしまい、大きな 塚 つか(お墓のこと)が作られた。
「乍に」は、「あるいは」、「きゅうに」、「たちまち」と様々に読まれる。
武帝が朝鮮を滅してより使訳が漢に通じるのは 三 十(卅)余国。
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之 「租賦を収め、邸閣有り。
紫綬とするのは、記述自体は正しいことを言っているのだと思いますが、魏志倭人伝の制詔にある金印紫綬から類推したものと思われます。
原文 日本語訳 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都 景初二年(西暦二百三十八年)六月、倭の女王が大夫難升米等を遣わし、(帯方)郡に詣り、天子に詣り朝献するよう求めた。
倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。
耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。
張政らの報告書を書き換え邪馬台国の実際の位置を南にずらしました。
矢は竹でできていて、矢の先には鉄や骨の 矢 やじりがついている。
末盧国に至る。
婦人は、髪は結髪のたぐいで、衣服は単衣(一重)のように作られ、その中央に孔を明け、頭を突っ込んで着ている。
また、一方で、など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいないではない。
「東南の」について、併せて「倭人伝記載の方位について ここで初めて方位の記述が登場する。